great mother
至 観希
第1話 森のくまさんの贈り物
そう。あのときは死ぬかと思った。
着の身着のまま森のなかを走って走って逃げていく。走っていくうちに、最初は考えていた辛いこととか難しいことは全部抜け落ちて、見事爽快感だけが残った。
道という道などないし、とにもかくにも草をかき分けて進む。分かれ道もたくさんあったけど、そこは直感で乗り切った。天国か地獄か、この先がどちらにつながっているかは、当然わからない。
やがて、小人さんが出てきそうなただっぴろい空間に辿りつく。
いくら走ることに快感を覚えても、体が疲労を訴えかけた。終わりもわからない道程なのだから、休憩だって必要になるかもしれない。そう思って、ようやく腰を下ろした。
遠くで鳥の鳴き声がする。ふと顔を上に向けると、木々の
あたりを見渡すと、思った通りにすばらしい場所だった。これから新生活を始めるにふさわしい環境が整っている。
小さな川と雨風を
林檎をひとつもぎ取った。てのひらに収まってしまうほど小ぶりなのが惜しいところだ。しかし文句をいえる状況でもない。なにかの物語で、林檎に毒を盛るなどという
いやしかし、たいていの林檎は美味なもの。思い切って
手から林檎が転げ落ちた。洗わなければ、こんなときにも呑気に思える自分は大物になれるはずだったろうに。
森の最奥、木々の茂みからこちらを見据える瞳がふたつ。
丸くてふわふわの耳。ふかふかの手足。紛いもののような愛くるしい
そして想像をゆうに越える立派な
かつてその強大さと
死んだふりなど、意味がないことは明白だった。距離はわずか、視線は運命のように絡み合う。知らずに流れた汗が首筋を伝っていく。じりじりとそのままの姿勢で後退していく。幸いこの場所には、蜂蜜はなくとも林檎がある。その存在に気づいてくれれば、こちらの興味を逸らすことができれば――。
「なかなか賢明なお嬢さんだね」
声は高く、少年とも少女ともつかない。
熊は目を細めて、笑った。
「まあちょっとマヌケなところはご
「どうも」
熊が喋るという世紀の大発見に、大きな反応をとることができなかったのが悔やまれる。けれど極度の緊張感から解放されたいま、返事をするのが精いっぱいだった。だが、言葉が通じるとなるとすこし安心できる。
「うんうんなかなか
「えっ」
なにも安心できない。無償でなにかをくれようとするは
「なんだ。警戒してるの? でもね、きみはこれを受け取るほかない。なぜ森のくまさんが少女にお逃げなさいと言ったのか――知らないかな?」
すぐさま素直に
「そうそう。素直がいちばんさ。なに、きみ次第で善くも悪くもなる
ふわふわの毛に覆われた熊の手が重ねられる。思いのほか大きく、分厚い肉球はしっとりとしていた。すると触れ合う部分から、奇妙な感覚がやってくる。表面の
熊が手を離した。てのひらにはなにも残ってはない。しかし、見慣れたはずの皮膚の内側から浮かび上がるものがある。これまで
あまりのことに声も出ず、その場にへたりこむ。
熊はひどく楽しげに高笑いをする。無邪気な子どものように、異常者のように。
「さあ、ここからが本題だ。この森からお逃げなさい。その両手をうまく使い
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます