騎士とたわわ

星彼方

騎士とたわわ

 

 やばいと感じたと同時に、ギデオンは膝から崩れ落ちるようにして砂埃の舞う大地に突っ伏した。

 魔法術で軽量化されているはずの胴当てがやけに重い。どうやら魔獣が最期に放った渾身の一撃をかわし損ねたようだ。

 ドス黒く闇色に染まった禍々しい魔獣の爪には魔毒が含まれている。鋭い爪により切り裂かれた左肩は、燃えるような熱と激しい痛みに苛まれていた。動く右手で解毒剤を開封して飲むも、一向に効いてくる気配がない。


(しまったな……まさか解毒剤が効かない未知なる魔毒なのか? )


 くだんの魔獣はギデオンに全身を斬り刻まれ、既に絶命していることが唯一の救いだと言えよう。

 ギデオンは衛生部隊員が近くにいないかと辺りを見渡すが、魔毒の回りが早いのか脳がぐわんぐわんと揺さぶられているような目眩に襲われて片膝をついた。


「これは、まずいな」


 まだ死ぬ気はないがこのままでは死にそうだ、とギデオンは朦朧とする意識の中で考えた。


「グリファルド小隊長!」


 どれくらい経ったのか。どこかで自分を呼ぶ声にちらりと視線を向けるも、視界が霞んで焦点が合わない。

 ギデオンは自分の意思に反してガクガクと震える身体を地面に押さえ付けて這いつくばる。じくじくと熱を持つ左肩とは対照的に身体に悪寒が走った。


「グリファルド小隊長っ、お気を確かに! 」


 再びギデオンを呼ぶ声がする。


「小隊長!!あぁ、なんてこと……魔毒が回り始めてる」


 口を開けば魔毒による激痛と悪寒に絶叫してしまいそうになり、ギデオンは必死で歯をくいしばる。誰だかわからないが、ギデオンを小隊長と呼ぶからには騎士団の者なのだろう。這いつくばった体勢から仰向けにされて上半身を起こされたが、焦点が合わず顔が確認できない。


「傷は、傷は、左肩だけ? 」


 焦りを隠せない声がしてギデオンは全身をまさぐられるも返答すらできずに僅かに呻いた。


「必ず助けますから、大丈夫ですから」

「う……くっ……」


 痛みに朦朧としながらも、ギデオンの耳には何故かその声がよく聴こえていた。

 どこか泣きそうにも聴こえる、それでも凛とした声が「大丈夫です、必ず助けます」とギデオンを励ましながら治癒の魔法術を紡いでいく。そしてそっと左肩に何かが触れたような気がしたかと思うと、激しい拍動痛が嘘のようにピタリと治り、それから陽だまりのような匂いのたわわで柔らかな何かがギデオンの顔に触れた。ふんわりとした感触のあまりの心地良さにギデオンの意識は急にあやふやになっていく。


「 グリファルド小隊長、もう、大丈夫です」


 震える声から安堵の気配を読み取れて、ギデオンは助かったのだと理解した。

 視力はまだ戻らないが、魔毒による激痛や悪寒は消えている。たわわでふんわりとした温かい何かの感触は未だに顔を包み込んでおり、ギデオンはゆるゆると身体から力を抜いた。


「しばらくは安静に。診療所で完全に解毒できるまで無理は禁物ですからね」


 力を抜いたギデオンの身体は先ほどよりも少し強めに抱え込まれ、顔は一層その柔らかさの恩恵に埋もれた。


「も……しばら、その、まま」


 ギデオンは助けてくれた礼を言うことすら忘れ –––– もうしばらくこの素晴らしく気持ちの良い何かを堪能していたいと思いながら、意識を闇に溶け込ませた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




