貌のある花
のまて
ケース 一
美幸総一郎は優柔不断な男であった。
今日こそは、と決めて地下鉄のホームに降り、列の先頭に並ぶことがこれまでに何度あったか。
先頭を取れそうにない時は、電車を一つやり過ごしてわざわざ並び直したりもした。
だが、総一郎は今日まで無事、怪我一つすることなく生き延びている。
何かの理由で朝の電車が止まった日などは勝手に人身事故だと決めつけて、ああ、その人は地獄から解放されたのだな、良いなあ、なんて羨んだりもした。
そういうことがあると、より一層決意を固くして抜かりなく先頭を取るのだけど、やっぱり、そのまま電車に乗ってしまうのである。
『しかし、この変死事件、先月にも同じようなことがありましたよねえ』
『はい。死因も心臓麻痺で一致しています。ただね、今回は街中で、えー、衆目の証言がありますが、前回は単独、森の中に入っていったようで……』
朝、現在の時刻は七時三十二分。いつもの通り、大勢の人間を吸い込んでは三十二分きっかりに出て行く電車をやり過ごして、その後のがらんどうとなったホームで先頭を確保する。
飛び込むと決めている電車の時刻は決めていた。意味はなく、ただ、それまでずっと通勤に使っていた時間の電車だというだけの理由だ。
飛び込まれる方にしてみれば、そんな下らない理由で人を轢き殺すかも知れないのだからたまったものではない。
だが、と彼は、早速人の集まり出したホームで独り、心の中で反論する。
結局のところ、電車しかないのが悪いのだ。
身近にあって、確実に自分を殺してくれそうな強い力を持ち、かつ意図に気付かれても止まれなさそうなモノと言えば電車が最良なのだ、と。
もちろん、同じ轢死なら電車にこだわる必要はどこにもない。地下鉄を今すぐに飛び出して地上へと出れば、様々な車両が時速何十キロという速度で往来している。柵さえ隔てることなく、人間一人なんて軽々吹っ飛ばすほどの重量、鉄塊がひっきりなしに行き交うというのも、改めて考えてみれば狂気に満ちた光景であろう。わずかに何メートルもない目と鼻の先を、猛スピードで駆け抜けていく死神めいた鉄の馬。真夜中でもなければ電車を待つような無駄な時間も発生しないし、一体何に轢かれてやろうかと選ぶ楽しみだってできるというものだ。
が、果たしてそれは確実な死、足り得るだろうか?
否。
そこらの車では、轢かれたところで生き残る確率が捨て切れない。トラックまで行けば当たれば死ぬだろうが、ブレーキが間に合って十分な死傷とならない可能性を捨て切れない。世の中に絶対などないとしても、乗用車よりトラック、トラックよりも電車の方が死に至る確率は高いと見積もるべきだ。
死ぬ側にだって、その今際を選ぶ権利ぐらいはあって良いだろう。だから別に、人に迷惑をかけたり、その死に様を披露したいから地下鉄を選ぶわけではないのだ。自殺について真剣に考え、悩んだ末にある合理化の果て。ただ、より確実な死を担いで走っているのが電車であるというだけ。
悪いのは、そんな殺人機械を平然と走らせている社会や科学力、技術力辺りの方である。これに飛び込んで木っ端微塵になる者は、そこにある道具を目いっぱい有効に使っただけでしかないのだから、その行動について外野がとやかく言うなんて筋違いも甚だしい。
山があるから登るのと、電車があるから飛び込んで死ぬのと、一体何が違うというのか。
道具ではなく、それを使う人間にこそ責任があるなんて分かった風なことをうそぶく識者の連中は、“その道具がない状態と比べて殺人や自殺が手軽になるという事実”と、“手軽になったおかげで決意に必要な勇気や行動力のハードルが明らかに下がっている事実”にはどんな折り合いをつけて納得しようというのか。
