great mother

至 観希

第1話 森のくまさんの贈り物

 

 そう。あのときは死ぬかと思った。


 着の身着のまま森のなかを走って走って逃げていく。走っていくうちに、最初は考えていた辛いこととか難しいことは全部抜け落ちて、見事爽快感だけが残った。

 道という道などないし、とにもかくにも草をかき分けて進む。分かれ道もたくさんあったけど、そこは直感で乗り切った。天国か地獄か、この先がどちらにつながっているかは、当然わからない。

 やがて、小人さんが出てきそうなただっぴろい空間に辿りつく。

 いくら走ることに快感を覚えても、体が疲労を訴えかけた。終わりもわからない道程なのだから、休憩だって必要になるかもしれない。そう思って、ようやく腰を下ろした。

 遠くで鳥の鳴き声がする。ふと顔を上に向けると、木々のこずえが風にそよいでいた。隙間から覗く空は青く、木漏こもれ日はやわらかく降りそそぐ。心地よい風が吹き抜けて、すっかり熱をもった体を冷ましていく。

 あたりを見渡すと、思った通りにすばらしい場所だった。これから新生活を始めるにふさわしい環境が整っている。

 小さな川と雨風をしのげそうな巨木。その足元にはみつの美味しい花があるし、奥にはなんと林檎の木がある。しかも鈴なりに実をつけていた。あまりの僥倖ぎょうこうに、自分の直感の冴えが恐ろしくなる。

 林檎をひとつもぎ取った。てのひらに収まってしまうほど小ぶりなのが惜しいところだ。しかし文句をいえる状況でもない。なにかの物語で、林檎に毒を盛るなどという不届ふとどきな話があったことを思い出す。しかしこれが食べられなかったとして、行く末はにだ。毒で死ぬのと飢えて死ぬのとどちらがよいと言われれば、当然毒だ。飢えほどみじめなものはない。どうせ死ぬなら、たらふく食って満足してから苦しみたい。

 いやしかし、たいていの林檎は美味なもの。思い切ってつやめく実をかじった。


 手から林檎が転げ落ちた。洗わなければ、こんなときにも呑気に思える自分は大物になれるはずだったろうに。

 森の最奥、木々の茂みからこちらを見据える瞳がふたつ。

 丸くてふわふわの耳。ふかふかの手足。紛いもののような愛くるしい双眸そうぼう。それらを裏切る、唾液だえきに濡れる凶悪なきば

 そして想像をゆうに越える立派な体躯たいくが、巨大な壁のようにそびえ立つ。


 かつてその強大さと脅威性きょういせいから名を呼ぶことも恐れられたという食肉目の雑食獣、熊。

 死んだふりなど、意味がないことは明白だった。距離はわずか、視線は運命のように絡み合う。知らずに流れた汗が首筋を伝っていく。じりじりとそのままの姿勢で後退していく。幸いこの場所には、蜂蜜はなくとも林檎がある。その存在に気づいてくれれば、こちらの興味を逸らすことができれば――。


「なかなか賢明なお嬢さんだね」


声は高く、少年とも少女ともつかない。

熊は目を細めて、笑った。


「まあちょっとマヌケなところはご愛嬌あいきょうといったところかな。そのへんにあるものをがっつり食べるのはどうかと思うなあ。でもま、熊に出会ったときの対処としては冷静だし優秀なほうかな」

 「どうも」

 熊が喋るという世紀の大発見に、大きな反応をとることができなかったのが悔やまれる。けれど極度の緊張感から解放されたいま、返事をするのが精いっぱいだった。だが、言葉が通じるとなるとすこし安心できる。

「うんうんなかなかきもっ玉もわってるのがイイね。じゃあボクからのご褒美をあげよう。さあ両手を出して」

「えっ」

 なにも安心できない。無償でなにかをくれようとするはやからは、大抵あやしい。

「なんだ。警戒してるの? でもね、きみはこれを受け取るほかない。なぜが少女にと言ったのか――知らないかな?」

 ひらめく瞳には剣呑けんのんな光りが宿る。

 すぐさま素直にからっぽの両手を差し出した。すると、熊は満足そうにうなずく。

「そうそう。素直がいちばんさ。なに、きみ次第で善くも悪くもなる代物しろものだよ」

 ふわふわの毛に覆われた熊の手が重ねられる。思いのほか大きく、分厚い肉球はしっとりとしていた。すると触れ合う部分から、奇妙な感覚がやってくる。表面の皮膚ひふはあたたかいのに、その下に通う細胞のすべてに冷たい水のようなものがみてくる。全身に張り巡らされた血脈を流れてひとつになっていく。

 熊が手を離した。てのひらにはなにも残ってはない。しかし、見慣れたはずの皮膚の内側から浮かび上がるものがある。これまでけて見えていた血管が、青白く発光し明滅めいめつを繰り返していた。

 あまりのことに声も出ず、その場にへたりこむ。

 熊はひどく楽しげに高笑いをする。無邪気な子どものように、異常者のように。


「さあ、ここからが本題だ。この森から。その両手をうまく使いこなすことができたのなら、きっとうまくやれるさ。これは選定だよ。きみの幸運を願っている――」



 

 

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