生贄の世界

 命のように冷たい川だった。幼い頃に目にしたバゾの緋獅子の目と鬣を思わせる暗い夕陽に染め上げられ、永遠に溶けない雪に覆われたエトの山から下ってくるマトー川は火の穏やかな娘のように輝いていた。

 その川に私は幼馴染であったペトリの頭を沈めたのだった。ペトリの頭は西瓜くらいの重さだった。


 私はカヅリの町では、俊英として知られていた。やがてミュメンの大学へ行くだろうと期待されていた。そして私は邪悪であることでも知られていた。やがて炭になるまで焼かれ、マトーの川に撒かれるだろうと思われていた。

 生き物を殺すことが好きだった。苦しめることも。だから私は小さい頃からペトリをジメの神殿の石段から突き落として骨を砕いたりしていた。痛がる生き物を見ると頭が冷えて、静かで安らかな気持ちになった。


 そんな私がヘジュ祭の生贄に選ばれると、親も教師も誰もが安心したようだった。こんなに賢い子ならスク・ァフも喜ばれることだろう。


 風が運んでくる典宣花の香に包まれて、ともに川辺に腰掛けているとき、ペトリが言った。クユその人もまた残酷なものに殺されるんだ、面白いものだね。

 私はどこかでそれを知っていた気がする、と私は言った。

 私もそう思う、とペトリは言った。

 陽は熟れた卵黄のようにずるずると天の半球を滑り落ちていった。少し肌寒くて、息が苦しいような気がした。私は泣いていた。自分が死ぬことが嫌だったのではない。ただ私は多くのものに美と愛おしさを感じていたし、腹を開かれた蛙の心臓のちいさな拍動や、虫の躰を突き破って生える色とりどりの茸を見ることが本当に好きだった。私が死んで消えてしまうということが、その美を無意味にしてしまうように私は感じた。無意味になるほど、美しさは数のように純粋になった。ペトリは隣で口笛を吹いていた。物悲しく陽気な旋律だった。


 イルクアイヤル、アドミーラー。

 サムカナトメニル・ハ、イルククオーズフェ・メナーア。

 ト・ユク。


 私たちはみな、無から生まれた無の子供。

 愛を知らず、暴れ狂って朽ちてゆく。

 哀れんでください。


 生贄となる者は毎日、頭の働きを鈍らせる香の焚きしめられたジメ神殿の「奥義にいたる控えの間」で鐘二つ分の時間を経文を聴かされて過ごさなくてはならない。厚い眼鏡の神官や顎の曲がった神官が日替わりでつく。

 この神官たちの誰一人として、スク・ァフのことなど信じてはいないのだ。子供がピニョルミニョル妖精など信じてはいないことを知りながら春の鍵の朝には靴箱に焼き菓子を入れてやる親たちのように、人々はただ何かの口実として、スク・ァフを信じる者がこの世に一人でもいるかのようなふりをする。ヘジュ祭の贄を輩出した両親は大きな名誉を得るだろう。それで人々は自分たちの偽りがしっかりと機能していることを確かめて安心するだろう。そのために私は死ぬのだ。

 夕方近くなって解放されると、私は専らペトリと川辺で話をして過ごした。

 その日は、芋の屋台が出ていて、いい匂いがしたから一つ買って、ペトリと分けて食べるつもりでいた。奴がいつもいる図書院に行ったが、姿が見えなくて、日が落ちるまで待っても現れなかった。

 一週間ほど前のことだった。一人の男がカヅリの町にやってきた。男の目と鼻は肉で塞がっていて、口で荒い息をしていた。長い杖を左右に振りながら歩いていた。どこから来たのかと人々が訊いても、答えなかった。聞えていないのかもしれなかった。男の姿は町のあちこちで目撃された。夜は道で眠り、若い男たちに蹴られ、殴られ、杖を折られ、服をひん剥かれた。そのたびに、あまりにも憐れなものだから、誰かに助けられた。そしてこの日の朝、ペトリの家の裏の樹で首をくくっているのが見つかった。