「で、お前はまだそいつを探しているってわけか」

「ああ」

「わかってるのはなんだ、その、匂いだけか? 」

「声もかろうじて」

「顔とか服装とか見てないのかよ」

「魔毒の所為で一時的に視界を奪われてな、だが騎士団員に間違いはない」

「俺ら以外にもドゥーエ領の私兵とか傭兵なんかも参加してただろう」

「彼女は女性だ。ドゥーエの私兵や傭兵に女性は参加していなかった。治癒術の精度からしても訓練された者だ」

「……ふーん、やけに断定的だな」

「いい匂いだったんだ」

「はぁ? 」

「陽だまりのようないい匂いで、ずっと嗅いでいたくなるくらい良かった」

「……お前変態だな」


 四ヶ月ほど前のドゥーエ領魔獣討伐任務以降、なにやら様子のおかしいギデオンを心配して飲みに誘ったクリフだったが、士官学校の同期である親友ギデオンの頭の中身に思わず半眼になる。


「そんなことをよくもまあ、四ヶ月も」


 いささか変態じみているとギデオンとて言われなくてもわかっていた。だが死の縁にあって命を救われた鮮明な記憶は、傷が癒えてからもずっとギデオンの脳裏に焼きついているのだ。

 実を言えば、記憶の片隅にあった自分を呼ぶ声はもう思い出せないくらいあやふやなものになっている。声音こわねが男だったのか女だったのかすらよく覚えていない。しかし原子的感覚である嗅覚はギデオンを裏切らなかった。


(あの陽だまりのような匂いを思いっきり嗅いでみたい)


 親友クリフに変態と言われようともギデオンはそんなことを真面目に考えていた。


「でもよ、そいつほんとに女なのか? 」


「視界を奪われ意識が朦朧とした状態で女と判別できた理由はなんだ」と問われたギデオンは、自信を持ってきっぱりと答える。


「俺の顔に押しつけられたあのたわわでふんわり柔らかな感触は胸だと思う」


 ギデオンが真面目に答えた瞬間、クリフは顔を引き攣らせた。


「いやそれまじか」

「ああ、真面目に答えている」

「……そうか」

「そうだ」

「やっぱり変態だな」

「どうとでも言え。俺はあのたわわで柔らかな感触をもう一度味わってみたいんだ」


 そうのたまってエールをグイッと飲み干したギデオンにクリフは絶句した。それからこいつの親友やめてやろうか、とも考えたがなんとか思い直す。

 恋人や馴染みの娼婦を作らないギデオンにやっと湧いて出た女の気配。動機が不純なのは否めないが、異性に興味があったらしい親友にどこか安堵する。

 血と泥にまみれた臭い戦場で瀕死の状態から救ってくれた存在が気になることはクリフでも理解できる。そしてその存在に、理由はどうであれ惚れてしまうこともあるだろうと。

 正しく、ギデオンはその見ず知らずの女に惚れているのだろう 。視線をウロウロとさまよわせ、ほんのりと頬を赤く染めている三十歳を過ぎたゴツいおっさんギデオンがクリフには可愛く思え……なかった。花の盛りの乙女でもあるまいに、気持ちが悪い。


「なぁ、ギデオン。仮にうちの女だったとして、目星はついてんのか? どの部隊かも分かんねぇんだったら対象は四、五十人くらいいるだろうし、匂いと感触でどうやって確認するよ」


 まさか対象者全員に対して「匂いを嗅がせてください」とか、よもや「胸を触らせてください」なんて言えるはずがない。女性関係はそこそこなクリフですら、同僚の女と取っ替え引っ替え深い仲になるなんて綱渡りはやりたくもなかった。


「すでに目星はついてるんだ」

「おまっ、まさか、まさか、まさか、上官命令とかで匂っちゃったり触っちゃったりした? 」

「するか。偶、偶然だったんだ……か、彼女の匂いが、だな」

「もじもじするなよ、初恋かっ?! 」

「初恋、初恋なのか? これがそうなのかクリフ? 」

「知るかっ! 」


 常にない状態のギデオンは多分酔っているのだろう。

 馬鹿をやっていた十代の頃ならいざ知らず、いつも黙々淡々と任務を遂行し、至って真面目なギデオンが顔を真っ赤にして慌てる姿など、クリフは初めて見た。よくもまあこんな純情な野郎が、気になる女の胸をもう一度揉みたいなど考えたものだ。

