恋枕~末の松山~
新しい紙を公任様にいただいた。宮仕え復帰のお祝いだそうだ。
別に祝うようなことではないと思うのだけれど、いただけるというものはいただいておくことにする。
さっそく何か書こうとは思うけれども、今は特に変わったことも起きていない。
手慰みに、皇后様に仕えていた時のことでも書こうかしら。
清少納言のことなら、語るに困らない。
それほど彼女の周りには色々な人がいて、色々なことがあった。
彼女の明るさと聡明さは、私や皇后様だけでなく宮中の男性方も惹きつけた。
だから、恋にまつわる話も見聞きすることは多かったのだ。
当時書いていた日記にも色恋に関する話が書き散らかしてあった。
せっかくだから、それらをまとめてみるのもいいかもしれない。
本人に伝わったら面倒なので、誰にも見せることのないように気を付けて書いていこうと思う。
皇后様のご兄弟である伊周様と隆家様が、花山院に対する不敬の罪を赦された頃。
まだ今の中宮様が入内される前のことである。
私が里居から宮中に戻ってくるのと入れ替わるように、清少納言が再び里に帰ると言い出した。
それまでも突拍子もないことを言い出すことはままあったが、その時も突然であった。
ある日の朝、私が物音に目を覚ますと、清少納言は里帰りのための荷造りをしていた。
私が驚いて体を起こすと、彼女は「起きたの」と呟くように言った。
こちらを振り返ることもなく着物を畳んでいたので、自分に声をかけたのだと気が付くのに少し時間がかかった。
私はまだ声が満足に出ない時で、清少納言相手でも寝起きにとっさの返事はできない。
それでも彼女は私が聞いていると判断したのだろう。着物を詰める手を止めないまま話を始めた。
「息子の則長が風邪を引いたらしいの。大したことはないというけれど、一応心配だから様子を見てくるわ」
則長というのは、清少納言と則光さんとの間にできた子供だ。私よりも五つ下で、則光さんに似て元気な青年だという。
しかし、清少納言が里居するとあっては、黙っていない人が大勢いる。
特に前の里居が長く、皇后様ですら御前に参上させるのに骨を折られたほどだったから、反対する人も多いだろうと思った。
清少納言もそのことはよく分かっているようだった。
「私の居場所は誰にも言わないこと」
この秘密の里居は、ごく一部の人間にしか知らせていないというのだ。
私は素姓法師の歌を諳んじて見せた。
山吹の花色衣主や“何処”問えど答えずくちなしにて
「ほとんど口の利けない私が、どうしてあなたの居所を口外できましょうか」
本来であれば「主や“誰”」となるところである。くちなしの実で染めた衣に、その色の主が誰か尋ねたところで返事はない。口無しだから、という洒落のような句だ。
私の答えに清少納言は呆れたように笑った。
「あなたほど秘密を守れる人もそういないわね」
まだ満足に日も昇らないうちに、清少納言は里に帰って行った。
朝の仕事があったので、見送りはしなかった。
しばらくして、橘則光さんが私のことを訪ねてきた。
「妹が、秘密を守り通す方法に詳しいのはあなただと言うもので」
私は清少納言の冗談を真に受けて、馬鹿正直に参内してきた彼に呆れてしまう。
「話したくとも口が利けませんから、紙と硯と筆が無ければいくらでも黙っていられるというだけです」
私が御簾の下から出した紙を読んで、則光さんはがっくりと肩を落とす。
「斉信様から妹の場所を吐けと問い詰められて参っているんです」
則光さんは、斉信様の家で家司として働いているのだった。
毎日顔を合わせる度に問い詰められれば、うんざりしてしまうのも仕方ない。
「妹にからかわれたのですね。私が本当にあなたを訪ねたと知れば、さぞ笑うことだろうなあ」
則光さんは憎らしげに呟いた。
「いや、時間を取らせて申し訳ない。あまり長居するとご主人様に見つかってしまう。あなたにまで疑いの目を向けさせては、後で妹に何を言われるか分かったものじゃない」
そう言うと、則光さんは帰って行った。
私が聞く限りでは、清少納言の居場所を知っているのは則光さんとその弟含め、何人かの気の置けない人物だけだということだった。
見るからに隠しごとが苦手そうな則光さんのことだから、少しでも秘密を共有する仲間と相見える時間が欲しかったのだろう。
