第30話・タイミング

 ふと、迅の目線が長谷寺の着ているシャツに行った。溜息を吐きながら苦笑した彼は、鼻血が染み込んだ箇所かしょを指差す。


「また汚れちまったな…」


「─…あ、ホントだー」


「寝る前に洗濯機に入れとけ」


「はぁいっ」


 迅の言う通り、自分のシャツが血で汚れているのを確認した長谷寺は、[服と身体についた血は清潔にする]と教えられた事を思い出してシャツを脱ぎ始めた。迅は自身の下心がわずかに湧いたのを感じて、シャツのボタンを外していっていた彼の手を、あわてて止めた。長谷寺は、なぜ言われた通りにしようとしている手を止められたのか分からず、コトッと首をかしげながら迅に疑問を投げ掛けた。


「どしたの?」


 このといは、彼にとってはもっともなモノであった。そして、迅も[何でもない]と返し、此処ここで服を脱いで洗濯機へシャツとタンクトップを放り込み、そのまま長谷寺の自室で部屋着を着れば良いだけの事だと、そこまで考えた。しかし、どうしてもよこしまな気持ちがうずく。彼の脳裏を、突然ある可能性がぎった。例えば、自分は長谷寺に対して[服と身体についた血は清潔にするように]と教えたワケだが、他のところで今回のような事があれば、今のように所構わず服を脱いでしまうのではと。これは、補足ほそくしておく必要があると思い至った。


「…いいか?下履いててタンクトップ姿になるだけなら場所はドコでも特に困らねぇけどな、はだかになるなら、自分の部屋か風呂場だけにしとけ」


「どして?」


「…………俺が困る…」


 最後の答えが余りにも自分勝手なものだと思った迅だったが、非常に素直な気持ちを口にしてしまった割りに、長谷寺は人差し指を桜色の唇に押し当てて少し考える素振そぶりを見せると、一度シッカリとうなずいた。自分で言っておいて思いもよらない反応が返ってきた迅は、目を丸くして驚いた。


「わかったーっ!」


(なんで納得したんだ…)


 元気よく返事をしながら片手を真っ直ぐ上にげると、スッと立ち上がり、自分より20cm近く高い位置にある迅の首に両腕を回して抱きつくと、ささやいた。


「迅ちゃん困らせたくないから、覚えておくね?」


「─…あぁ、有難う」


 ごく単純で、何よりも歓喜に震えるような理由で、彼自身の行動条件を変えてくれた。異性だろうが同性だろうが他の何だろうが、長谷寺は多くの者の心を魅了してしまう、服を着ていれば何が大丈夫という問題ではないが、それでも迅は、自分以外の誰かが彼の裸体らたいを見るのは嫌だった。耳元で長谷寺が小さく笑う声がして、迅の身体から離れていく。


「お風呂場で着替えて寝るねっ!おやすみ迅ちゃん」


「おう、オヤスミ」


 かすかに残る、長谷寺の身体の温もりに名残惜なごりおしさを感じながら、部屋を出てゆく彼の後ろ姿を見送って、迅も着替えを始めた。長谷寺は自分の部屋まで迅に借りたままのスウェットを取りに行くと、それをつかんで風呂場までパタパタと走っていく。脱衣所で服を全部脱ぎ、洗濯機にポイポイと放り込んで、ボクサーパンツを履きスウェットの上をモタモタと着ていると、風呂場の浴室のほうから音が聞こえた。


 長谷寺の顔を拭ったタオルを洗うついでに、風呂へ入っていた透が出てきたのだ。艶のある肌が、しっかりと付いている筋肉が、蠱惑こわく的な背中の刺青が、彼の視界に飛び込む。声にならない悲鳴を上げそうになりながら取るものも取りえず、自分の一番近くにあったバスタオルを腰に巻いて、ドクンドクンと脈打つ自身の鼓動を感じつつ口を開いた。


「長谷寺さんっ!なんでココにっ…」


「あ、トールちゃーん。えっと、迅ちゃんが着替えは自分の部屋か、お風呂場でしなさいって言ってたから〜」


 実に、タイミングが悪かった。

 透がそれを痛感しながら、ようやくスウェットの首元部分から頭を出した長谷寺に[中で身体を拭くから]と伝えて、浴室のドアを閉める。特に気にすることなく着替えを再開する長谷寺の、なんと呑気のんきな事か。





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