 クリフはげんなりしながらギデオンに話を促した。遅すぎる初恋とやらがどうにかならない限り、気持ち悪い変態おやじと化した親友は元に戻らないかもしれないと考えたのは仕方ないだろう。


「実はだな、二ヶ月前に借りた襟巻きからあの時と同じ陽だまりの匂いがして気がついたんだが、それからどう切り出していいものか迷って、だな」

「そんなもん、普通に助けてくれくれてありがとう、じゃないのか? ……ああ、胸揉ませての部分をどう言えばいいか迷ってんのな」

「なんだその破廉恥な言い草は……彼女の胸は、たわわな胸の柔らかさは俺にとっては至高のものなんだぞ? 俺の命を救ってくれたあのふんわりとした柔らかさを思っただけで、俺は、俺はっ!! 」

「あー、はいはい、変態変態。その変態嗜好ついでに恋人になっちまえば揉みたい放題だぜ」

「命の恩人にそんな不埒な考えで近付いてる自分が許せない」

「……おま、面倒くせー奴だな、酔っ払い」

「それにっ、万が一別人だったらどうする? 彼女に惹かれているというのに、別人だったら、どうすればいいんだ?! 」


 うわぁぁぁ、と喚きながら机に突っ伏したギデオンにクリフは神妙な顔になった。


「ようするに、命の恩人に惚れてて、別人かもしれない女にも惚れちまったわけね」

「どうすればいいんだクリフ」

「……初心者の癖に難しい恋愛なんてするなよ」


 いつになく饒舌で感情豊かに悩みをぶち撒ける親友の肩をポンポン叩いてやりながら、クリフは盛大に溜め息を吐いたのだった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 彼女と一番初めに交わした会話が何だったのか、ギデオンは正直覚えていなかった。

 二年前に自分が赴任してきた時には彼女は既にここにいたはずだから、赴任関係の手続きか入寮手続きの時に顔を合わせたに違いない、と記憶を探るもギデオンには思い出すことが一つもなかった。それから最近になるまで特に親しくなることもなく、会えば挨拶を交わすくらいのただ単なる同じ建物内で働いている騎士と事務官という間柄でしかなかったはずだった。


 その彼女が何故今更、こんなにも自分の心の琴線をかき鳴らすのか。


 受付台越しに若い騎士と向かい合い、彼女はころころと笑いながら親しげに話している。その姿を忌々しく思う自分に苛立つ気持ちを抑えられず、ギデオンはギリリと奥歯を噛み締めた。


 ヴェルトラント皇国天涯てんがい騎士団第五大隊に所属する大盾第四小隊長ギデオン・グリファルドは、見た目通りの穏やかではない男だった。

 大盾持ちの騎士ならではの立派な体躯に日焼けした浅黒い肌、長袖を肘まで捲り上げているために惜しげも無く晒されている筋肉質の腕には大小様々な古傷が浮かんでいる。不機嫌さを隠すことなく黒く硬そうな髪を適当に掻き上げ、三白眼気味の薄緑色の眼が見据えるその先には彼を悩ませてやまない存在が。

 何を話し込んでいるのか、彼女が大盾第二小隊の若い騎士と笑みを交えながら話し始めて約七分。黙って見ていることに我慢がならなくなってきたギデオンは、こめかみをピクピクと震わせながら眉間に皺を寄せて歩み寄った。


 装備係の受付台の向こう側に立つ彼女がギデオンに気が付いて軽く会釈する。それに釣られて振り向いた若い騎士がギョッとしたような顔になり慌ててぺこりと頭を下げた。その顔が引きつっていることから、ギデオンは自分が思っている以上に感情がダダ漏れになっているのかと益々苛立った。


「ベイル主任、この間修理に出した大盾を引き取りに来たのだが」


「取り込み中だったか」と続けるギデオンに若い騎士は「じ、自分はこれで失礼します」とかすれたような声でいとまを告げる。まるで逃げるようにしてその場から立ち去った若い騎士に視線を向けていた彼女は、その不自然な言動を不思議そうに見送りながらギデオンに眼を向けた。