 それからだ。ペトリは水晶の混じった血を吐くようになった。

「クユが生贄になるところは、見られそうにないね」

 病床でペトリは言った。体のあちこちを破って、青くぼんやりと光る水晶が突き出ていた。私の前でどろどろの濁った血を大量に吐くと、彼女の母がそれを笊にかけて丁寧に血を洗い流し、水晶の欠片を選り分けた。

「なんて綺麗なんだろうね」

 微笑みながら、彼女の母は手の中で光る水晶を凝視した。

 私はその水晶を少しも美しいとは思わなかった。滑稽でみすぼらしいものとさえ感じられた。それよりも、ペトリの母が裏の樹まで捨てにゆく黒い血の方が、どんなに美しいか知れなかった。


 ペトリの病はジメ神殿の知るところとなった。神殿は本庁に使いを出して調査を依頼し、この病が、イツルァパーサから来た呪いであることを突き止めた。この呪いは、放置すれば国の全ての生き物が水晶の彫像となるまで広がり続ける。

 ペトリは神殿の者に連れ去られ、奥義の間で首を切断された。首から下は深い穴に毒虫と蛇とともに放り込まれ、蓋をされた。頭部は奥義の間の神体前に安置され、三日間清められたのち、本庁まで送り込まれて処置を受けることになる。呪いを奇跡に転じ、大いなる恵みをもたらす聖物に変えるための処置だ。そうすれば、ペトリはあらゆる病を癒し、土地を肥えさせ、未来を占う水晶をこの世にもたらし続けるようになる。いつまでも人々はペトリの名に感謝を捧げるだろう。


 ペトリの首が安置された奥義の間に続く控えの間で、厚い眼鏡の神官はいつものように退屈そうに経文を読んでいた。私が立ち上がると神官は驚いて「どうしましたか」と言い、呆れるほどなんの抵抗もなく私のナイフは彼の喉に突き立てられた。神官はしばらく手をばたばたさせたあと、へらりと笑って息絶えた。死に顔も笑ったままだった。

 私は奥義の間の錆びた錠をナイフの柄で叩き壊して扉を破り、やがて私の首が置かれるはずだった、今はペトリの首が置かれている祭壇の前に立った。神体らしい、何も映さない鏡が壇の向こうに掲げられていた。真っ黒いそれを覗き込むと一瞬意識を失いそうになったが、突然鏡が目の前から消えたので助かった。気づくと私は鏡を片腕に抱えていた。

 私は鏡にペトリの頭を乗せ、風呂敷で覆うと神殿を抜け出し、マトー川へ走った。夕方が近づいていた。不思議なことに、街では誰ともすれ違わなかった。

 川辺で包みを解き、ペトリと顔を突き合わせた。瞼や唇の間、額や頬や首の断面から、小さな水晶が突き出していた。何かを諦めたような表情をしていた。

「さようなら、ペトリ」

 私は彼女を川に捨て、ついでに鏡も放り込んだ。やがてこの川の下流一帯に、イツルァパーサの呪いが広がることになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。それはもうどうでもいい事だった。

 なんにせよこれで私は言語道断の大罪人だ。ジメの神殿はもう私を生贄にしようなどとは考えず、最も陰惨な方法で処刑しようとするはずだ。私の両親も名誉を賜るどころか、生涯後ろ指を指される身の上になるだろう。私とまとめて処刑されるかもしれない。

 でも私はスク・ァフのためではなく、別の何かのために私を生贄に捧げたい。


 追手が来る前に早くここを離れなくてはならない。ペトリがずっと遠くへ流れてしまうまでは、川ざらいなどされてしまうわけにはいかない。私はペトリと幾度も一緒に過ごした土手から、最後に夕陽を眺めた。一日の最後の輝きで、川も街も燃え上がるようだ。


 これら全て、誰か受け取ってくれるのかな。


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