ピエタを見つめている

シジロ

ピエタを見つめている

 言葉の消えた空間で、創造をしていた。両手を使って器用に形作る。わずかな間に、滑らかな絹がそこに生まれた。トントン、四角い椅子の閉ざされた面が踵で蹴られる。整えたばかりの部分を指でつぶして、またヘラを握った。壊れた絹に表情は揺らがない。どこかで硬球が打ち飛ばされた音がした。

「まだやってたのか」

 視界の左に見慣れた男性が現れた。それを合図に手を下ろす。

「まだまだ時間はあるんだし、あんまり根を詰め過ぎても。学生の本分は勉強だぞ。時間内でやめときな」

「先生」

「ん?」

「私は、学生でいいんですか?」

 空が暗くなっていた。今日もまた、美術教師である鳳(おおとり)善次(よしつぐ)の車に乗って帰宅する。車内はカーステレオからラジオが流れ、善次は多くを喋らない。コミュニケーションを望まない生徒には、それでよかった。シートベルトに固定された体を脱力すると、ひたすらに窓の外を見つめながら思う。

 ユキコ、私がゆっくり消えていく。


 桜が散るのは早かった。週間予報の通り、雨が続いたからだ。例外ではない今日も窓に打ちつけられる水滴を眺めていた。湿度の高い教室は本令まで騒がしい。まだ、悩ましい年齢だった時分、担任に薦められて入ったこの学校で、繰り返すように二度目の春が始まっていた。

 紣川(かせがわ)夕李(ゆり)は教室の隅で流れる風である。私立と始まるこの高校で、勉学にはそれなりについていき、級友たちに多くを語らないまま過ごしていた。およそ楽しいとも感じることはなかったが、彼女には勉学以上にここへ通う理由があった。

「今日は昼休み明けに集会があるので、五分前には体育館で整列しているように。二年生は校舎側で、松野(まつの)さんは生徒会の方に並んでいて。あと、紣川さんは表彰があるからシューズを忘れずにね」

 チラリと夕李を振り返る生徒たち。当人は雨を眺めるのと同じ表情で座っている。

「――全国学生美術コンクール、造型部門最優秀賞、二年B組、紣川夕李さん」

 全校生徒、その半数ほどが夕李に注目していた。スカートのしわを気にして、壇上へと進む。拍手がまばらに消える中、シューズの擦れる音が響いて、何度目だろうかとぼんやり考えた。

 おめでとう、なんてね。思考は巡り続けたまま、放課後がやってくる。

「あ、紣川さん。凄いね、大賞おめでとう」

 部員の一人、鈴木(すずき)琴(こと)が声をかけてきた。「…そんなじゃないよ、ありがとう」

 返事もそのままに、親指でぐにぐにと粘土に圧をかけ続ける。その姿を数秒見つめ、小さな会釈をするように琴は離れていった。夕李が所属するのは美術部だ。そこは絵画班と彫刻班という二つのグループに分かれており、彼女は当然後者にいる。推薦の理由もそれだった。現役の彫刻家が顧問を務める申し分のない環境へ進むことが、夕李にとってプラスであると誰もが思った。その眼差しを受けた夕李自身、「彫刻が出来るならどこでもいい」と答え、今に至る。

「昨日見た? ドラマ、タケルくんのやつ!」

「見た、アレマジヤバかったよね」

 美術室の前半分、絵画班から声が上がる。彼女らはデッサンの練習中、しかし手がくるくると回って途中かけの黒をなぞることはない。夕李の後ろで粘土をこねていた琴が、チラリと羨ましそうな顔を覗かせる。

「トリくんも見た? 昨日さ…」

「や、見てないよ。ごめん、ちょっと持ってくから」

 トリくんと呼ばれた男子生徒が自分のバインダーを持って立ち上がる。窓際でメモ帳を開いていた善次の前へ歩いていく。

「先生、見てもらえますか」

「ん? 出来た? どれ」

 バインダーを回転させながら画用紙を見定めていく。男子生徒が少しかがんで声をひそめる。「注意しろよな」

「自由がモットーだから、うちの部は」

「周りが迷惑するだろ、それは自由じゃない」

 トリくん――――鳳(おおとり)志弦(しづる)は顔をしかめた。善次と彼は教師と生徒、それ以前に兄弟である。弟の睨みに渋々といった感じで、善次は響くような大きな声を出した。「おーい絵画! 手動かせー」

 女子生徒たちはビクリとして、鉛筆を持ち直す。琴の肩も小さく上がって、当事者でもないのに冷や汗をかきながら粘土を触った。夕李は一瞥もくれずひたすらに粘土を追い続ける。これでいいだろう? と目線を送る兄に、志弦は奪うようにバインダーを取り返して「もう少し直します」と席に戻っていった。

 中庭の陽も落ちてきて、終わりを告げる鐘が鳴った。それぞれが片付けをしながら足早に帰っていく。その中で一人だけ、夕李は粘土から手を離さない。琴がその様子を窺いながら、小さな声でさようならと残して教室を出た。善次も職員室へ向かう。

「紣川、また、七時には来るから」

 長居をするならそれまでと釘を刺され、言葉なく頷く。夕李以外の生徒は皆教室を出ていった。粘土の手触りを確かめヘラを握り、不要な部分を削ぐように手を動かしていく。タイムリミットまでは、彼女だけの時間だ――――

「紣川さん」

 ヘラが像の手前でピタリと止まり、顔が上がる。声をかけたのは、志弦だった。

「鳳くん」

「まだ残ってたんだ、いつも?」横の椅子を引きながら尋ねる。「や、さっき兄…先生がまた来るからって」

「うん…そう、最近は遅くて、先生に送ってもらってるから」

「そうなんだ。あ、今日表彰されてたっけ、おめでとう。今も新しいの作ってんの?」

 右手のヘラが机に置かれる。「ありがとう。最近は…ほとんど出来てるのをちょっとずつ修正してて、新しいのは日美(にちび)の大会用と、今…展覧博のを」

「へえ、凄いな」

 それが心ない言葉だと夕李はすぐに分かった。だからといって悲しむこともない。慣れているのだ、そういうことに。

「俺も残ろうかな、邪魔じゃなかったら」

「別に私は……。鳳くん、その方が帰りやすいもんね」

「んー、そうっちゃそうかな」志弦の眉が歪む。

「俺、ちゃんと描き始めたの高校からだし、出遅れてるんだ。デッサンも未だに慣れない。そうだ、こっからは話しかけたりしないからさ、紣川さんモデルに描いていい?」

「私…でよければ…動いちゃうけど」

「やった。ありがとう」ガタガタと中腰のまま椅子を動かして、夕李から少しだけ離れる。「じゃあちょっと、邪魔んなったら言って」

 困ったような顔で頷くと、夕李は再び自分の世界へ戻っていった。志弦はエナメルのカバンからスケッチブックを取り出し座り直す。普段、別のチームとして創作中に関わることのない横顔をじっと見つめる。初めて見るその顔は、何か気迫に満ちていて引いてしまうほどだ。紣川夕李、同じ部活で同い年の女の子。話しかければぎこちなく返ってきて、絵に描くことも許されるのに、皆、遠い存在だと感じている女の子。

 何が違うんだろう?