「グリファルド小隊長、大盾っていつ申請した分の大盾ですか? 」

「二、三ヶ月前の物だと記憶しているが、まだだったか」

「第四小隊のは常に何かしら修理に出してますから……えっとそうですね、大盾はありませんけど、小手なら届いてますよ」

「そうか、いつも迷惑をかけるな」

「そんなことないですよ。グリファルド小隊長の申請書は完璧ですし、遅滞なく報告してくださるのでこちらも随分助かってます」


 にっこりと微笑む彼女にギデオンも自然と微笑み返す。「少しお待ちください」と言い残して小手を取りに行った彼女の後ろ姿を見ながら、ギデオンは小さな溜め息をもらした。


 彼女 –––– トリュス・ベイルは事務官だ。

 柔らかそうな茶色の髪を後ろでまとめ、縁なしの眼鏡をかけた事務官の制服姿(しかもゴワゴワの冬服だ)であるが、抱き締め甲斐のありそうなふくよかさが好ましく可愛らしい女性である。

 騎士に憧れ志願したものの体力的にも技術的にも騎士になるには頼りなく、それでもすがりついてようやく事務官という職を手に入れた、ということをギデオンはトリュスから直接聞いている。

 トリュスと親しくなったのは二ヶ月前の真冬の夜だ。夜警の当番に当たっていたことをすっかり忘れていたギデオンが、業務終了時間間際に装備係に防寒着を受け取りに来たことがきっかけだった。通常ならば貸与されている防寒着を着るところが、つい先ほど当番だったことを思い出したギデオンは準備すらしていなかったのだ。防寒着なしでは厳しい寒さに何とかならないか掛け合ったところ、装備係にいたトリュスが備品の中から用意してくれたというわけだった。

 それだけでもありがたいというのにトリュスは自分の襟巻きまで貸してくれた。一度は断ったギデオンも、トリュスの「風邪を引いてしまっては部下に示しがつきませんよ」という指摘に言葉に詰まりながら受け取る。トリュスの襟巻きはギデオンの貸与品となんら変わりはなかったけれど、首に巻くとふわりと陽だまりの匂いがした。


 そう、陽だまりの匂い –––– ギデオンが捜していた陽だまりの匂いが、確かにトリュスの襟巻きから香ったのだ。


(ドゥーエ領魔獣討伐任務に、何故事務官であるトリュスが? いや、まさかな)


 何かの間違いだろうかと夜警の間中ずっと考えていたが、首元の襟巻きからは魔毒から自分を救ってくれた人の匂いがする。この陽だまりの匂いは香水ではないトリュス自身の匂いなのだ。彼女の他に同じ匂いを持っている人などいようはずもない。

 ふいに柔らかな感触まで思い出してしまいあらぬところが硬くなってしまったギデオンは、厚手の外套に深く感謝した。


 その時からギデオンは積極的に装備係に顔を出すようになった。今までは部下に任せていた修理申請書を持って行ったり、装備品を受け取りに行ったりとしている間にトリュスと親しくなり、何度か飲みに行ったこともある。あくまで、同僚や部下も誘ってのことであったので表向きには個人的に誘ったことはない。しかし、ギデオンとトリュスの距離は顔見知りから知り合いに、そして親しく話す同僚という立場から少し特別な存在に変わるまでそう時間はかからなかった。


「お待たせいたしました! 小手十一組です」


 しばらくの後、トリュスが金属製の小手が入った箱を軽々と運んできた。「荷台使いますか? 」と爽やかに聞かれたが、女性事務官であるトリュスが荷台を使用していないというのに戦闘職のギデオンがそんなものを使えるはずがない。小さいことでも見栄を張りたいのが男心だ。


「いや、大丈夫だ」


 書類に受領のサインをしてギデオンは小手をざっと確認する。この小手はドゥーエ領の任務で破損したものだ。ギデオンの物も始め十二組出していたが、個数が足りない。するとトリュスが申し訳なさそうに口を開いた。


「小隊長の小手は修理できなかったんです。愛着があると言われてたので何とかしようと頑張ったのですが、損傷が激しくて……」


 なるほど、書類の廃棄の欄に小手一組と書かれている。書類から顔を上げたギデオンと目が合い、トリュスの形の良い眉がへにょりと垂れる。身長差の関係で必然的に上目遣いになるが、眼鏡の奥にある赤茶色の瞳が見上げてくるのがすごく可愛い、とギデオンは常々思っていた。


「あの、今から少し時間をお取りいただけるなら、新しい小手の調整をいたしますけど」

「構わんのか? 」

「はい! 小隊長の為なら喜んで」

「ではお願いする」


 ギデオン率いる第四小隊は現在待機中で、火急の案件が派生しない限り毎日がほぼ訓練だ。今日も午前中は軽く汗を流し、午後からは装備品点検の予定だったので都合がいい。もっとも、都合が悪くても出動でない限りは無理矢理にでも都合をつけていただろう。

 修理を終えた小手は後から取りに来ることにして、ギデオンとトリュスは装備係の工房まで行くことになった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 ここ数ヶ月、トリュスを悩ませる存在が目の前にいる。しかも相手は何故か目を閉じていて非常にくつろいでいるように見えた。


「小隊長、帯革たいかくの幅はどうですか? 」

「食い込む感じがなくなったのでこれでいい。しかし、まだ硬いな」

「ある程度まではなめし加工で柔らかくできるんですが、身体に馴染むようになるには訓練で使用して伸ばさないと無理ですね」

「伸ばすのはいいが、汗と埃とで匂いは最悪になる。しかし天日干しは出来ない……悩ましいところだ」

「ふふふっ、消臭薬を幾らか出しておきますから小まめに陰干ししてくださいね」

「助かる」


 最初は小手の調整だけと思っていたが、あれこれしている間に肩当てや胸当て、さらには脛当てまで新調することにしたギデオンに、トリュスは付きっきりで調整していた。

 特に肩当てと背中、胸当てを繋げる帯革はその人の身体や筋肉に見合った強度に調整しないと命取りになる重要なものだ。身に付ける者の動きを阻害せず、尚且つ関節部分や急所を最大限防御できるようにする。事務官の中でも技術専門官の資格を取得したトリュスだからできることであり、事実彼女の専門官としての腕は確かだ。

 現在トリュスはギデオンの左肩当ての帯革の微調整の真っ最中で、背もたれのない椅子に座っているギデオンの太くたくましい腕や背中に触れたい放題であった。


「はい、この状態のまま左肩を上げてください……これくらいの隙間なら大丈夫そうですね。ではパタパタ羽ばたくように動かしていただけますか? 小隊長……グリファルド小隊長? 」

「んんっ、あ、ああ。こ、こうか? 」


 パタパタ羽ばたく、という言い方が悪かったのだろうか、ギデオンが手首を振ってパタパタを表現する。トリュス的には可愛らしいと思える動作で、もう少しギデオンのパタパタを見ていたかったがそうではない。


「すみません、あの、肩から大きく振っていただけたら……」

「ふぁっ、す、すまない! 」


 トリュスはギデオンの背後から左肘に手を添え、そのまま上下運動を手助けする。最初は慎重にゆっくり動かし、段々と激しく動かしていく。


「左肩、もう大丈夫なんですか? 」

「大丈夫、だが、何故そのことを…… 」


 心なしかギデオンの声が固いような気がする。その原因に思い当たりがあるトリュスはしまったと言うように顔をしかめた。

 一介の事務官がギデオンの負傷部位を知っていることがおかしいのだ。

 派手に負傷し、その部分を隠しもせずにいる騎士などほとんどいない。特に大盾部隊の騎士たちは負傷をひけらかすことは恥だと考えている傾向にあるため、どこにどんな怪我をしたのかあまり公表していないのだ。


「以前廃棄した肩当てが酷いくらい原型を留めてなかったもので……すみません」

「いや、咎めているわけではないんだ! すまない、ベイル主任。心配してくれてありがとう」


 ギデオンが謝る必要などないのだが、ありがとう、と礼を述べたギデオンの声音が思いのほか優しくて、トリュスはツキンと痛む胸に俯いた。

 トリュスはギデオンがどうして怪我をしたのか知っている。何が原因でどんな状況で怪我をしたのか、見ていたから知っている。それを言い出せないのはトリュスが規律違反をしたことが露呈するかもしれないからだ。