その翌日か翌々日かに、公任様が箏の稽古をつけにいらっしゃった。
「そういえば、君は清少納言の居所を知らないのか?」
世間話の途中で、思い出したように公任様が尋ねる。
私は何も言わずに首を傾げた。
「君なら知っているかと思ったんだが」
疑わしげな目を知らん顔してやり過ごす。くちなしの君は、こういう時には都合がいい肩書きであった。
「斉信が彼女と話ができないのは退屈で仕方ないと癇癪を起しているのだよ。毎日彼女の兄貴分に当たり散らしているよ。彼が居所を知らないはずがないからね」
公任様は、くつくつと楽しそうな笑い声をあげて話す。
確かに、お二人の見立ては正しい。宮中で兄を名乗っている則光さんが、妹の場所を知らないはずはない。それ以前に、彼女が看病しに行った則長は、彼自身の息子でもあるのだから。
癇癪を起す斉信様はあまり想像できなかったが、公任様のおっしゃることなら、一回りくらい話が大きくなっていても不思議はない。
「昨日なんて、家に集めた客人の前で斉信が則光を質問責めにするものだから、見ているこっちが気の毒になってしまったよ。困り果てた則光のやつ、どうしたと思う?」
私が再び首を傾げるのを見て、公任様はにやにやと笑いながら続けた。
「皿に盛ってあったわかめをありったけ口に入れたんだ。あの大きい手でわし掴むから、相当な量だったと思うよ。頬が毬のように膨らんでそれは面白い顔だった」
そう言って、公任様は自分の頬を膨らませて見せる。
おどけた公任様の様子がおかしくて笑ってしまうけれども、則光さんの立場を思えば気の毒ではあった。
きっと、私と会っていたことで咄嗟に「口が利けなければいい」と思い当たったのだろう。そうして、間の抜けた顔を大勢の前で晒す羽目になったのだ。
「あまり則光さんをからかわないで差し上げてくださいね」
そうお伝えすると、公任様はにやにやと笑っていた。
「おや、則光を庇うということは君も共犯者かな?」
私はその質問には答えず、その辺にいた童に厨からわかめを持ってこさせたら、公任様は笑って帰って行った。
清少納言にもわかめの件は伝わっていたらしく、帰ってくるなりおかしそうに話すのだった。
「まさか兄さんが、本当にあなたのところに助言を求めに行くなんて思わないでしょう」
「則光さんは大真面目でしたよ」
「くちなしの歌を詠んでやれば良かったのに」
「気の毒でそんなことできません」
私の答えを聞いても、清少納言はころころと笑うのをやめなかった。
そうやって話していると、清少納言を呼ぶ声が聞こえる。
則光さんがやって来たのであった。
「清少納言、あのわかめはどういう意味だったんだ? 俺は斉信様に居所を教えていいか聞きたかったのに。わけのわからない贈り物を無心したつもりはなかったんだがなあ」
「なあに、やって来るなりうるさいわね。まずは自分の子供の様子を聞いたらどうなの」
呆れて答える清少納言に、則光さんは言い返す。
「そうは言っても、君のせいでひどい目に遭ったんだぞ。斉信様が妹のもとに連れて行けと言ってゆずらないものだから、でたらめな所に連れ回して、しこたま怒鳴られた。それから三日は口をきいてもらえていない」
「斉信様には私からきちんとお詫びをしておくわ。でも、もう少し兄さんの察しが良ければそこまで怒らせることも無かったでしょうに」
清少納言の言葉に、則光さんは全く思い当たらないというよう首を傾げる。
彼女はため息をついて何事か紙に書いて御簾から出した。
「歌を詠んだな。絶対見ないからな」
則光さんは、それが触ると指が溶ける毒だとでもいうように扇ぎ返す。
ひらりと舞い戻って来た紙切れは、隣にいた私の膝元に落ち着いた。
かづきするあまのすみかをそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ
海に潜る海女の棲み処を海の底だと言うように、私の居場所を言うことが決してないように注意したのです。
「目くばせ」と「め(わかめ)食わせ」とをかけた洒落だ。
清少納言は私の手から紙切れを取ると、くしゃくしゃと丸めてしまう。
「いつか私の居場所を聞かれて、わかめを口に入れてやり過ごしていたでしょう。あの時のように上手く黙っていてねという意味でわかめを入れたのよ。斉信様にもその話をして差し上げたら良かったのに。きっと喜ばれたわ」