 思いながら鉛筆を持ち直す。彼女と自分、彼女と皆、敬遠される理由は才能なのか。夕李の手は激しくも繊細に動き続けるが、志弦の手はアタリをとっただけで止まってしまった。

「おーい、七時だ…あれ、志弦」

 ハッとして振り返れば、気だるげに善次が立っていた。

「お前も残ってたのか。紣川、切りのいいとこで終わりな」

 善次が近づいてくるのを見て、素早くスケッチブックを閉じ鞄に突っ込む。夕李はふと志弦の方を見て、席を立った。

「手を洗ってきます」

「おー、行ってこい」

 夕李が廊下に出ると、善次は志弦に耳打ちするように身を屈めた。

「何、仲良かったの、お前ら」

「違うよ、別に。初めてちょっと長く話したくらい」

「ふーん」

 雨はまだ降り続けていた。静かな車内は一人増えても変わらない。夕李が下りる間際、善次が余計なことを言ったせいで、志弦は機嫌が悪くなった。

「何だよさっきの」

「社交辞令だろ、これからも弟と仲良くしてあげてね~って」

「変なこと言うなよな。紣川さんも戸惑ってたし」

「…まあ、そう不貞腐れんな。どちらかと言えば、お前にこれからも紣川と仲良くしてほしいってとこだ」

 雨が車体に打ちつけられる。「は?」

「あいつ、孤高の天才って感じだろ。あんまりコミュニケーション上手くないし。このまま才能を活かしていく為にも、高校時代、心通わせる友だちの一人や二人はあってほしい」

「……やっぱ才能ある奴って、気になんの」

「そうだな」

「それって教師としてどうなわけ、平等じゃないっつーか」

「別に俺は紣川だけそう思ってるわけじゃないぞ。他の奴一人一人、思うところはある」

 納得できないような顔で志弦は固まった背筋を伸ばした。信号が赤になる。動き続けるバンパーを見ながら善次が口を開いた。

「だからお前のことだって――」

「俺のことはほっといて」

 強く言い切って、シートベルトの中で目をつぶる。今日の放課後を思い出しながら、雨が強くなるのを感じていた。


 部活の時間がやってくる。夕李はいつものまっさらな表情で美術室に入った。既に、一人の男子生徒が粘土をこねている。彼の時間を自分が壊してはいけないことを夕李は知っている。いつもの場所に鞄を置いて、準備室へ道具をとりに行く。

「こんにち…あっ、紣川さん」

 入り口で琴と鉢合わせた。こんにちは、と返してそのまま進む。反対に琴は美術室の中へ進むと、御堂(みどう)聖璋(まさあき)の姿を見つけて、恐る恐る挨拶をした。当然、聖璋は一瞥もくれず粘土に夢中だ。琴も、そうなることは分かっていて、それでもいつも挨拶をしている。

 聖璋も、夕李同様、各種コンクールで名を馳せる実力の持ち主だ。しかし、夕李と同じにされると本人はいたく怒るだろう。中学時代、彼の連勝記録を破ったのは、他でもない夕李なのだ。以来、聖璋は夕李にライバル心を抱きながら、制作を続けている。先日の美術コンクールでも、聖璋は夕李の背中を見ることとなった。それでも彼は躍起にはならず、飽くまで冷静に自分の時間を保ち続ける。

 夕李が廊下で濡れタオルを作っていると、小走りする音が聞こえた。

「紣川さん、ちは! 昨日はどうも」

 肩にバッグをかけた志弦が声をかける。「鳳くん、こんにちは」

「今日も残ってくの?」

「うん…多分」

「俺、邪魔じゃなかった? よかったら俺もまだ途中だし、部活終わってから続き描きたいんだけど」

 ぐいぐいと迫ってくる志弦に、体が反り返る。「う、うん。いいよ、私は大丈夫だから」

「ホント! よっしゃ、あ、あと俺のこと鳳って呼ぶのなしな。ほら…先生がいるからさ」

 苦い顔をした志弦を見て、夕李は頷いた。

「分かった。えっと、志弦くん?」

 下の名前で呼ばれたことに少しビックリして(他の女生徒のように「トリくん」と呼ばれると思っていた)、少し恥ずかしい気持ちにもなったが、兄と同じように呼ばれるよりはマシだった。

「うん、じゃあそれで。また部活後にな、つっても同じ教室にいるけど」

「うん、またね」

 夕李は濡れタオルを固く絞って、後方の扉から入っていった。その姿を眺めた後、やって来た他の部員に肩を叩かれ、志弦も美術室に入った。


 同じようで違う時間が過ぎてゆく。涼しくも強い横顔は消されてはなぞられて、未だ形を見せない。志弦は口をとがらせて、足を組んだ。改めて夕李を見つめてみる。華奢な手が息を飲むようなスピードで粘土を作品に変えていくのが見えた。人型のように見えるそれは、何をイメージしているのだろう。志弦の脳内では彼女に対する疑問がいくつも浮かび、その時を待っている。

「彫刻班てさ、あんま喋ったりしないよな」

 彼女が削いだ部分を指で確かめている途中、独り言のように投げかけてみる。

「ああ、部活中じゃなくて、普段、喋ってるイメージないっていうか」

「…そうだね、皆、喋る方でもないし……」

 彫刻班にいるのは、夕李、琴、聖璋の三人だけだ。聖璋はともかく、夕李も琴との会話は挨拶以外ほとんどない。「鈴木さんは、雰囲気良くしようとしてくれてる、かな」

「何で? 仲悪いの?」

「御堂くん、私のこと好きじゃないと思う」

「あー、御堂か…。紣川さん、御堂を負かしてるし」

「負かしてるなんて、そんな…」

「でも実際勝ってるだろ? 紣川さんのがよく壇上に上ってるもんな」

「……必要ないと思うの」

「何が?」

 夕李の手も作品をひと撫でして止まった。

「無理に仲良くする必要、ないと思う。作品を作るのが目的だから、それで居心地よければ輪を作らなくたって」

 閉じた口は透明な壁になって志弦の前に現れた。夕李の言葉は尤もだと思う一方で、交流がメインになりつつある絵画班の否定、そして自分とのコミュニケーションへの拒否にも感じられる。何となくばつが悪くて謝ると、夕李はびっくりしたような顔で振り向いた。そして、その謝罪が意味するところを理解すると、うろたえたように首を横に振った。その姿を俯いた志弦は見ていない。すぅっと空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出して言う。

「まだ、出来てないんだ、紣川さんの絵…だから……まだ…」

 夕李の体は志弦に向いて、手はまるで何かを包むような形でゆっくりと膝の上に置かれた。そして、小さく口を開いて頷いた。その日は、それで終わった。

 志弦には夕李が分からなかった。それでも糸のような関係を紡ぎ続けるのは、善次の言葉を覚えているからだ。兄が称賛する彼女をただ観察していたいと思った。志弦は、それが一番の近道だと思っている。


 久し振りの晴天だった。ホームルームが終わると、胸を弾ませて美術室へ向かう。どれだけ急ぎ足になっても、彼は必ず先にいる。いつものように一方的な挨拶を済まして、席に座る。それが始まりの合図だった。鈴木琴は、恋をしている。一心不乱に彫刻を追い求めるあの男に。少し歪な椅子が目印で、彼が見向きもしない斜め向かい、そこは彼女の特等席だ。勿論、何を話すわけでもない。ただ、彼を見るにはスリリングで絶好の位置だった。今日も一時間ほど、聖璋を見ながら過ごすことが出来る。それが琴の部活動だった。

 琴と聖璋は未だ一言も交わしたことがない。特に、聖璋は部活の始まりから終わりまで一切喋らない。その聖域を邪魔してはいけないと、琴も喋りかけることはない。それでも琴は、気の強そうな彼の顔と態度に惹かれ、彼の歴代作品もインターネットで検索するほど好きだった。

「鈴木さん」

 緩んだ顔を引っ張り上げたのは、夕李の声だった。

「は、はいっ」

「これ、今度の展覧博のエントリー用紙なんだって。記入して、御堂くんに回してくれる?」

 そう言って渡された紙は、何より輝いて見えた。

 日が落ちてきて、チャイムが準備を始めた頃、琴は決心をして聖璋に声をかけた。

「みっ、みどう、くん」

 聖璋は粘土の仕上げにかかっている。琴はそのまま続けた。

「あのね、これ、展覧博のエントリー用紙で、名前書いてほしいの。多分、書いたら先生に渡せばいいと思うんだけど…」

 口が渇く。伸ばした両腕が攣りそうだ。聖璋は粘土を削ぎ続けている。何も言われないと分かった琴は、その場にゆっくりと用紙を置いて静かに席へ戻った。初めて、何か言葉を交わせるかもしれないという淡い期待はため息と共に消えていった。

 チャイムとぴったりに聖璋は手を止める。そして、作品を後方の棚に置くと手を洗いに早足になる。夕李は相変わらず続けていて、琴はそんな二人に前後を挟まれながら帰り支度をし始めた。机の上を綺麗にし、戻ってきた聖璋と夕李にさようならと告げてから、肩に鞄をかけて廊下に出る。いつもと同じパターンで、別の部活動をしている友人を迎えに行こうとしたその時、「おい」と後ろから怒ったような声色で呼び止められた。しかし、琴はその声が誰のものかすぐに分かり、何より緊張して振り向いた。

「お前、これ何だ。バカにしてるのか?」

 眉間にしわを寄せた聖璋が、エントリー用紙を提示しながら迫ってくる。言葉の意味も分からず、琴は恐怖と緊張で固まりながら返す。

「えっ…なん、何で…」

 聖璋が正面に立つ。名簿に書かれた〝鈴木琴〟の字列を睨んだ。

「偽名だろ、これ」

「ちがっ違うよ、本当の…本名で…」

 鈴と木琴。小学校の頃、高い声と色の黒い肌を合わせてからかわれた嫌な記憶がじわじわと、薄い膜で蓋をしたその微細な隙間から滲み出すようだった。

「ああ、すずき、か。…ふ、まるでお遊戯会だな」

 いつもニヒルに上がった口角に加え、ほんの少し目を細めたように見えた。突然責められて冷えていった体が、いとも簡単に熱を取り戻してゆく。恋をしている。舞い上がるようなこの気持ちを彼だったら彫刻で表現するのだろう。目的を果たして戻っていく聖璋を見つめて、その場から動けなくなっていた。


 渡されたエントリー用紙を手に、善次は進路指導室へ向かった。彫刻家である善次は、美術教師と美術部の顧問を非常勤として勤めている。階段を上って左手の奥、その一室はまだ明るい。

「金子先生、失礼します」

 善次に呼ばれ、金子(かねこ)成実(なるみ)は恥ずかしそうに顔を上げる。机に向かって唸っているのを見られたからだ。「どうぞ、座ってください」

 中央にあるローテーブルを挟んだソファに腰をおろし、斜めにかけていた鞄からメモ帳をとり出す。成実は大きなファイルに綴じられた資料と三年の名簿録を抱えて向かいへ座った。

「どうですか、美術部の三年生は…」

 名簿録をめくりながら成実が切り出した。「浅見(あさみ)さんと、植木(うえき)さん」

「正直言って、二人とも、実力はそれほどでもないですね。美大志望であるなら、部活中の態度も厳しいレベルです」

「そうですか…幸い、幸いではないですかね、二人ともそっちに進む意思は見せていないので、このまま浅見さんは目指している国公立、植木さんは私大を学力の方で頑張ってもらえれば…」

「まあ、幸いでいいんじゃないですか。美大に進んでも、諦めてる奴もいます」

 善次の言葉がこめかみにひっかかる。「誰か、実例が?」

「一昨年卒業した前原(まえはら)を覚えていますか」

 前原つばき。夕李らが入部する以前の美術部部長であった女子生徒。

「前原がこの間電話をよこしてきたんです」

〈先生、私やっぱりダメだった。あの子たちみたいな才能なんてなかった〉

 悲痛な声が這うようにすがる。ありきたりな言葉しかかけられず、頭を痛ませた夜。

「あいつの彫刻に対する姿勢は、趣味レベルでした。それでも美大に固執して、押し出した結果が挫折です」

「あの子たちとは…」

「前原とは直接関わりはなかったですが、中学時代から有名でしたからね。紣川と御堂のことでしょう。同じ彫刻をする先輩として、今も入賞を続ける二人が良くも悪くも気にかかるのは無理ない話です」

 成実は驚いたように溜息をついた。

「凄いですね、紣川さんと御堂くんは」

「ええ、有能ですよ、彼女らは。――浅見と植木は九月のコンクール用に取り掛からせました。二人とも、充分余裕を持って勉強に取り組めるでしょう」

 メモ帳を閉じ、何気なしに置いたエントリー用紙もしまおうとする。それに成実が反応した。

「彫刻班の、ですか?」

「ああ、はい。学生展覧博のものです。何か?」

「いえ…鳳先生は、彫刻のお仕事も忙しいのに、進路相談まで付き合っていただいて…ありがとうございます」

「これでも一応、生徒のことは見てますんで」

 そう言って善次は、指導室を出ていった。成実はしばらく扉を眺めた後、息を吐いてデスクに戻った。


 夕李と志弦はまたいつものように二人になる。変わらない時間にホッとしていたのは志弦だけではない。先に口を開いたのは夕李だった。

「昨日は…ごめんなさい。私、志弦くんに嫌なこと言って」

 予想していなかった謝罪の言葉に、慌てて首を振る。

「そんな、大丈夫だよ。俺こそズケズケとごめんな。でも、紣川さんが嫌じゃないみたいで、よかった」

「私、人付き合い下手なの…。志弦くんとこうして話しているのだって、本当はどうしたらいいか分かってない」

「別に、分からなくたっていいって。こうして話すのだって、一年以上同じ部にいるのに新鮮で、前まで考えられないことだった。紣川さん、こういうの嫌なんだと思って…あ、でも必要ないのか…あれ……?」

 混乱する志弦に、夕李は小さく微笑む。

「大丈夫、嫌じゃないよ」

「そっか、へへ、それならいいや」

 少しずつ夕李の殻を壊していく。新たな一面が見えるのが、志弦には嬉しかった。

 定位置に座って各自作業を始める。夕李が息を吐いて、肩まで伸びた髪の毛を耳にかける動作を見て、その瞬間をスケッチする。鼻筋のラインから短いまつ毛を丁寧に描いていく。段々上気してくる頬の赤みをモノクロでどう表そうかと悩む。ふと、夕李の手の先にある粘土に注目してみた。

「何か勿体ないよな」

 スケッチブックを置いて、志弦が夕李の周りをうろつく。

「何が…?」

「粘土、それだけですげー作品になってるじゃん。でも、それって飽くまで型どりのためのものだろ? だから、何だろ、前座みたいな」

「うーん…でも、ここでしっかり作品像を作っておかないと、一貫したものは出来ないから…」

 確かに、夕李のそれは驚くほど細やかで綺麗だった。あまりに細かいと型がとれず、結局微調整の時に削ることになるのだが、夕李はいつも型どりの粘土を作る時点で全てを表現しきっていた。

 今回、夕李が作っていたのは、倒れた机に寄り添って物憂げな表情を浮かべる女性。風の流れ、息遣い、雑踏をも聞こえてくるような、その完成度の高さに志弦は感心してため息を吐いた。触れると崩れそうな粘土の彫刻を夕李はじっと見つめている。

「紣川さんの作品って、何か…本当凄いな。他はどんなのがあるの?」

 志弦の問いかけに夕李は首を傾ける。「大体、人、生き物かな…」

 濡れタオルで強く両手を拭いて、ポケットからスマートフォンを取り出した。二・三タップすると、スクロールして目的のものを見つける。

「こういったもの、とか」

 出された画面の中で、石膏で出来た真っ白な少女が四つん這いになり、顔を上げて右手を前に伸ばしている。何かを追いかけているのか、何かを掴もうとしているのか、表情は虚ろだ。『遥か』と付けられたタイトルの横には、金賞の文字と飾りが輝いている。

「中学三年だったかな。多分、横にスライドしていけば他のも写ってると思うけど…そんなに……」

「見る見る! ちょっと待って」

 少年が大人になっていく様、犬の優しくも寂しそうな眼差し、少女の愁い。どれも十代の少女が作ったとは思えないようなクオリティで、いつもトップの勲章が捧げられていた。志弦は一つ一つ、ズームにして画面に見入る。夕李は何も言わず、黙って志弦を見ている。

「あ」

 食い入るように見ていた志弦の顔が一瞬で緩んだ。夕李が不思議そうに覗きこむと、そこには夕李の手に抱かれた猫の写真。

「飼ってるの?」

「ううん、おばあちゃんち」

 まん丸の瞳に画面の中の夕李も笑顔になっている。

「…ちょっとこれは、恥ずかしいから、終わり…」

 名残惜しそうな志弦を横目に、画面を暗転させポケットへしまった。

「――――やっぱり、紣川さんて凄いな。何ていうか…作品、評価されるのは勿論だし、その、俺も…好き、だな、作品」

 褒めるところで妙に照れくさくなって口をとがらせながら伝えた。目線も天井を向いて、すぐそこにいる夕李がどんな表情をしていたのかは分からない。沈黙が、何故だか耳を熱くする。耐えきれなくなって夕李を見ると、真っ直ぐな瞳が揺れていた。一文字に結ばれた口がつらそうだ。不安になって見ていると、小さな声が絞り出された。

「心を打つ作品が悪人の作ったものと知っても、その人は純粋に楽しむことが出来るのかな」

 張りつめた空気が一瞬で砕け散ったように感じた。バラバラと落ちていく破片が体に突き刺さるのを黙って受け止めている。彼女の作品にも大きなそれがぐさりと刺さった。反応したのを見て、夕李は真後ろの作品を振り返った。髪の流れが降ってくる破片を弾き飛ばし、そっと手を添えたことで刺さったものは消えた。口が聞けるようになったのは、その後だった。

「悪人、って…」

「何でもないの、ごめんね」

 粘土のプレートをそっと撫でている。その顔は見えなかった。


 初めてを経験すると、後は大胆になれた。帰り際の聖璋を呼び止める。ただそれだけで、その先は何も出ず、怪訝な顔をして去られるだけだ。何か、何か、彼との繋がりが欲しかった。五度目の正直、心臓が口から出てきそうだ。琴は、ぎゅっと鞄の持ち手を握り締めた。

「何だ」

 不機嫌な声が返ってくる。思わず上擦った喉が羞恥を増した。

「おはなしをしませんか…?」

 おかしなことを頼んだと思う。それでも今は精一杯だった。

「お前、電車か」

「へ…はいっ」

 二人、歩幅の大きい聖璋に必死でついていく琴。一緒に帰っている、傍目から見てもおかしくない光景だった。それが嬉しくて、見られないように頬の筋肉を整える。

「あっ、あの、こういうの初めてだよね。彫刻班、話すことってあんまりなかったし…」

「そうだな」

「話す時間なんてないよね、集中してるのに。御堂くんも紣川さんも、いつも凄いなあ…」

 突然聖璋が立ち止まる。びっくりして追い越しそうになった琴は半歩下がった。

「紣川と一緒にするな」

 睨まれた強い視線に思わずおののく。小さくなる声で謝ると、聖璋はまた歩き出した。急いでついていく琴の中で、夕李だけに向けられる熱い思いが、針となって心をチクリと刺した。

 御堂くんは、紣川さんのこと…。

 首を振って考えを飛散させる。折角の帰り道なのだ。余計なことを考えていたら勿体ない。

「み、御堂くんは、普段音楽とか聞いたりする?」

「しない」

「そっか……」

 何かいい話題はないかと頭を巡らせていると、信号待ちで聖璋が止まった。後ろだった距離が隣になって近くなる。鳴り止まない鼓動、手を当てて感じる。

「御堂く…」

「木琴」

 突然、あだ名で呼ばれた。その呼び方は嫌だったが、呼ばれたことの嬉しさが増し、うっとりと返事をする。

「お前も、昔から彫刻をやってたのか?」

「ううん…高校に入ってから…」

「そうか」

 信号が青になる。聖璋は動こうとしない。

「お前は、下手くそだな」

「えっ…」

「粘土の扱いがまるでなってない。不器用だ」

「そ、そうだね…」

「一年以上、俺の斜め前でやってるなら、いい加減気付いたらどうだ」

 ドキドキが、嫌なドキドキに変わっていくのが分かった。顔が熱くなる。込み上げるそれをどうにか我慢していたかった。琴は何も答えられず、ボロボロと落ちてくる涙を拭うのに忙しい。それに伴って聖璋の言葉が何より重くなってのしかかってきた。

「泣いてるのか」

 俯いた嗚咽と隠すような腕でようやく気付く。声色は動じない。

「…私……」

「言われただけで泣くのか。弱いな、お前は」

 大きな音をたてて洟をすすった。恥ずかしさも相まって琴はいよいよ分からなくなる。

「別にお前を責めるつもりも、辞めさせるつもりもないが、今のままじゃついてくるのは厳しいぞ」

 聖璋の中で、一緒にされたくない夕李は琴より聖璋に近い。

「私…ついていけるなんて…思ってない…」

「じゃあ何で彫刻やってるんだ」

 あなたを見ていたいから、なんて羞恥以上に気まずい今は言えるわけがなかった。

「御堂くんみたいにレベルが高くなくても、彫刻をやりたい人はいます…多分」

「多分って何だ、お前のことじゃないのか」

「……………」

 詰問が苦しい、と琴は思った。彼の芯の強さが、自分の空白を明らかにしていく。止まればいいと思った〝時〟が、今は早く過ぎてほしかった。沈黙を続けていると、とうとう聖璋が折れて帰宅を促した。この期に及んで彼と帰った思い出が欲しくて、涙を流したまま後ろをついていった。改札を抜けると、売店から出てきた女子高生が琴に気付いて声をかける。嬉しそうだったその顔は泣き腫らした顔を見るや口角が下がり、心配そうに手を握った。

「だ、大丈夫、大丈夫だから…」

「大丈夫じゃないでしょ…どうしたの…」

 力の抜けた笑顔を作って対応するも、安心してはくれないようだ。そうしている間に聖璋の背中が遠ざかってくのが見えて、咄嗟に呼び止めてしまった。声に、ゆっくりと振り向く。

「さ、さよなら…!」

「…またな」

 そう返すとさっさと階段を下りていってしまった。琴は返事に満足して、隣で手を握る友人に凭れかかった。

 二人掛けの席を倒して四人掛けにする。車内はがらんとしていて、出発までまだ時間がある。

「何だ、二人で帰ってたの」

「うん…初めて、沢山話せてね…あ、でも、泣いちゃったけど…」

「だからそれ、大丈夫? 感極まってとかじゃないよね?」友人・寺嶋(てらしま)慶子(けいこ)が前のめりに聞く。

「ん…私が彫刻下手だから、そんなんじゃついていけないぞって」

「はあー!? 何それ、大きなお世話! 琴は琴のペースでやってるんだから、いいじゃん!」

 慶子はぷりぷりと分かりやすく怒る。

「彫刻班、レベル高いから…」

「関係ないよ。琴がやりたくて始めたことを他人にどうこう言われる筋合いない」

「うーん…でも私、不純だよ…。御堂くん見たさだもん…」

「賛同はしかねるけど…」

 アナウンスが流れ、ベルが鳴る。空気の抜ける音と共に全車両のドアが閉まった。琴はふと窓の外を見る。

「御堂くん、紣川さんのこと好きなのかな…」

「そうなの?」

「分かんない、けど、気にしてる」

 慶子は何か言いたそうな顔をしていたが、一緒に揺られることにした。浸りながら睫毛が乾くのを感じて、琴はそっと目を閉じた。


 夏が顔を出し始めた。昼休みの混雑した売店からようやく脱し、昼食のパンを片手にほくそ笑んで教室に戻る。廊下の先が夕李のクラスに差し掛かった時、志弦は覗いてみようと思った。各所机を動かして対面にしている女子のグループがあり、男子もまた固まっている。賑やかな教室、その中に一人、隅で細々と食事をとる夕李の姿があった。何だか見てはいけないような気がして、だけど目を逸らせなかった。気づけば足は教室内に侵入し、窓際で流れていた夕李の空気を壊していた。

「志弦くん」

 夕李は目を丸くして志弦を見る。大きな志弦が立っている、この教室内では異様な光景にクラスメイトたちも気にしだした。

「あの…紣川、さん、弁当持って、来て」

 ぎこちなく言うと、そそくさと教室を出ていく。夕李は疑問に思いながらも、箸をしまって小さな弁当箱を抱えて後を追った。間際に女子グループから黄色い声が上がったが、二人には聞こえていなかった。

 志弦が立ち止まったのは、人気のない廊下奥の階段を上ったところだった。そこに腰を下ろして夕李を促す。

「お昼ご飯、誘ってくれたの?」

 座りながら夕李が尋ねる。志弦は、その字面が恥ずかしくなって、小さな声で頷いた。夕李は納得したような顔で、再び弁当箱を開く。食べかけのおかずが少し右に寄っている。大袈裟に袋を破ってパンを覗かせる志弦と並んで食べ始めた。

いつもの放課後より、静かな時間が流れた。

「志弦くん、気にしなくていいからね」

 先に食べ終えた夕李がぼそりと投げかける。言われた志弦はパンを頬張ったまま目を見張った。

「え」

「私が一人で食べてるの、気にして誘ってくれたんでしょう?」

 夕李が首をかしげる。志弦は咀嚼を続けながら顔を背けた。

「嬉しいけど、私はあのままでも大丈夫だよ」

「でも何か…」

 惨めじゃないか、と声に出せない。

「強がりに聞こえる?」

「うーん…」

「本当だから、気にしないで、ね」

 夕李の口調は穏やかだった。まるで子どもを宥めるような温かさで、志弦は言いくるめられたような気持ちになった。

 今日も志弦は、兄の車に乗って夕李と帰る。閉められたドアに入り込む光を伝って、見慣れた家に入っていく夕李を眺めていた。ここからは兄の運転が少し乱雑になる。この時間があまり好きではない。

 家に着くと、二人して二階に上がり各々の部屋へ入る。志弦は重いブレザーを脱いでネクタイを外し、Tシャツに着替える。また二人同時に部屋を出て、一階の食卓へ急ぐ。今夜鼻をくすぐるのは八宝菜だ。

 似たくなくても似てしまう。向かいに座った二膳の箸が一番に掴んだのはそれぞれの皿の頂上に鎮座する鶉の卵。前歯でプチっと噛んでから、奥歯へ送る。はらはらと零れ出る黄身が舌先へ乗った。

「だいぶ、仲良くなれたか?」

 善次が聞いてきた。夕李のことである。

「別に、そんなに。今日も、気ぃ遣ったら気遣われた」

「ほお?」

 咀嚼音が響く。

「昼飯、一人で、寂しそうにしてるから、誘ったら気にしなくていいって」

「そりゃお前、お前が悪いよ」

 志弦の箸が止まる。

「紣川みたいなタイプは基本一人で大丈夫なんだから」

「何だよ、言ってること違くない? 仲良くしろって言ったじゃん」

「言ったけど、向こうには向こうのペースってのがあってな」

「俺だって俺のペースがあるよ!」

 机の上で拳を握る。隣で傍観を決めていた母親が心配そうに箸を下ろした。

「だから、お前がそんなんじゃ近づけるもんも近づけないって。もっと紣川の…」

「兄貴が言うから近づいてやってんだろ!」

 ごちそうさま! 音を立てながら食器を片づけて志弦は自室へ戻った。見ていた母親が善次に「ばか」と小言を投げる。

 ベッドにダイブした志弦は、ぐっと目を閉じる。顔がじんわり熱くなるのを感じて、兄の言葉を思い出した。

「かせがわ?」

「そう、お前クラス一緒かな?」

「うーん、いたかなあ、違う気がする」

 高校一年生、入学式の後。兄の指導する高校へ入学した志弦は、それだけで満足していた。

「中学から彫刻の賞を総なめしてきた紣川が、俺のところに来てくれるなんて…力入るなあ」

「そんなに?」

「そりゃあな、彫刻家として期待の新星、大切に育てなきゃ。お前、仲良くしてやれよ」

「でも兄貴教師なんだから、一人贔屓はまずくない?」

「教師としては他の奴も平等に育てるさ」

 志弦が〝紣川〟を見たのは、美術部へ入部し、初めての顔合わせの時だった。声の小さい、地味目な女子。兄の顔はほころんでいて、少し胸が痛んだ。そして、一年たつ間に、〝紣川〟は沢山の賞を獲った。

「紣川」

 紣川、紣川、紣川…――――

「そんなに紣川がいいのかよ」

 思い出していたメモリーは、嫌そうな自分の声で途切れた。


 出来上がった粘土の像に、ハサミで切った薄い金属板を挿す。石膏の型を外す際に重要な役割だ。複雑なそれを壊さないように、ペンでなぞり、それに沿って挿していく。

「鳳先生」

 夕李と聖璋以外が振り向く。扉の所で成実が呼んでいた。若い教師が二人、廊下の陰に消えていくのに、小声が色めきたった。

「紣川」

 数分すると、善次が顔を出して手招きをした。夕李は手にしていた金属片を置いて、廊下に出る。志弦はそれを見ていた。

「紣川さん、部活中にごめんなさいね」

 首を横に振り、怪訝な顔で成実を見る。

「この間出した彫刻コンあるでしょう? あれの結果が出てね、おめでとう、また優勝だったよ」

 成実が嬉しそうに手をパチパチと叩いてみせる。夕李は口をとがらせて、聞こえないような声で小さく会釈をした。

「それで、その結果も含めて、中市新聞の方が紣川さんのことを取材したいって連絡が来てるの」

 隣接県を含むこの地方で主力の日刊紙だ。夕李の家もとっている。

「明日の部活の時間、少し抜けても大丈夫? 事前に大まかな質問は聞いてあるから、書いておいてもいいし…」

「はい…」

 夕李の力ない声に善次が顔を覗きこむ。

「紣川、大丈夫か? しんどかったら断ってもいいぞ」

 何てことを言うの、といった顔で成実が善次を見る。

「大丈夫です。中学の時も、たまに…」

「よかった。それじゃあ、これ、質問ね。きっと紣川さんのプラスになるわ」

 肩を叩いて、成実は廊下を戻っていった。夕李はちらりと善次を見る。

「中学の時もあったのか?」

「まあ、もっと小さな地域の広報誌ですけど…」

「そっか。明日は俺も一緒に取材受けるけど、そういうの苦手なんだよ」こっそりと言う。

「先生が嫌だったんですね」

「仕方ない、腹を括るか」

 冗談めいていても夕李は思った。善次は、本当に嫌だったら逃げ道も用意してくれるのだと。

 翌日、やってきたのは四十代・小太りの男性記者一人だった。早口でまくしたてる彼の質問に、夕李は飽くまでペースを崩さず答えた。受賞の感想、学校生活、彫刻家の指導の下で学べる喜び、およそテンプレートな答えを期待して聞かれていると分かった。反発することもなく、曖昧な箇所は頷く。インタビューの最中、夕李の横には善次がいた。時たま振られる質問に、善次も受動的に答える。最後にシャッターを二・三切っただけでOKが出たので、写真写りが気になった。

「今日、どうだった?」

 石膏を塗る前、像の写真を撮る夕李に、志弦が聞いた。

「新聞? うーん…どうって、すぐ終わったかな」

「緊張した?」

「あんまり。妙に冷静になっちゃって」

「へえ、度胸あるなあ。俺絶対、前日からそわそわするもん」

 想像してみると可愛くて、少し笑った。

 夕李の記事は、案外早くに載った。琴や志弦が見たと嬉しそうに報告してきたが、夕李は特に気にならず、石膏型の乾燥に入っていった。

数週間後、学校に三本の電話が入った。一つは夕方のニュース番組、一つはSNSの情報サイト、そして、一つは彫刻をテーマにした雑誌。どれも夕李を取材したいという内容で、新聞の記事がきっかけとなった。夏季休暇も最中の暑い日に、成実が半ば興奮状態で善次と夕李に電話を入れると、夕李は表情を崩さず、善次は少し困ったような顔をして学校に向かい、取材を受けた。番組やSNSは新聞以上に生徒達が触れる所で、公開から数日たったにもかかわらず、休み明けの登校日にはあまり話さないクラスメイトたちも夕李の周りに集まり、その影響力の凄さを彼女に伝えた。夕李はいつもの顔で謙遜するばかりだったが、鼓動が速くなるのを感じ、一つ確信していた。自分は、ただの学生ではないのだと。

 寝る前、携帯電話をいじるようになった。毎日決まって〝紣川夕李〟を検索する。出てくるのはおよそ変わらず記事のサイトばかりだが、たまに、個人の感情を打ち明ける人がいるのだ。

『紣川夕李、うちの学校だ、凄すぎ!』

『紣川さん、最近よく見る、作品がプロのそれ』

『彫刻やってるなんて英才教育って感じ』

 暗闇で顔をブルーライトに照らされて、夕李の口角は少し上がる。しかし、それだけではない。何でも勝手に書くことの出来るインターネットの世界では、全く知らない人からの誹謗中傷も夕李の名前に投げられている。心ない言葉を見てしまうと、一度目を閉じて、もう一度見る。そして、自尊心を守るのだ。私は彼らとは違う。一通り満足すると、そっと画面を消す。

「ユキコ、凄いね」

 起き上がってぽつりと漏らした。


「たるんでるな」

 聖璋の言葉に、琴が反応する。

「ごっ、ごめんなさ…」

「何だ、お前もたるんでるのか」

「えっ、だって今…」

 あの涙以降、時々、聖璋は琴に話しかける。その度に琴は、少しの恐怖と大きな喜びに包まれる。

「最近の紣川だ。浮かれて目も当てられないだろ」

 自分じゃなかったことにホッとする。

「最近…凄いよね、取材とか受けて…」

「………」

「えと…あの…」

 彼の頭の中を占拠する彼女の存在。心がちくんと痛んだ。

「? お前は相変わらず何なんだ。何を考えてる?」

 あなたのことです、といっそ言えたらどれほど楽か。じっと見られるのに耐えきれず、琴は話を逸らした。

「御堂くんは、どうして…彫刻、やってるの…?」

「トップになるためだ」

 当然という風にきっぱりと答えた。琴は圧倒されて、体がのけぞる。

 聖璋がトップの勲章を獲得してきたことは、インターネットで知っていた。彼の名前には必ず華々しい結果と力強い作品がついてくる。だか、それは中学一年生までの話。翌年、その座にいたのは――

「紣川さん……」

「必ず俺は返り咲く。紣川よりいいものを作ってみせる」

 聖璋の瞳は闘志に燃えていた。強い眼差しに心臓が跳ねる。恐怖にも似た感情。一番でなければ意味がない、そう感じた。

「今でも、充分凄いと思うけど…どうして、トップになりたいの…?」

 褒めたつもりで聞いたその言葉を聖璋は心底分からないという顔で見た。琴は委縮する。

「やっぱりお前、何で彫刻やってるんだ?」

「えっ…何っ…」

「好きだからに決まってるだろ」

 〝好き〟というワードに心がざわつく。夕李の顔が過った。

「――御堂くんて、やっぱり、紣川さんのこと…その…」

「何だ」

「……す、好き、なの?」

「嫌いだ」

 間髪いれず答える。琴は力が抜けて、安堵で顔が緩む。

「何でこの流れで紣川が好きかどうかになる?」

「すみません…」

「いいか、あいつは、ライバルだ。俺と競える唯一の奴なんだ」

「唯一…」

「好きか嫌いで言えば嫌いだが、憎いわけじゃない。俺にとって、紣川以外はとるに足らん凡人だからな」

「じゃあ私…」

「お前は凡人だろ」

 ばっさりと切り捨てられて、少しへこむが安堵が強かった。聖璋の夕李に対する感情は、恋ではないことが分かって、琴は嬉しかった。それでもよくよく考えると、夕李だけに向けられる特別な感情が羨ましくあり、かといってそこに辿り着くことは出来ないのだと思った。辿り着くことは出来ない、しかし――――