 だから言えない。


 トリュスがギデオンと出会ったのは、トリュスが二年前に第五大隊の装備係に異動してきた時だ。騎士になりたくてもなれず、ならばと技術専門官の資格を得て配属された装備係は、はっきり言って新人専門官には過酷な職場であった。

 荒事を平定する役割りを担う第五大隊は備品の扱いが酷い。それはもう、毎日のごとく取っ替え引っ替え備品が出て行き、年末には備品の補填の為の臨時請求まで行わなければならないくらいであったのだ。特に装備品は武器も防具もあっという間に壊れていく。

 そんな中、大盾第四小隊は彼らの誇りである大盾や防具を大切に使ってくれていた。どこの部隊も新品と取り替えを希望するのに、第四小隊の面々は修理希望を出すのだ。なんでも身体に馴染んだ武器や防具は何ものにも代えがたい財産なのだという。事実、第四小隊の成果は目覚しく、負傷する者も少ない。そして財政的にも優しい。これらを指示しているのがギデオン・グリファルドという小隊長であった。

 トリュスは大切に手入れされてきたであろう武器や防具を見てギデオンに興味がわいた。

 トリュスら装備係の技術専門官にとっては自分たちが一生懸命に調整した装備品を大切にしてもらえることは誉れである。時々食堂で見かけるギデオンの姿にも好感を持ち、装備品を通してギデオンを好きになり、彼の小隊の装備品が修理に出された時にはより一層丁寧な仕事になったのだ。

 そしてそんな思慕の情ゆえに、トリュスは規律違反を犯してしまったのである。



 四ヶ月前のドゥーエ領魔獣討伐任務において、トリュスは後方支援部隊の一員として参加していた。

 拠点にて壊れた装備品を交換しつつ、使えるものを手早く補修していたトリュスは、ギデオン率いる第四小隊が受け持った範囲に未知なる魔毒を持つ魔獣が大発生していることを知らされたのだ。

 前線に甚大な被害が出たと聞いて、トリュスは居ても立ってもいられなくなった。事務官であるトリュスには前線に出る資格はなく、また与えられた任務は備品の補修と補給である。しかし、前線から運ばれてくる負傷者は未知なる魔毒の所為で苦しみのたうちまわっており、治癒術師が足りない状況になっていた。症状は急な発熱、視覚麻痺、四肢の激しい痺れなどで既存の解毒剤が効かない強力なものだという。

 前線に物資を運んでいた部隊員もその魔毒に侵されてしまい欠員が出た、と聞いたトリュスは自ら補填員ほてんいんに志願した。元々騎士を目指していたトリュスにとって、危険な前線に行くことに難色を示して押し付け合う事務官仲間に辟易したというのもある。

 自分であれば治癒の魔法術の基礎は学んでいるので、万が一魔毒にやられた負傷者を発見してもその毒が回らないよう応急処置もできる。

 道中、衛生部隊によって運ばれて行く負傷者の中に第四小隊の面々はおらず、もしかしたら壊滅的な被害が出ているのかもと嫌な予感を振り払うようにトリュスは前だけを見て進んだ。


(早く、早く、どうか小隊長が無事でありますように)


 途中途中で壊れた武器を交換し、回復薬を配り、負傷者発見の魔法術を施して行く中で、トリュスはわざとはぐれたフリを装って部隊を離脱し……そして、一人魔獣と闘うギデオンを見つけた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 先ほどから腕や背中をかすめるたわわで柔らかな感触がもどかしい。一層の事、しっかりがっつりムギュッと押し付けてはくれないだろうか、とギデオンは悶々としていた。

 椅子に座ったギデオンの目線の辺りに、ちょこまかと動くトリュスのたわわで豊満な胸が揺れている。動きにくいからと制服の上衣を脱いだトリュスは、それはもう見事なくらい豊かな胸をしていた。


(野暮ったいゴワゴワの冬服の下に、まさかこんなものが隠されていようとは)


 トリュスはふくよかなのではなく、服の所為でふくよかに見えてしまう胸の持ち主だったのだ。腰など、自分の太腿よりも細いのではないかと思えるくらいにキュッと締まっている。


(これはもう、正解だろう……むしろ違うという選択肢などどうでもいい)


 そう思いながら生温い至福の時間を味わっていたギデオンは、トリュスから左肩の怪我のことを聞かれてハッとした。公開されていないはずの負傷部位を知っているということはつまり、正解なのか、と。やはり君なのか、と。


「大丈夫、だが、何故そのことを? 」

「以前廃棄した肩当てが酷いくらい原型を留めてなかったもので……すみません」

「いや、咎めているわけではないんだ! すまない、ベイル主任。心配してくれてありがとう」


 結果、ギデオンの早とちりだったようで、トリュスとの間にぎこちない空気が漂ってしまい、いたたまれなくなってきた。


(もう、いいではないか……自分を助けてくれた人が誰であろうと)


 そう思い至った経緯にトリュスの豊満な胸は関係ない。

 ギデオンはここにきてやっと認めた。自分がトリュス自身に惹かれていることを。

 確かに生死の狭間から救い出された際の記憶は強烈である。陽だまりの匂いと柔らかな感触はギデオンの深いところに結びついており、図らずも知らなかった性癖まで露呈してしまった。

 しかし、むさ苦しい男の自分にためらいもなく自分の襟巻きを貸してくれる優しさや、彼女の仕事に対する責任感やこうしてギデオンの我が儘と言える要望に真摯に答えようとする姿勢はとても好ましく、彼女の笑顔も声もいつも見ていたい、聞いていたいと、彼女のことが好きだと今しがた理解したのだ。

 だからつい、その思いを伝えたくなったギデオンは自分とトリュスの体勢も考えず、急に振り向いたのである。


 少しの沈黙の後に急に振り向いたギデオンに、ちょうど顔を上げたトリュスが驚いて体勢を崩し、目の前にあったギデオンの腕を引っ張った。


「おわっ?! 」

「きゃあぁっ! 」


 不意を突かれて引っ張られるがままに椅子から転げ落ちる寸前、ギデオンは鍛え抜かれた瞬発力と腕力でトリュスを自分の方に引き寄せ、抱え込むように反転して背中から落ちる。肩甲骨あたりに鈍い痛みが走ったが、そのことよりも何よりも、ギデオンの顔に押し付けられる至福の感触に全神経を集中させた。

 ふんわり、たゆんたゆんとギデオンの顔を心を癒してくれるたわわな胸。


(この匂い、ふんわり柔らかなたわわの感触、やはり間違いない! )


「グリファルド小隊長っ、すみませんっ!! 」

「いや、問題ない、むしろこのままで」

「ええっ! この体勢はちょっと……」

「四ヶ月前、あの時、君はあの場所にいなかったか? 」


 太腿に回るギデオンの腕から逃れようとジタバタともがいていたトリュスは、ギデオンの問いかけにピタリと動きを止めた。


「あの魔獣の爪にやられた時、君はあの場所にいた」

「…………は、い」


 トリュスの胸に顔を押し潰されている為ギデオンの表情はわからないが、顔が見えなくて良かったとトリュスが息をつく。一方で、トリュスの観念した様子にギデオンは確信を得た。


「何故、事務官の君が前線に……しかもあんなところにいたのか聞かない方がいいか」

「それは……」

「ベイル主任……いや、トリュスと呼ばせてくれ」

「は、はい」

「トリュス、四ヶ月前のあの時、死の淵から救ってくれてありがとう。だが、それはきっかけに過ぎない。君を知りたいと思い、君の声を聞きたいと思い、君と一緒に居たいと思うこの気持ちは、多分、恋だと思う」

「グリファルド、小隊長」

「君が好きだ、トリュス」

「わ、私、あの……」

「規律違反だと言うのなら、そうでなくしてしまおう」

「えっ? 」

「そうだな、新しい治癒魔法術を試す為に俺に協力してもらった、とでも」

「私、あの、グリファルド小隊長」


 突然の告白に頭が真っ白になって固まってしまったらしいトリュスもろとも身体を起こしたギデオンは、真っ直ぐにトリュスを見た。半ば呆然としているトリュスもつられてギデオンを見上げ、そして赤面する。