そこまで説明して、やっと則光さんが膝を打つ。
「なるほど、そういうことだったのか。いや、君はいつも回りくどくていけない」
「兄さんが鈍すぎるのよ」
私は、頭を抑える清少納言の横から口を出す(正確には、紙切れを御簾の外に出した)。
「でも、清少納言が帰ってきて斉信様のご機嫌も上向いていらっしゃる頃でしょう。先ほどの歌と一緒にお話すれば、面白がってくださると思いますよ」
私の提案にも、則光さんは首を振る。
「とんでもない。歌の話なんぞしたら、『それで、お前はどう返事をしたのだ』と聞かれるに決まっています。そんなことになったら、かえって恥をかいてしまう。妹の評判にも泥を塗りかねませんから」
則光さんの言葉に、清少納言はふん、と鼻を鳴らした。
「歌くらい詠めなくてどうするのよ」
「俺の売りは歌の上手さじゃないんだ。誰も期待しちゃいないさ」
「兄さんのそうやって諦めたようなところが嫌いよ」
「そうかい」
清少納言からきつい言葉をぶつけられても、則光さんはあまり気にした様子もない。
「なんにせよ、少しでも俺を兄貴だと思って好いてくれるうちは、俺に歌を詠みかけるのは勘弁してくれよ。見るだけで頭が痛くなって吐きそうになる。俺にとっちゃどんな呪詛よりも効き目があるかもしれない」
則光さんは「あなおそろしや」と、大げさに身を震わせて見せる。
「金輪際、関わりたくない、絶交だと思った時にこそ歌を寄越せばいい。甘んじてその呪いを受け入れよう」
則光さんは、そう言ってにやりと笑う。
「呆れて物も言えないわ」
清少納言がため息交じりにそう呟くと、則光さんは笑いながら立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ失礼するよ。くれぐれも、斉信様にはよく言っておいてくれ」
体格の良さや、平素の大雑把な考え方とは裏腹に、足音は御前に来る誰よりも静かな則光さんであった。
彼の姿が内裏のざわめきに溶けていった後も、清少納言の視線はそれを追ったまま虚空を彷徨い続けていた。
「それなら、どうして歌人の娘と結婚なんてしたのよ」
彼女の呟きだけが同じように人々の声の中に溶けていったのだった。
錦の紅葉すらも散り始め、皆が少しずつ年の暮れを意識し始めた頃。
「そういえば、則光が遠江の地方官に任じられるかもしれないのですって」
御前に参上していた時、ふいに皇后様がそうおっしゃった。
清少納言がはっと顔を上げたのを御覧になると、中宮様は微笑んで続けられる。
「妹の耳には入れてやれと帝が教えてくださったの。除目があるまでは、はっきりと決まったとは言えないけれど」
清少納言は深々と頭を下げた。
「お心遣い痛み入ります」
「兄と離れるのはつらいことかもしれないけれど、昇進を喜んであげなさいね」
伊周様と隆家様がようやく京に戻って来られるという時分だったから、皇后様のお言葉はご自身のご経験に基づいてのことだろうと察せられた。
清少納言もそれを思ってか、より深く平伏した。
翌日。則光さんが清少納言を訪ねてきたので、彼女はさっそく昇進のことを話していた。
則光さんの反応は意外にも薄かった。
「ありがたいことだが、そのことを他の人に触れ回ったりするのはやめてくれよ」
「もっと大喜びするかと思ったわ」
清少納言も則光さんのあっさりした態度に拍子抜けした様子である。
「まだ正式に伝えられたわけでもないのに大騒ぎして、いざ除目の時に何の変わりもなかったら情けないじゃないか」
「でも、せっかく帝や中宮様がわざわざ教えてくださったのよ。もう少し喜んで見せてもいいじゃない」
「ぬか喜びだった時に恥をかくのは俺だろう」
「またそんな情けないこと言って」
「俺は慎重なんだよ」
「意気地がないんだわ」
ちょっとしたことで言い合いをし始める二人である。
部屋の前で騒ぎ立てるのもみっともないので、私が清少納言の前に割って入ることになるのだった。
則光さんが帰ってしまってから、清少納言は盛大にため息をついた。
「兄さんは嬉しくないのかしら。伝え甲斐のない人だわ」
「清少納言さんにとっても、お兄さんの出世は喜ばしいことですか」
私の言葉に、清少納言は少しだけ間をおいて答える。
