第三十四話 哀しみのアトリエ

「むくの話を聞いてください」


 ◇◇◇


 今年の春のことです。

 むくは、十五歳の春に、憧れの徳川学園高等部の制服を着ました。


「むくちゃん、似合うわ。まーまと同じ制服」

「女子の制服かあ。ぱーぱは、参っちゃうなあ」


 美舞まーまも玲ぱーぱも喜んでくれて嬉しかったです。


「ベージュのブレザー姿、箱ひだのスカートにピンクのリボンが乙女らしく似合っていて眩しいよ」

「玲ぱーぱ、照れます」


 むくは、もじもじしながら、あつい胸をおさえきれなかったのです。

 憧れていた徳川学園で、どんな大きなキャンバスにどんなに素敵な夢を虹色の雲に乗って描けるか、とても楽しみにしていました。


 中学の時、バレエも美術も大好きでした。

 それで、徳川学園入試の面接では、描きためていたファンタジーなイラストや油彩を前に、ロメオとジュリエットを踊ったのです。


 職員室と美術室をよく行き来しました。

 ノックをして、職員室で礼をします。


「失礼いたします。美術の原田結夏先生はいらっしゃいますか?」

「あ、はーい。土方さん。選択科目の美術史、もうスライド支度できたの? 熱心ね」


「スライドのボタンを押します。原田先生、声を掛けてください」


 再び、ノックをします。


「失礼いたします。原田先生、美術のモチーフ、整理できました。又、お手伝いさせてください」


 そこで、原田先生がお考えだったことを伺いました。


「まあ、土方さん。そんなに美術が好きなら、美術部に入るといいわ。私、顧問だから」

「それは、思いつきませんでした。お願いしたいです」


 むくは、一礼しました。

 その数日後、美術室前に呼ばれました。


「僕は、美術部の部長をしている神崎亮だ。これは、高一の椛。僕の妹だ。よろしく頼む」


 神崎部長が、椛さんの頭をぽんぽんとしました。


「亮兄さん! 妹と言うより一個人の椛がいいわよっだ」

「土方むくです。仲良くしてください」


 ぺこりとお辞儀をしました。


 ◇◇◇


 七月五日の事でした。


 それは、悲劇的な事件の日です。


「原田先生、片付けが終わりました。さようなら。お先に失礼いたします」

「遅いから、気を付けて帰ってね」


 先生は、神崎部長と諸々の作業がありました。


「はい、椛さんが下で待っています」

「それなら、OKよ」


 原田先生と神崎部長を二人残して別れます。


「ごめん、むくさん。今日、友達にあんみつ呼ばれたの」

「椛さん、大丈夫です。それなら、駅近くの寅屋とらやまで送って行きます」


「むくさんは、いいの?」

「一人で帰れます」


 他愛もない話をして、楽しく帰りました。


「またねー」

「さようなら」


 椛さんと寅屋の近くで別れました。

 しばらくして、気配を感じたのです。


 ヒタヒタと、誰かが、むくをつけて来ました。

 気味が悪いので、小走りになります。

 その速さは増して行きました。


「おい、土方。可愛いじゃないか」


 後ろからむんずと肩をつかまれて、ぐいっと振り向かされ、いきなり胸を触られたのです。

 強く抱きつかれ、心臓がバクバクしました。


「うごっ。う、うぐぐ」


 この男性は、よくは知らないけれども、知っている人でした。

 怖くなって、振りほどいて逃げたのですが、後をつけられてしまったのです。

 自宅の中区にある団地より近い、青葉区のアトリエへと向かうことにしました。


 むくは、全力で走り、呼吸が荒れます。

 怖いので、振り向かずに逃れようとしました。

 その男性が、情けなく重い体を引きずってでも追いかける音が、嫌な程、執拗にやって来ます。



 追われる者と追う者の足音と息づかいだけが、夕日の道に違和感を与えていました。


 ◇◇◇


 むくのアトリエに飛び込みます。

 急いでドアを閉めて、身を守ろうとしました。

 でも、内側から鍵を掛けようにも、ドアノブを向こうから強く引かれて、シリンダーが回りませんでした。

 欠片も抵抗できません。

 とうとう、力業で開けられてしまったのです。


「土方むくだろう」


 ドアが軋んでゆっくりと開き、ドアの隙間に四十代の眼鏡を光らせた顔が入り込んで来ました。

 ガタガタと音を立ててアトリエにヒラメの様に入られて、直ぐに腕をつかまれてしまったのです。


「バレエやっていたんだってな。体柔らかいのかよ。見せてみろよ」


 低い声が迫って来て、とても怖く、肩を震わせました。


「脱げよ、こんなもの! オマエは、裸でいいんだ!」

「い、嫌です」


「脱げ、おら! て、オレが脱がせばいいのか。へへ、こっちに来いよ。うちの奴がさっぱりでよ。寂しいんだってば」

「止めて!」


 慌てて振り切って北窓の方に逃げたら、今度はスカートをつかまれてしまい、顔面から、どたんと倒れてしまいます。


「スカートは、どうやって脱がす? 面倒だから、パンチーだけ脱がすか」

「止め、止めて。えっえっ」


 むくは、泣き出しました。


「おう、水玉のお子様パンチー!」

「う、止め……」


「上も脱げ! ちゃっちゃかやれよ。柔らかく脚も広げろよ」

「ゆ、許してください。えっえ」


「おらっおらっ!」


 制服を淫らに扱われてしまいました。

 その時です。

 バタンと開くアトリエにドアの音がつんざいたのです。


「止めろよ!」


 神崎部長でした。


「土方むくさんが一人で帰ったと椛からスマホで聞いて探しに来てみれば、この変態が!」

「ちっ。亮か」


「愚かな親父! 出て行け、神崎渓! 出て行けよ」

「神崎部長の?」


「うるせえ、亮。誰にも言うなよ」


 神崎部長の父親は、どたどたと去ります。

 そして、最悪な事が起きました。

 脱がされた服の間から、神崎部長に肌を見られてしまいました。


「何だこの体は。土方むくさんは、女なのか?」


 王子様が来てくれて、むくは救われました。

 しかし、むくの秘密も同時に晒されることになります。

 この後、バレエの教室をお休みする事にしました。

 思い出してしまって、露出が怖くなったのです。



「これが、むくの哀しい話です」

 

 ◇◇◇


 ドイツ、リューゲン島内総合病院、四一二号室にて、玲らが見守る中、淡々と話し、むくはがんばった。


「そうか、むくちゃん。つらかったな。俺の子だ。こっちへおいで。俺の娘だ」


 泣きながら話したむくの頬を優しく拭い、医師の顔になる。


「性分化疾患なのだよ。こちらの学会に来たのにもひとつある。この病院は、その権威のドクター水島みずしまがおいでなのだよ。むくちゃん、治そうか。病気であって、むくちゃんは何も悪くないのだよ」


 玲がゆっくりと心をほぐした。


「う、うああああん。うあああ。むくは、むくは、『私』でもなく、『僕』でもないの? むくは、自分の事、『むく』としか言えないのですか?」


 美舞は衝撃の事実に呆然としている。


「あ、ああああ……。うわあああああん……。あああああ……」


 泣けるだけ泣きたがる娘に、玲もしっかりと誓った。

 

「治るから。いや、治すから。なあ、むくちゃん」


 美舞が、ウルフが、マリアが、むくを抱き締めた。


 むくは、「『私』が……」と言いかけた。


「『私』が……。『私』が、むくです」

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