……などという、まこと勝手な言い分を彼はいつも頭の中でこねくり回していた。自殺なんて身勝手を真面目に考える輩の思考など、どこもかしこもきっと似たようなものに違いないと、自分を卑下しながら社会を見つめるのがほとんど趣味みたいになっていたのである。
『遺族や友人の話では、思いつめている様子はあったと、そういうことですね』
『これが自殺であれば、日本社会に蔓延する問題の ―― いや、いや、でしかないってのは違いますね、もちろん、そちらも十分問題ですが、ただ、えー、新たな傾向が出てきたとなると、より深刻な方へと……』
そう。根本問題は社会の足元にある。
個人が社会を成すようで、その実は社会が個人をつくるからだ。長くいれば毒される。和衷協同に私はいらない。
『自殺率は、日本は世界でも上位ですよね』
『はい。特に酷いのが、これが若年層です。国内で最も数が多いのは五十代から上ですが、若年層の自殺率は世界でトップなんですよ。トップ、という言い方は相応しくないのかも知れませんが、えー、その点で見ると、今回の二件の変死はいずれも二十代。たまたまかも知れませんが、何らかの関係が……』
だから、社会が変われば個人も変わる。実際、日本政府の自殺者対策はある程度の効果を発揮して、日本の自殺者数は近年、右肩下がりである。財政政策が功を奏して景気が上向きとなったのも、自殺者数を減らす一助となったことだろう。交通事故も減ったというし……これにしても、いわゆる高齢者の事故死率は伸びる一方であり、自殺とはほとんど関係ないのだが、ともかく、日本全体で言えば自殺者の数は減っていると言える。
それでも、自殺したいと考える人間はいなくならない。自殺を行動に移していない、彼のような潜在的な自殺願望者まで含めた時、本当に全体として減少傾向にあるかどうかには一考の余地がある、というのが彼の持論だった。
サンプルは他でもなく、自分である。社会によって形成された個人を、同じ社会の中で変革するのは困難だ。長い年月をかけて、社会という名の毒に浸っては身体がおかしくなり、叱責の名を借りた罵倒と中傷に曝され続けては心がおかしくなっていく。昔はなかった“ホームドア”なる白い壁に行く手を阻まれていても、自殺したい人間にとってみれば低いハードル、軽々と防壁を越えて身を投げるだろう。砕けてしまって砕けようのない弱った自分。それら、既に醸成されてしまった“防げない後ろ向きな因子”が死に切らないことには、日本社会の新陳代謝が完遂されることはなく、澱んだ膿を吐き切るにも至らないのである。
『では次の……え? あ、はい。ただいま速報が入りました。えーっと、東京都○○区の△△、今朝の七時三十分に死体が見つかったとのことです。警察からの発表はま ―― せんが、目撃者の証言によりますと、大声で走って来たかと思えば突然うずくまって、そのまま死亡したとのことで……』
『△△って、すぐそこじゃないですか』
『そのようですね。騒ぎが伝わってくるほど近くではないので、スタジオからでは分かりませんでしたが。……更に情報が入り次第、また詳しくお伝 ――
『あ、これ皆さん、証言だけを見ますとね、今日ニュースにあった件と似ているようにも見えますが、まだ詳しい事情は分かりませんから。くれぐれもお気をつけください』
『そうですね。通勤通 ―― ん、また近隣の皆さんはくれぐれもお気を付けください』
―――――――――――――――――――――――――――― なんだこれ 花?