「誰だって嬉しいものでしょう」
彼女はこういう時自分のことをはっきりと口にしたがらない。
普段は嫌というほどすっぱり物を言う性格なのに、肝心なことは教えてはくれないのだ。
それが私にひどく虚しさを覚えさせるのである。
私が彼女を理解したいと思うことは、彼女にとって取るに足らないことなのだ。
清少納言の関心は、いつだって皇后様にあったのだから。
そうであるならば、私の探求心も彼女の与り知らぬところだろう。
何を思ったのか、私はその日の夜、則光さんの宿直所を訪ねて行った。
夜の外出ははっきり言って命を捨てるに等しい。ましてや、女の身であれば盗賊や、卑しい者たちに襲われて殺すより酷い目に遭わされることもあろう。
そうでなくても夜は鬼や霊が出やすいと聞く。取り殺されてしまってもおかしくはないだろう。
今となっては、何故そんなことをしてしまったのかと頭を抱えてしまう。
当然のことながら、則光さんにも大層叱られた。
「なんだってそんな馬鹿な真似をしたんだ」
「遠江のことで、清少納言の居ないところで聞きたいことがあったのです」
妹の名前が書かれた紙を見て、則光さんが少しだけ顔色を変える。
則光さんは一度大きく息をついてから口を開いた。
「何を聞きたいとおっしゃるんですか」
「もし、本当に昇進して遠江に任ぜられるとしたら、則光さんは嬉しいですか」
「そりゃあ、嬉しいですよ。少しでも出世したいと日々仕事に励んでいますから」
「でも、今日のあなたは本当にそうなっても喜べないように見えました」
私の言葉に小さくため息をついて、則光さんは立ち上がった。
「送ります。中宮付きの女房が朝まで男の所に居たとなれば不都合もございましょう。お話は道中でもできますから」
則光さんは、腰に太刀を携えて、出かける準備をする。
十くらいの小舎人童が供としてついて来た。
夜の道は手元の火でようやくお互いの顔や足元が見える程度で、とても恐ろしい感じがする。
冷静になってしまえば、一人では到底歩けないような道だ。
「よくもまあ、ここを一人で通って来ましたね」
童は恐ろしがって私の袖を離さないし、則光さんも呆れていた。
「それほど、私と妹のことが気になりますか?」
私が頷くと、則光さんはにっこり微笑んだ。
「正直なところ、自分でもよくわからないのです。当然、昇進自体は喜ばしいことなのですが、それよりも先に妹と離れることの喪失感のほうが先に来てしまう」
月が、則光さんの頬を照らす。優し気な顔は、月明かりの元だと青白く映った。
「兄という立場を選んだのは自分だというのに」
自嘲するような則光さんの呟きは闇の中に溶けて消えていく。
その闇から、ぼろぼろの着物を纏った男が三人現れ、にたにたと笑いながらこちらに近づいて来た。
「やあ、そこなる若い御方。ここは通しませんぞ」
どこから入って来たのか、見るからに野蛮そうな男たちは大きな刃物を片手に襲い掛かって来る。
「走れ!」
則光さんの声を合図に、小舎人童は弾かれたように逃げていく。
則光さんは、私の腕を引いて走る。
盗賊たちが後ろから何事か喚きながら追いかけてくるのが恐ろしくて、もつれそうになる脚を必死に動かした。
「俺が合図をしたら伏せて」
走りながら伝えられた言葉にがくがくと頷く。
男たちの足音はどんどん近づいて、乱暴な足が蹴り上げる砂や石がこちらにまで飛んできた。
いよいよ追いつかれるのではないかと思ったその時。
「伏せて!」
私は言われた通り地面にしゃがみ込む。
則光さんも、私に覆いかぶさるように地に伏せた。
すると、盗賊の一人が私たちに蹴躓いて派手に転んだ。
則光さんはすぐさま起き上がると共に太刀を抜く。
転んだ男が起き上がるよりも先にその頭を叩き割った。
「こいつ、やりやがったな」
「生意気な奴め」
後からやって来た二人も、一斉に則光さんに襲い掛かる。
一人は、振りかぶって来たところをさっと避けて、入れ違いざまに首をはねた。
もう一人は、刃を太刀で受け止めて、弾き返す。相手が後ろによろけたところに、右肩目掛けて太刀を振り下ろした。
「早く離れましょう」
則光さんは再び私の手を取って走り出す。
やっと安心できるかという所に来た頃には、私はもう立ち上がる事すらままならなくなっていた。
「申し訳ない。着物を汚してしまいましたね」
