第十九話 スコープにドラゴン

 Ayaは、すっぱい顔をした男を吊り上げながら、徳川学園町の住宅街を歩いてアジトに辿り着いた。


「信じられない!」


 そこは、Ayaの知った建物だ。

 白い門と綺麗に手入れの行き届いた庭を構える豪邸だった。


「リュウ・アサヒナ!」


 息をのんでもう一度声にした。


「朝比奈竜!」


 男の背を押して静かに門扉から入って行く。


「ああ、このことをKouに伝えなくてはならないわ。でも、スマートフォンも繋がらないし。いつも出逢うのは、白雨の中だもの。こんなに日のある中で、出逢えるとは思えないわ」


 Ayaは、思考をフル回転させた。


「待って。この中にKouはいないわよね? あのバイオリンの秘蔵ルームなら監禁可能だわ」


 悩んでいても仕方がない。

 Ayaは実行派の女だから。


「正々堂々と入りますか」


 Ayaは、チャイムを鳴らさず、ドアノブに手をかける。

 鍵が掛かっていないようだ。

 すっとドアを開ける。

 邪魔な男は先に突き出した。


「オ、オレは、関係ないぞ」

「今頃、怯えちゃった? ちびらないでね」


 Ayaにとっても見知った建物だ。

 間取りも分かっている。

 動線の最短距離で、バイオリンの秘蔵コレクションルームを目指す。

 すると、ことりと物音が聞こえた。


「誰か?」


 弱々しい女の声だった。


「こんばんは。私は、お父様の秘書で、水木亜弥と申します。お嬢様ですか?」

「ええ、朝比奈麻子よ。今、誰もいないけれども」


「存じております。この男性は、お父様の部下です。自己紹介なさい」

はくだ」


「まあ! お父様のお仕事の方なのですか? あちらに客間がございますので、お茶など召し上がってください」

「まあ、それはいけません。麻子お嬢様には私からお茶をご用意いたしますわ」


「お、お嬢様。オレをたす……。ふぐほっ」


 柏が何かのチャンスと思ったのか、直ぐにAyaのヒールで踏まれて、揉み消された。


「何か、仰いましたか?」


 麻子は、別人のようにおとなしい。


「何でもございませんわ。キッチンをお借りいたします」


 Ayaは、柏におとなしく麻子といるように黒のスマートフォンその二を見せた。


「は、はひいい。仰る通りに!」

「よろしい。何かしたら、覚えておきなさいよ」



 Ayaは、もう一度、小者の柏に釘を刺して部屋を出た。


 ◇◇◇


 Ayaは、キッチンへ入った後、紅茶の支度を始めるふりをし、急いで、バイオリンの秘蔵コレクションルームへ向かった。

 書斎の裏にある隠し部屋だ。

 耳をそばだてるが、防音が完璧なので、聞こえない。 

 一度預かったキーは、二度目には開けやすくなる。


「この際、開けてしまおうか。それで、Kouに何かあっても、Kouなら大丈夫。大丈夫だからね」


 書斎にあるキーの差込口は、旅行の特集をしているいくつかの本に埋もれていた。

 よく見れば、ニースのガイドブックも揃っている。

 その一冊から、ジャン=コクトーの絵ハガキ数枚が栞になっているのに気が付いた。


「このフォトグラフ、訪れた道と変わらないルートだわ」


 ゆっくりはしていられない。

 柏がどう動くか分からず、麻子に何かするかも知れなかった。

 Kouがもしかしたら水も飲めていない可能性もある。


「お・じゃ・ま」


 Ayaは、そっとバイオリンの秘蔵コレクションルームを開けたが、照明もついておらず、勘の鋭いAyaにでさえ、人の気配を感じられなかった。


「……Kou?」


 返事がなかった。

 がっかりしたいのか、安堵したいのか分からずに、秘密の入り口を閉じた。



「静かだったわね」


 ◇◇◇


「お待たせいたしました。麻子様はアッサムティーに柏様には緑茶でございます」

「ありがとうございます。水木さん」


 麻子は香りをいただいている。

 柏は、一気に緑茶をすすった。

 緊張のあまり、水分が欲しかったのだろう。


「んんー。何だか眠いのはどうしたものか」


 Ayaは、緑茶にプロップ睡眠導入剤を入れていた。


「麻子お嬢様、柏は疲れているようです。眠らせてあげてください」

「分かりました」


「父は留守ですが、水木さんのご用向きは何でしょうか? 承けたまわります」


 まさか、決闘とは言えないので、Ayaも困った。

 眠らせるのは、二人ともだ。


「アッサムティーがカップからなくなった時、分かると思いますよ。麻子お嬢様」


 おとなしい麻子もそのまま眠った。

 目が覚めて鉢合わせでは、柏に攻撃されると思って、Ayaは、柏を運んだ。

 朝比奈のフォードア、カローナに乗せて、徳川学園町の近郊森林に着くと、木にもたれかけさせて、柏にはお寝んねをキメさせた。


「朝比奈の車、目立つかしらね? 真っ黒なだけにハイヤーみたいだわ」


 Ayaは、ハイヤーから李家を連想する。

 凛はどうしているのか、信に連絡を入れようとスマートフォンのロックを解除した。

 信からのメッセージが届いていた。



「そんな! 凛様は今……」


 ◇◇◇


 凛にジュースを出すのは、信の仕事に変わっていた。

 ワゴンを凛が寛ぐ大きな窓のあるリビングに運ぶ。

 ToiとMoiも信に懐いている。


 Ayaが朝比奈家に入った同日、八月二十日、事件か事故か分からないことが起きた。


「凛様、三時でございます。ジュースをお持ちいたしました」

「信、いただく」


 事件があったことを考えて、グラスは、ガラス製ではなく、使い捨てタイプの透明カップになっていた。

 どのグラスを選ぶかは、凛次第で、全部使わないと断れば、新しい透明カップか別の容器になる。

 このシステムのお陰で、毒を盛られるようなことはなくなった。

 信もピッチャーのジュースを凛の目の前で飲んでいる。


 信が、ピッチャーから注いでいた時だった。

 ガシャンと音を立てて、ジュース毎、ピッチャーが割られた。

 絶対安全の大きな窓に穴を穿つ程の銃か、リビングを覗く入り口か。

 信が咄嗟に見回した。


「李信か。懐かしいな。私だよ。帰って来た」



 野太い声に信が振り向く。


 ◇◇◇


 Ayaは、ドラゴンの住処は分かった。

 そして、今はいないことも分かった。


「麻子様のことは、大丈夫でしょうね。柏は、ちょっかいなど出せない小者だわ。それにしても、あの麻子様がおとなしいのは不思議だったわ。何かあるのね」


 スマートフォンで、バイオリニストとしてのリュウ・アサヒナを検索する。

 いとも簡単に結果が出た。


「リュウ・アサヒナは、今、ローマでコンサート中だと。パルコ・デッラ・ムジカ音楽堂Auditorium Parco Della Musicaか。間に合いそうね。ドラゴンは、もうここにはいない。ローマに飛ぶべきだわ。うーん、明日の便になるわね。むく様のアトリエに寄ってから出発しようかしらね」


 ◇◇◇


 むくのアトリエを北窓から覗く。

 むくは、精を出して、制作をしていた。


「ん?」


 Ayaは、母屋からの視線にぴくりとする。

 狼のような眼光が刺さった。


「むく様の守護をされているのかしら」


 眼光には眼光と、Ayaは気配を殺さず、豹のようにとがった視線を絡めた。

 狼と豹の対決は、少しでも視線を外した方が負けになる。

 ほんの数秒とて、終わらせられない。


「どうしたのですか?」


 むくがアトリエから出て来た。

 むくも敏感な気質を持っている。


「ウルフおじいちゃまの気配が強いです」


 むくが母屋へ行こうとした時、すぐ近くにいたAyaに気が付いた。


「Aya様、お久し振りです。ウルフおじいちゃまに用事ですか」


 ウルフの視線が外されて、Ayaもここまでと強い眼差しを弱める。

 無垢な彼女の前では、必要なさそうだ。



「何でもないわ。お邪魔しました」


 ◇◇◇


 翌、八月二十一日、成田十三時十五分発、ローマフィウミチーノ空港十九時着の十二時間四十五分の旅に出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る