彼はずっと俯いて、自分の足元の白線とも、自殺者を阻むホームドアの足元ともつかぬ方に視線をやっていた。
何かを意識して見ていたわけではない。イヤホンから聞こえていた音声はラジオだから、自前のスマートフォンもポケットに入れたままだ。惰性で聞いているだけのラジオに耳を傾けながら、しかし一時も目を逸らさず
だから、何かが外から移動して来たりと、変化があったならすぐさまに気付いているはずだった。
が、それは唐突 ―― った。
「花、だよな?」
思わず声に出してしまう。イヤホンで閉じた耳の内側で、自分の声がくぐもって聞こえる。
彼の花に関する知識は壊滅的だった。サクラとアジサイとヒマワリとバラぐらいなら造形と名前が一致しているから絶無とは言えないが、しかしほとんど無知に近い有り様だった。
もっとも、興味がなければそんなものだろう。故に、彼には目の前に唐突に咲いていた“花”の名前が何なのか、全く見当もつかなかった。
高さ四十センチ。
彼の知らぬことを説明すれば、それは
「……え?」
しかし、かの花の種類を知っていたとして、目の前のそれをそうだと断言できたかどうかは怪しいものだった。
“それ”は何事かを喋っているのだ。
“
顔は薄らと笑っていた。それこそ、咲き誇る花のように満面の笑み……ではなくて、あるいはただ呆けているだけとも取れる絶妙に半端な表情で笑っている。
決して、人の恐怖を煽り立て、訴えかける類のものではない。
だが、焦点すら定まらない、あまりに気の抜けた双眸には、これを覗き込む者の精神を否応なくぐらつかせる不思議な作用があった。
明らかに普通じゃない。
顔があって喋る花という明確な異常以前に、“コンクリートの上に生えて ―― 識から外れていた。
人工に覆われた地面に生え、ひび割れから精いっぱいに伸び出しているのではなく、まるで、後からそこに置いたようにして花らしきものは咲いているのだ。
そう、例えば造花だというのなら、コンクリートの上に生育? しているのも納得がいく。か細くひん曲がった茎には支えきれないであろう大輪を冠する、そのバランスの悪さで直立しているのも、茎とコンクリートの接着面を糊付けしてしまえば造作もないことだ。
どうしたって最後には、“花についた声を発する顔”をどう説明したものか、という問題が残るのではあるが。
……まあ、ここまで来れば些事だろう。
生きているにせよ生きていないにせよ、それは最初から突拍子もなかったのだ。突拍子もないものに突拍子もないものがくっついていることは、いっそ自然だとさえ言えた。
花と顔。
もし、彼の目の前に現れたモノが全く、知識と経験とを総動員してなお形容しがたい何らかであったなら、彼はもっと慌てたのかも知れなかった。が、その組み合わせこそ奇怪ながら、その二つは生きていれば目にすることのある日常の一葉でしかない。自然の均衡を無視したような造形の植物、魂の入っていない手抜きの表情、何より鼓膜を透かして心を直接搔きむしってくるような声らしき音に苛まれはするものの、しかし、裏を返せばそれぐらいの害しかないのだった。
確かに、不気味ではある。継続する音に精神を端から削られていく感覚には不安をかきたてられる。
だが、それだけだ。
考えてもみろ。
心の摩耗は今に始まった話ではないじゃないか。
そうでなければ自殺なんて考えるはずがない。既におかしくなった精神をどうされようと動揺する理由がないのだ。
彼が冷静さを取り戻すのに、それほどの時間は要さなかった。もはや自分が平常ではないという自覚があったからこそ、意味不明な花らしき何かに視覚と聴覚を
それでようやく、事の異常さを理解したのである。
「 ――
誰も花に気付いていない。
スマートフォンをいじって仮想に視線を落とす人間が大半だから目に入らないのだとしても、少なくとも彼の周りの人間なら、この声らしき音が聞こえていないはずがなかった。
それで、明らかに異質と分かる音を耳にすれば、その発生源を探して顔を上げる人間が出てくるのが道理だろう。しかし、これはどうしたことか。彼以外の全ての電車を待つ人間が、素知らぬ顔をして電子の海に漕ぎ出したまま帰って来ていない。
引き戻されていない。
まさか、と。
ある予感が彼の脳裏を過る。考えてみれば、むしろその可能性の方が現実的であったので、手中にした冷静さがすり抜けていくほどの衝撃的な閃きではなかったのだが、どっちにしても確かめてみる必要があった。
恥をかくことは百も承知である。が、死を覚悟するほどの勇気があれば容易い。
彼は、隣にいた女性に声をかけた。スマートフォンを見てはいたが、イヤホンをしていたわけではない。それだけで、話しかけるためのハードルはぐんと下がる。
「あの、すいません」
―― 」
女性は少し驚いたような素振りながら、嫌な顔一つせず彼に向く。唇が「はい」という風に動いたのは見えたが声が聞こえなかったことで、彼は自分がイヤホンをしたままであることに気付いた。
冷静なつもりで、やはりどこかにあった動揺は隠せない。これを外して、質問を続ける。
「そこにある花は、いつからあるんでしょう」
「花? ――――花、ですか?」
彼が予感を確信へと昇華するには十分な反応だった。
示された方へと素直に向いた女性が困惑している。あるともないとも答えてこないのは、一体 ―― か、どれが正解なのかが分からなかったからだ。
つまり、女性の目に花は映っていない。
もしも同じように顔のついた花を目撃したのなら、こんなに冷静ではいられなかったはずだろう。彼女の表情にありありと浮かび上がった困惑は驚愕ではなく、故に異形の花を目撃した事実を表してはいない。
そうではなく、“ないものをあるかのように聞かれたから”、彼女は答えに窮したのだ。
あるものをあると答えるだけなら迷うことはない。とはいえ、“ないものをあるかのように聞いてくる”妙な男に、はっきりと否定を突きつけてやるのも勇気のいることだった。普通じゃない人間へ ―― い。これを好んで刺激しようという物好きは、見知らぬ人との関わり合いを極力避けようとする日本の現代においては、多分天然記念物ものの向こう見ずである。
「いえ、何でもありません。忘れてください」
忘れられるものでもないだろうけど。
喉奥ではそう続けながらもできるだけ爽やかに、彼はその一言で一方的に話を切り上げた。
これから仕事に行こうという折り、朝から“見えてもいないものを見えていると言い出す変な奴”に絡まれたのでは気落ちもしよう。その不運の全部を帳消しにできるわけではないにせよ、彼女に必要以上に気を遣わせる理由はない。社会の地獄に足を取られた彼としては、同じ地獄に生きる彼女に配慮せずにはいられなかった。
ともあれ。
イヤホンを装着し直して、彼は花を見る。
―― の花が幻覚らしいということは、はっきりした。
“イヤホンをしているのに、花が発しているらしい声が鮮明に聞こえているのも、きっとそのせいだ”。
幻覚のくせに生えた場所からぴたと動かず、こちらの視界の動きに追随しないのは不思議だったが、そういう幻覚だってあるのだろう。網膜に焼き付くのではなく、景色に焼き付くタイプ。処理しているのは脳みそなのだから、どちらの幻覚も有り得るに違いない。
この、突拍子もなく“幻覚を見ている”という症状は、かちり、と音を立てて彼を納得させるだけの説得力を有していた。
つまりは、自殺衝動を、不安定な精神からやってくる発作のようなものだと仮定するのなら。
心のリズムが不整に崩れた、まさに自殺衝動に駆られる今のような状態であれば、幻覚の一つも見えるぐらいがちょうど良いのではないか、と。
彼に自覚があったかどうかは分からない。が、その得心は、奇異の花の存在を受け入れたに等しい着地点であった。
声が少 ―― くなっていく。
気づけば、彼はその花の側にしゃがみ込んで、指を差し出していた。
がりがりがりがり。
花についた顔が目いっぱいに口を広げ、彼の指を食べている。
痛みはなく、血も出なかった。幻覚だから仕方がない。だからというわけではないが、彼は中指がなくなって、他の指が食べられ始めるのも黙って眺めていた。
――
電車が来ても、彼はそれに気付かない。
彼に話しかけられた運の悪い女性が、あまりに心配になって肩に手を置き、声をかけても、やはり気が付くことはなかった。
そうやって彼の身を案じたのは、たまたま関係を持ってしまった彼女ぐらいなものであって、それ以外の全ての人間が彼の奇行を無視し、やり過ごし、我関せずといった顔をして電車に吸い込まれていった。
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