見れば、掴まれていた部分が赤く血で汚れていた。
それは、返り血を浴びた則光さんの手の形をしている。
ふいに緊張が解けてしまったのか、私の目からは涙が溢れてきた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫ですよ。誰も追っては来ていません」
「私のせいで、危険な目に遭わせて、ごめんなさい」
嗚咽混じりにそう伝えると、則光さんはにっこりと笑う。
「ずいぶん久しぶりにお声を聞いた気がします」
しばらくすると、数人の使いを連れた小舎人童が泣きながら走って来た。
「お前も無事でよかった。色々と手配してもらわないとならなくなった。できるな?」
則光さんの言葉に、小舎人童は涙を拭いてしっかりと頷くのだった。
こうして、私たちは何とか職曹司にたどり着いた。
「もう二度とこのようなことはなさらないように」
「はい、申し訳ございませんでした」
「それと、今夜のことは誰にも言わないでくださいね。私としても、面倒ごとは困りますから」
証拠を隠すため、汚れてしまった着物は、小舎人童に渡してしまった。
後のことがどうなったのかは分からなかったが、私の耳に届くような話がなかったということは、則光さんが上手くやってくれたのだ。
こんなことまで書いていいかしらと思ったけれども、今となっては会うこともないし、本人の不都合にもならないだろう。
浅はかな自分への戒めとして記しておく。
あの恐ろしい体験から、少し経った頃。
寒さは日に日に厳しくなって、雪もちらつくようになっている。
その晩は一段と冷えるので、炭を多めに焚いて、誰もが身を寄せ合うようにして眠っていた。
私は寒さのためになかなか眠ることができず、頭から着物を被って、できる限り身を縮めて震えていたのだった。
背中に伝わる清少納言の熱はだいぶ前から規則的な動きになっている。
冷え切った指先を胸に抱えていると、ふと、背中の温もりが消えた。
起こしてしまっただろうかと思ってそっと振り返る。
赤々と燃える炭火に照らされたのは、重なった二つの影であった。
その一つに冠が見えて、咄嗟に着物を被りなおす。
「何しに来たのよ」
清少納言の不機嫌そうな声が聞こえる。彼女の態度から察するに、侵入者は則光さんだろう。
「起きてくれて良かったよ」
低く抑えられた声は、清少納言と、彼女にぴったりと身を寄せていた私にしか聞こえていないだろう。
「口を塞がれたら誰でも起きるわよ」
呆れたような声が降ってくる。
彼女の返事に、則光さんは息だけで笑った。
「なぎ子に会いたくなった」
なぎ子、というのが一瞬誰か分からなかったが、恐らく清少納言の名だろう。
「酔っているの?」
「もう一回確かめるか?」
清少納言は近づく影を押し返す。
「いい加減にして。酔っ払いは嫌いよ」
体格のいい則光さんにとって、彼女の抵抗はあってないようなものである。
清少納言の細腕を掴んだかと思ったら、そのまま彼女を自分の腕の中に迎え入れた。
「なあ、なぎ子。俺が遠江に行くことになったら付いて来てくれるか?」
返事はなかった。
炭の燃える音がぱちぱちと響いている。
「どうしてそんなことが言えるの?」
ようやく聞こえた清少納言の声は潤んでいた。
「私を妹にしたのは則光のくせに。どうして今更そんなことを聞くのよ」
今度は、則光さんが黙る番だった。
一つになった影からは、清少納言のすすり泣く声だけが聞こえている。
「俺は、兄として振る舞えばお前の隣にいられると思ったんだ」
「先に私の隣からいなくなったのは則光の方だったじゃない。私を捨てたこと忘れたとは言わせないわよ」
「忘れてないさ。あの頃だって、片時もお前を忘れたことはなかった」
則光さんはより強く清少納言を抱きしめた。
「俺の為にお前の才能を籠に閉じ込めてはおけなかった。俺にはそれを受け止めるだけの器がない」
「それで、今度は手元に置いておきたくなった? 身勝手な男ね」
「そうだな」
「私の気持ちなんてまるで考えてない」
「返す言葉もない」
則光さんの声は、静かで、落ち着いていた。
「少し前、危うく死ぬような目に遭ってね。真っ先に浮かんだのはお前の顔だった」
あの夜のことだ。思わず身を硬くする。
清少納言も驚いたのか、息を呑むのが伝わって来た。
