アンジェラ物語 記憶喪失主人公は波瀾万丈な人生を送るって本当ですか?

柳の下どじょう

第1話 記憶喪失

 今まで経験したことのない早さで、心臓が脈打っていた。

 それは走っているからだけではない。背後に迫る危機への緊張感からでもあった。

 身体中に切り傷や打撲痕、頭からは出血もしていた。

 だが奴に付けられた傷ではない。奴はまるでこの命がけの追いかけっこを楽しむように、一定の距離を保ち追ってきているのだから。

 いずれくる目の前の獲物が、心折れ絶望する瞬間を待ち望むように。

 何故こんなことになったのか。

 アンジェラは頭を押さえながらこれまでを思い返した。


 「あぁー!!なんでこんなことになってるのよー!!」

 森の中に甲高く幼い声が響く。

 声の主は座り込んだまま上を見上げた。生い茂った木々の隙間からほんの少し青空が見える。

 光が入らず薄暗いが、どうやらまだ昼間らしい。

 声の主は大きくため息をついた。

見たところ五歳くらいの女児である。

ぼろぼろの服から伸びる手足は、栄養が足りてないのか、体質なのか妙に白く、同世代の子供と比べても痩せ細ってみえた。本来なら濃い金色の髪は、埃と砂で汚れ今は見る影もない。

 彼女の名前はアンジェラ。

今彼女は――――

 「記憶喪失主人公って波乱万丈人生がセオリーじゃない……私は平穏な人生を送りたいのよぉぉぉぉぉ!」

 今本人の言った通り、現在記憶喪失中であった。

 ただし、何の因果か今世の記憶を失い、逆に前世の記憶はばっちり覚えていた。


 アンジェラとして転生する前の彼女はややブラックな病院で医療事務をしていた。

 系列病院の男と二次元趣味を隠したまま結婚寸前までいったのだが、男が二股をかけた末に、浮気相手を妊娠させ結婚は破談。

 それを忘れるように彼女は仕事に励み、給料をより一層趣味に注ぎ込んだ。

 最近では、いやー結婚しなくて逆によかったのでは、と思えるようになってきた、ごく普通の三十一歳日本人女性だった。

 明日は休みだと、酒とつまみのエイヒレを買い込み、年齢的には体と肌に悪影しかないが貫徹でゲームをするんだと意気揚々帰る途中。お馬鹿さんの運転する車に跳ね飛ばされ、その最中にエイヒレも舞う姿をみていて、そこで記憶は終わった。

 そして気付いたら森で一人ぽかーんと座っていた。持ち物は何もなく周りには誰の気配もない。時折、鳥か何かの鳴く声が遠くから聞こえるのみ。

 本人も落ち着こうと善処はした。

 ――――えっと、取り敢えず落ち着こう。一旦落ち着こうか。

 「私アンジェラ。五歳女の子。うん、覚えてる。で、あれよ。あれ、家が確か……ん?いやいや流石に。親が……はて?んーん。アンジェラになる前のことはすっごい覚えているけど、今のことが、ちょっと、あれだ、思い出せないんだけど、なにこれ。え?なにこの事態っ」

 心中で言語化を試みたが、すぐに口から駄々漏れた。少しも落ち着けていない。 

 さらには、イライラもしてきたのか、左手は地面を軽快に叩き始める。やはり少しも落ち着けていない。

 「これって転生ってやつでしょ。転生して前の記憶あるのいいけど、今の記憶がないんじゃ困る。でも、そんなん言ってもどうしようもないし。てか転生って、何このファンタジーな状況。どうせならもっと、夢と希望がある感じでしたかったんですけど。ステータス異常記憶喪失で、森に一人って一体どうすりゃいいのよー!!」

 再び森に声が響き渡る。

 薄暗い森の中、幼子が一人時おり発狂する図は、心配を通り越してもはやホラー。

 目が合えば呪われる気配すらする。

 しかし今のところ、それを気にするものは幸か不幸か誰もいなかった。


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