第10話 終の棲家
「今日は娘が世話になったね。よっぽど楽しかったのだろう。はしゃぎ疲れて眠ってしまったよ」
「俺は何も。ただ一緒に絵を描いていただけですから」
「それでもありがとう。ニュイ君が来てから、イリスは毎日とても楽しそうだ」
午後10時を回った頃、ニュクスは宿の食堂でイリスの父親と談笑していた。
遊び疲れたイリスは早々に自室のベッドに潜りこみ、ぐっすりと寝息を立てている。
「この町は静かで平和だけど、やはり都心部に比べると娯楽に乏しい。イリスをはじめ、子供達に笑顔を与えてくれている君に、町の大人達もとても感謝しているよ」
「大したことはしていませんよ。でも、子供達の笑顔を見るのは俺も好きです」
「出来ることなら、君にはずっと町にいてもらいたいくらいだよ」
「昼間、イリスにも同じようなことを言われました」
「おやおや、親子揃ってだったか」
同時に破顔し、二階に響かない程度に笑い声を上げる。
「そういえば君は、各国を旅しているんだったね」
「はい。大陸内のほとんどの国には、最低一度は足を運んでいますね」
「実は私も、若い頃は旅をしていてね」
「そうなんですか?」
「宛てのない
「ではここは、奥様の生家ということですか?」
「その通り、私は入り
思わぬ事実に、ニュクスは素で驚いていた。
旦那さんには旅人らしい雰囲気はあまり感じられず(13年も経っていれば当然かもしれないが)、生粋の地元人だと勝手に思い込んでいた。
「妻と出会い、恋に落ち、結婚し、家庭を持ち、イリスを授かった。旅の目的は果たせなかったけど、ここが私の旅の終着点。家庭を、
「終の棲家ですか。俺にはまだイメージ出来ませんね」
そもそも平穏な生活事態が、ニュクスにとっては想像しがたいものであった。
終わりを迎えるとすればそれは、暗殺を仕損じて返り討ちにあった時か、あるいは因果が巡り、誰かに復讐された時だけだろう。
いずれにせよ、平穏など訪れるはずがない。
「君は若いし、まだまだ旅の途中だ。だけど、旅の出会いは時に人生に大きな影響をもたらすこともある。旅の先輩からの一つの助言さ」
「旅の出会い」
暗殺のために各地を回る旅は、恨みを買うばかりで、実りのある出会いなどこれまでには経験が無い。
そんな自分にも人生を変えるような出会いなど訪れるのだろうかと、ニュクスは心の中で
旦那さんを馬鹿にしているわけではない、むしろ尊敬している。
馬鹿にしているのは、血で染まりきった自分の生き方だ。
「おっと、長話に付き合わせて済まなかったね」
「いえ、とても興味深いお話しでした」
「明日は朝一で仕入れだから、私も今日はこれで休むとするよ」
「お疲れ様でした。俺もそろそろ部屋に戻ります」
食堂で旦那さんと別れ、ニュクスは宿泊している部屋へと戻っていった。
この数日間で下調べはある程度終わった。
そろそろ、暗殺を実行に移しても良い頃だろう。
深夜になり、オネット一家が寝静まったのを確認すると、ニュクスはリュックの底から取り出した仕事着の黒いフード付きコートを羽織り、足元は音を立てにくい特殊な構造のブーツへ履き替える。最後に愛用の二刀のククリナイフを腰に携帯し、アサシンとしての姿へと変わる。
服装を変えた瞬間に、心優しき旅の絵描きとしての顔を内にしまい込み、非情な暗殺者としての仮面に付け替える。
少し前まで旦那さんと楽しく談笑していたのが嘘のように、睨むだけで対象を射殺せそうな、冷徹で無感情な瞳が闇夜に浮んでいた。
「名残惜しいが、今夜で宿ともさよならだな」
暗殺の仕事を果たしたなら、もうこの町に長居する理由は無い。
オネット一家を混乱させてしまうだろうが、このまま宿に戻って来ることは無いだろう。
宿泊した分の料金に加え、迷惑料とちょっとした気持ちのつもりで、5倍の額を机の上に置いていく。
別れの言葉の一つも残していきたいが、暗殺者としてそれは許されない。
「せめてこれだけでも」
イリスに最後まで絵を教えてあげられなかったことが心残りだが、せめてものプレゼントのつもりで、絵を描くのに使う画材道具一式も現金と一緒に置いておいた。
これでもう心残りは無い。
あとは、使命を全うするだけだ。
「決行するのですね」
「相変わらず
飛び出そうと窓を開けた瞬間、近くの民家の屋根の上にカプノスの姿が見えた。
監視役の彼女がいるのは何らおかしくはない。殺しの仕事ではいつものことだ。
「行くとするか」
ニュクスは闇に混じって気配を消し、お屋敷のある丘の方へと駈けて行った。
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