「私も、彫刻を頑張りたい」

 小さく呟いた決心を聖璋は聞いていない。


 夕李と志弦は二人とも鉛筆を動かしていた。夕李は次の作品のラフ、志弦は何度も消しては描いている似顔絵の仕上げだ。長い時間をかけて夕李を描いたはずのそれは、人の顔であるものの別人のように見えた。完成は近いが、首は傾げたままになりそうだ。

「そう言えばさ、」

 肩を上へ伸ばし、一気に下ろす。夕李も机を押しやるように手を伸ばした。

「クラスの子が呟いてたよ、SNSで、紣川さんのこと」

「…どんな風に?」

「記事と一緒に、同じ学校だーって」

「そう…」

「そういうの見ない? 割と有名人だよ、紣川さん」

 鉛筆をこねるように転がす。「別に、見てなくも――」

 二人とも窓の方を見た。小さく叩く音がしたのだ。暗くなった中庭に、一人の女性がいた。

「え…誰…?」

 志弦が言いながら夕李を見る。夕李は眉を歪めて彼女を見ていたが、立ち上がって近づき、窓を開けた。

「ユキコちゃん」

「秀子(しゅうこ)先生…」

 先生と呼ばれた女性は嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、本当に、久し振り。大きくなって、元気だった?」

「元気です、先生も…お久し振りです。どうして…」

「テレビと新聞、それから雑誌も見てね、今日近くで用事があったから、もしかしたらと思って寄ってみたの。凄いわね、ずっと彫刻続けてくれてるのね」

「ええ、まあ…」

「うちの人も、喜んでるのよ」

 夕李の体に、一筋の電流が走った。

「あの小さかったユキコちゃんが、こんなに立派になって…」

「ありがとう、ございます…」

 久し振りに会った知り合いなのだと、志弦は後ろで思った。それにしては、夕李の顔が暗い。何となく、割って入らないとと思った。

「紣川」

 二人が志弦を見る。「あの…片付け、する、から」

「帰りの支度?」

「そう、ですね。そろそろ…」

「送っていってあげましょうか」

「大丈夫です、先生が、学校の…送っていってくれるので」

 そう、と女性は残念そうに言って、またねと去っていった。ゆっくりと窓を閉める。ほうと息を吐いた。

 振り向くと、鉛筆を握り締めた志弦が何をするでもなく鞄の中を確かめていた。

「志弦くん」

「あ…紣川、さん」

「紣川でいいよ。それより、ありがとう」

 礼を言われたことに安心してため息をついた。

「さっきの人…先生?」

「うん、昔のね、彫刻教室の先生」

「彫刻教室、珍しいな」

 話を広げようとしたが、夕李は廊下に出てしまっていた。先ほどの二人の会話、聞こえた部分を反芻する。

「紣川の下の名前って――――」

 ユキコ、だったっけ?

 廊下から戻ってきた夕李は善次と一緒で、そのまま聞くタイミングを逃して帰宅した。


 玄関を閉めた途端、大きく頭が揺れたように感じた。瞬きが遅くなり、目の前がチカチカする。今日、呼ばれた名前が脳を巡った。

〈ユキコちゃん〉

 ゆっくりと歩こうとする。拳が痺れ、足がもつれた。

〈ユキコ〉

 低い、優しい声が聞こえる。耳をふさぐより先に口に手を持っていった。感じとったこの不快感。まずい、焦ってトイレに駆け込む。乱暴に便座を上げ前のめりに顔を入れる。喉の奥から込み上げ、流れ出るそれを止めることは出来なかった。臭いにまた身体が反応し、嗚咽から上ってくる感覚にただ身を預け、口を開いているしかない。涙と洟を否応なく垂れ流し、息が出来ず勢いが弱まるのを待った。次第に呼吸が整って、目を開ける。どうやら終ったようだった。髪をかき上げたまま、トイレットペーパーで顔全体を拭う。喉がヒリヒリとするが、腹部から来る不快感は消えていった。流れる水の音を聞きながら、フラフラと歩いて、市販の胃腸薬を飲んだ。

 ベッドに横たわり、目を閉じてゆっくりと息を吸った。

〈先生〉

 あの日の夕李が、そう呼ぶ。振り返った優しい顔を思い出して、涙が流れた。

 鼓動は落ち着かない。夕李は、眠れなかった。


 休み明けに浅見が漏らした言葉を成実は気にかけていた。

〈先生、私、絵の方目指しちゃダメかなあ?〉

 模試の結果から志望校を本格的に固めなければならないこの時期に、ぐらついた意思が発した彼女にとっての逃げ道。善次には実力も態度も厳しいと言われていたが、それとなく相談してみることにした。

「無理ですね」

「はぁ…」

 想像はしていたが、きっぱりと断ち切られた。成実はもう少し何かないかと探ってみる。

「浅見さん、一年の頃に入賞もしていますし、選択肢の一つとしてもダメですか?」

「そんな甘い考えじゃどのみち受かりませんよ」

 二人きりの生徒指導室、思わず受験生がいないかドアを確かめる。

「金子先生、生徒指導の割に結構甘いですよね」

「そんなことないですけど…」

 かちんときたが、大人の態度で聞かなかったことにする。

「現実を見せるのも我々の役目でしょう」

「本人の意思を尊重したいだけです、無理は言いません」

「希望を奪われて生き永らえるのと、希望を求めて死に急ぐの、どっちが幸せだと思います?」

 成実は眉間にしわを寄せた。

「何かの諺ですか? そんなの…」

 言って考え込む。善次は答えを待たずに口を開いた。

「当然生きていられる方です。そうしたらチャンスが巡ってくるんですから」

「でも、奪われた希望は? 後悔しませんか」

「チャンスをものにするには相応の実力がいるんです。それは力不足が招いた結果ですね」

 浅見が同席していなくてよかった。成実は閉口する。

 きっと、鳳先生は、ほとんどとんとん拍子でやってこられたんだ。

 若くして第一線の彫刻家であり教師。タフであることは明白だが、持論が強くて思いやりに欠けている。ただでさえピリピリと薄い氷のように繊細な受験生の気持ちを汲み取れないのであれば、話すことはもうないと思った。

「浅見さんには私の方からお話しします。お時間とらせてすみませんでした」

「いえ、あ、来週は出張があるので、もし他にあれば」

 大丈夫ですと言うと、善次は部屋を出ていった。成実はデスクに戻って、後ろの窓をおぼろげに見つめる。甲高い笑い声が聞こえてきた。若い、と思った。

 未来に憧れを抱いている、そんな子ばかり。なのにどうして、希望を奪うと言えるの。

 深くため息をつくと、両手で顔を叩き、椅子を引いた。


 その日も、いつものように、石膏に触れた。アレンジを加えながら、像を作っていく。いつものことだ。完成図も頭の中に見えている。それなのに、指が、動かなかった。彫刻刀を握る自分の手が時折小さく見えて、何度も強く瞬きをした。

 初めてのことに、夕李は酷く焦った。表情にこそ出さないが、じんわり手の平が濡れていく。ラフ画を見直しても、完成図を想像しても、石膏に手が出なかった。

 見開いた目で振り向く。こちらには見向きもしない聖璋と琴がいるだけだ。

「……?」

 けれどその奥から、大勢の人が見ているように思えた。いくつかカメラもレンズを向けている。夕李は動揺した。鼓動が速くなると、人は近づいてきた。人垣の奥から声が聞こえる。耳をすませた。