「遠江に任ぜられたら、いつ帰って来ることになるか分からない。もうお前に会えなくなると思ったら、ここに来ていたよ」
則光さんは、再び清少納言に口づけをする。
今度は清少納言も拒みはしなかった。
「私はもうあなたのなぎ子ではなくなってしまったの。今は中宮様の清少納言なのよ」
清少納言の言葉に、則光さんは小さくため息をついた。
「本当に、俺は馬鹿な男だな」
「私は初めから知っていたわよ」
二人はくすくすと笑いあった。
「今宵は、俺だけのなぎ子の振りをしておくれ」
清少納言からの返答はなかった。
あるいは、私が聞き取れなかったのかもしれない。
目が覚める頃には炭の音も聞こえなくなって、残ったのは灰と、わずかな燃えかすだけであった。
まだ他の誰も目覚めていない部屋で、清少納言だけが明ける前の空を眺めていた。
それから、則光さんが以前のように清少納言を訪ねてくることは無くなった。
周りの人々は、二人が仲違いするようなことがあったのかしきりに噂をしていた。
私は、一度だけ則光さんから清少納言の元に手紙が届いていたのを知っている。
いよいよ年も暮れようとして、二人の噂さえも年の瀬の忙しさに取り紛れようとした頃だった。
「清少納言様はおられますか」
少年のよく通る甲高い声が部屋に響く。
ちょうど応対できる者が私しかいなかったので、御簾の近くまで行った。
「清少納言はいませんよ」
そう書いた紙を差し出したが、童は字が読めないようでおろおろとしている。
「清少納言様にお手紙です」
童はそう言って御簾の中に手紙を差し入れてくる。
本人でもないのにいかがなものかと思ったが、伝えようもないのでそのまま文を受け取ってしまった。
「あら、どうしたの」
手紙を片手に困り果ててしまった私に、藤大納言が声を掛けてきた。
「清少納言にお手紙なんですけど、いないと伝えきれなくて。そのまま受け取ってしまいました」
「あら、大変。誰かに清少納言を呼んできてもらいましょう」
そういえば、誰からの手紙かも聞かなかったと反省する。
誰が呼びに行ってくれたのか、すぐに清少納言はやって来た。
「兄さんだわ」
文を広げて、清少納言は言った。
「馬鹿ね、無理しちゃって」
清少納言がおかしそうに笑うのが気になるけれど、詮索するのは憚られて首を傾げるだけにした。
その様子に気が付いて、彼女は私にそっと耳打ちする。
「いつか私の父が詠んだ『末の松山』のように、変わらず兄として見てくれですって」
「末の松山」と言えば、どんな波も越えられないことから決して変わらないものの例えとして使われる歌枕だ。
例えとして、則光さんは間違っていないと思う。
「でもね、私の父が詠んだのは、心変わりを恨む歌なのよ」
そう言って、清少納言は自分の父親が詠んだ歌を口ずさむ。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
袖を絞るほど涙で濡らして約束したというのに、末の松山を波が越えることのないよう私たちの心も変わらないと。
約束を違われてしまったことを恨みがましく詠んだ歌だ。
「変わらずにいよう」という文に用いる歌としてはふさわしくない。
「私の心変わりを責められているというのは考えすぎかしらね」
そう言いながら、清少納言は返事をしたためる。
崩れ寄る妹背の山のなかなればさらに吉野の河とだに見じ
崩れてしまった妹背山の中が吉野川だとは見えないように、私たちの仲も兄妹とは見ることができないほど崩れてしまった。
「良いんですか、歌なんて詠んで」
「きっと、読まずに捨ててしまうでしょうね」
清少納言がくすくすと笑う。
「本当は、私は一度だってあの人を兄だと思えたことはなかったわ」
彼女の呟きを聞いたのは、私と水のように澄んだ冬空だけだろう。
手紙の返事が来ることはなかった。
年が明けて、則光さんは五位を叙され、遠江権守に任じられた。
則光さんの出発の日、清少納言は朝から晩まで御前にいて、ことさらよく笑っていた。
その日はいつもより少しだけ暖かくて、昼になるころには火桶も部屋の隅に追いやられてしまっていたのだった。
枕式部日記 佐藤香 @kaoru0115
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