「トリュス、好きだ。俺と付き合って欲しい」

「グリファルド小隊長」

「俺のことはギデオンと呼んでくれ」

「あ……」

「返事は、もらえないのか」

「あの、私もグリ、ギ、ギデオン、小隊長のことが、すっ、す」


「好きです」と小さく囁き、目をウルウルさせながら俯いたトリュスにギデオンは思わず「可愛い」と呟く。

 トリュスは顔を真っ赤に染め、ギデオンの節くれだった指に頬をそっと撫でられるとピクっと震えておずおずとギデオンを見た。


「口付けても? 」


 それには答えずに、でも上目遣いで少し眉を寄せて何かを決意するようにそっと目を閉じたトリュスにギデオンはもう一度「可愛い」と呟いてゆっくりと口付た。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




「それにしてもトリュスの治癒魔法術はすごいな」

「えっ? 治癒の魔法術? 」

「違うのか? 」

「わ、私がした規律違反はグリファ……ギデオン、小隊長の防具にありったけの付加魔法術を施して、大盾とか武器とか色々改造を……」


 本人の了解を得ずに、しかも正規登録されていない魔法術をたくさん付加してしまったのは純粋にギデオンすきなひとが怪我をしないように、という可愛らしい恋心ではあるが、規律違反は規律違反である。ギデオンは後方支援部隊にいたトリュスが自分の持ち場を離れて前線に出たことを規律違反して命令を無視したと勘違いをしているようだが。


「はっ? 付加魔法術を俺の装備に? どうりでしっくり馴染んで使いやすいと思った……ん? では、あの時治療してくれたのは」

「マトーヤさんです」

「マトーヤ? 」

「ええ、ギデオン、小隊長を治してくれたのはマトーヤさんです」

「マトーヤって、衛生部隊のあの巨漢? 」

「はい、あの時は補給部隊の補填員として前線に出てましたけど、私の魔法術ではどうしようもなくて、たまたま近くにいたマトーヤさんが適切な処置を施してくださいました」


(あの陽だまりの匂いも、たわわで柔らかな感触も、マトーヤ、だと? )


 マトーヤは衛生部隊に所属する脂肪たっぷりの巨漢で、確かに超豊満な胸をしている。そう、彼の胸はトリュスよりもたわわに実っている。

 だが、彼は男だ。

 ギデオンは悶々としていた日々を思い、そして一気に虚脱した。


「は、ははは……そう、か。陽だまりの匂いも、あれも……」

「陽だまりの匂い? あっ、この消臭薬のことですか? 」


 トリュスがギデオンに使ってもらおうと用意した消臭薬の蓋を開けると、辺りに陽だまりの匂いが充満した。「私も使ってます、制服って微妙に臭いですよね」と可愛くはにかむトリュスが恨めしい。


「……トリュス」

「はい? 」

「君は、俺のことが好きだよな」

「は、はいっ……す、好きです」

「記憶の上書きに協力してくれ」

「私でできることであれきゃあぁっ?! 」


 床に座ったままのトリュスの腰に、腕を回してすがりついてきたギデオンにトリュスはあたふたとする。しかしギデオンがあまりにぐったりとしていた為、思わず頭を胸に抱えるようにして抱き締めた。


「むふぅ……柔らかい」

「どうしました? 」

「いや、もうしばらく、このままで」


 改めて感じた、陽だまりの匂いとたわわでふんわり柔らかな感触をギデオンはひたすら覚え込むように堪能した。哀しい勘違いの記憶を消す為にはこれくらいじゃ足りない、とさらに違う場所が元気になったが、それは割愛する。



 実はマトーヤは治癒の魔法術を施しただけで、負傷したギデオンを抱き起こし、必死に励まし続けたのはトリュスであるのだが、トリュスの説明不足により盛大な勘違いをしたギデオンはその事実を知らない。

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騎士とたわわ 星彼方 @starryskyshooters

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