「ユキコ」

 夕李は声の方を見つめた。一斉に視界が黒に包まれる。声の先が小さな光の点になり、〝ユキコ〟を呼ぶ。夕李は目を細めた。途端、下腹部がじりじりと痛みだし、肩の力が抜けていく。

 何度も何度も呼ばれて、しかし、声の主は見えない。


 夏が終わるのは早く、すぐに肌寒くなった。よく話すようになったとはいえ、連絡先も知らず、夏休みは一度も会えなかったことに、琴は寂しく思った。相変わらず彫刻は難しいままだが、真剣になった琴の意気込みを感じとったのか、聖璋の小言は少なくなり、その代わり他愛もない話が増えている。

 それだけで、充分と言えば充分なんだけど…。

 おそらくそれは聖璋がよしとしない。彼の世界は彫刻が絶対なのだ。

 慣れない彫刻刀を慎重に動かしていると、後ろで大きな音がした。何かが倒れたようなそんな音だ。のんびり振り返ると、夕李が床に伏していた。

「えっ、紣川さっ…あっ…!」

 目に飛び込んできたのは、倒れた夕李よりも、座っていた場所に残った血の跡だった。

「紣川!?」

 絵画班も気付いて、志弦が近づこうとしている。この赤を見られたくないと咄嗟に思ったが、善次もおらず、琴は慌てた。何も出来ないでいると、聖璋が志弦の間に割って入った。

「大丈夫だ、座ってろ」

 そう言うと、着ていたカーディガンを夕李の腰に巻き、机にあった濡れタオルを椅子にかぶせた。

「立てるか」

 夕李の腕を肩にかけ、立ち上がる。夕李は弱々しく頷いて、足に力を入れた。

「木琴、着いてこい」

 そうして、聖璋は夕李を連れて教室を出た。言われた琴はワンテンポ遅れて二人の後を追った。志弦はただ見ているだけだった。

「み、御堂くん! どこに…」

「保健室に決まってるだろ。お前、薬か何かあるか」

「あ、鞄に…」

「バカ、とってこい」

 保健室には誰もいなかった。

「横になれるか」

 夕李をベッドに連れていくと、すぐにロッカーを漁った。目当てのタオルを見つけると夕李に渡し、腰に引くよう言った。

「ごめんなさい、服…洗うから…」

「何もついてない、そのままで大丈夫だ」

 冷ややかな声。夕李は目を閉じて息を吐いた。パタパタと急ぐ音が近づいてくる。ポーチを持った琴が勢いよく入ってきた。

「御堂くん…!」

「俺は戻るから、しばらくここにいろ」

「え、はい…」

 聖璋は引き戸を閉めて、美術室へ戻った。二人きりにされた琴が夕李の顔を覗く。

「紣川さん、どうしよう、とりあえず薬飲んで…トイレ、行ける?」

 夕李は重たい体をゆっくりと起こし、頷いた。琴はウォーターサーバーの水をコップに入れ、薬と一緒に差し出す。蒼白になった顔が飲みこんだ。ポーチを渡し、すぐ隣のトイレへ誘導する。ずり足で進む夕李の腰を支えた。待っている間、聖璋の手際の良さを思い出す。自分の失態を見られたわけではないのに、顔が熱くなった。

戻ってきた夕李を再び横にならせ、近くの椅子に座る。

「鈴木さん、ごめんなさい、ありがとう」

「あ、いや、大丈夫! 私は何も…」

 こんなに弱々しい夕李を見るのは初めてだ。いつもはか細さの中に凛とした強さがある。

 静かな保健室に、時々夕李のうめき声が響く。まだ薬が効いていないのだ。琴は何か気がまぎれるような話題を探していた。苦しそうな夕李の顔を見ていると、目の下にクマがあることに気付いた。

「紣川さん…あんまり寝てないの?」

「…うん、ずっと、眠れてなくて」

「何か、えっと…大丈夫? 私が聞いちゃアレかな…」

 もごもごと尋ねると、夕李は視線をそらして、柔らかく「大丈夫、ありがとう」と言った。

 遮断されたコミュニケーションは繋ぎようがない。寝不足なので、話すより寝かせた方がいいだろうと、琴は黙った。数分たつと、夕李は穏やかな顔で寝息を立て始めた。琴はまた、夕李の顔を見つめる。

 紣川さんも、同じ、女の子なんだなあ…。

 普段、比べるのも恥ずかしい彼女は、生理痛と寝不足で倒れてしまうような普通も持っている。それでも揺るぎない、むしろ引き立てられる、彫刻の才能という魅力。

「――どうして紣川さんは、彫刻を始めたんだろう…」

 もしも違う道を進んでいたら、聖璋の中に彼女はいなかったのに。

 強すぎるライバルの休息を陽のあたるベッドの脇で見ていた。


 部活終わりのチャイムがなり、すぐに廊下を走る音が聞こえてきた。その音で目を覚ますと、琴はおらず、養護教諭がデスクに座っていた。大きな音を立てて扉が開く。養護教諭が音を立てた生徒を小さく叱った。

「紣川、大丈夫?」

 叱られて、小さな声で志弦が問う。虚ろな視界は瞬きして、心配そうな顔を映した。

「うん、もうだいぶ…。ありがとう」言いながら起き上がる。

「体調、悪かったの?」

 男子相手に生理痛とは答えづらい。

「ううん…ちょっと、寝不足だったぐらい」

「そっか…。何か、ごめんな」

「え?」

「兄貴、こんな時に出張で…」

 信じられない、といった顔で志弦が謝る。夕李は少し微笑んだ。

「志弦くんが気にすることじゃないよ、本当、大丈夫だから」

「でも倒れるって大事(おおごと)だぞ。しばらく部活だけでも休むとかさ」

 ピシ、と空気が凍った。それは、夕李だけが感じていた。

「そんな…大丈夫だよ」

「こないだ二つとも完成させてたろ? そんなに急がなくても」

「まだ、出来てないよ、仕上げがあるの」

 頑なな夕李の言葉に疑問を浮かべる。

「言ったって紣川はさ、凄いの作れちゃうんだから、ちょっとくらい体の方労わって――――」

 夕李が伏し目がちにシーツを握った。喉から黒い泡のようなものが溢れ出る。志弦は強く瞬きをして、そこをじっと見つめた。

「志弦くん、あのね」

 夕李が口を開くと、泡は浮かび消えていった。

「私、もう、何も創れないかもしれない」


 次の日から、夕李は学校に来なくなった。初めは、志弦の言う通り療養の為かと思われたが、それは長く続いた。いつしかそれは〝休み〟から、〝来ない〟に変わっていき、心配と疑問の言葉が囁かれ始めた。

「紣川さん…もう二週間も来てないね…」

 部活終わりの手洗い場で、琴が恐る恐る聖璋に言った。

「…そうだな」

「やっぱり、恥ずかしかったのかなあ」

「何がだ」

「御堂くん…男の子に、ち、血、見られたの…」

 聖璋の顔は見られない。また何故か自分が熱くなる。

「ならお前が全部対処出来たのか?」

 聖璋は保健室に夕李を運んだ後、椅子の血を拭い、絵画班に事なきを伝え、事態を収束させた。その後、血のついたタオルは琴に洗わせた。

「で、出来ません…」

「なら学べ。次は出来るように」

 気持ちのいい音をたてて蛇口を閉める。琴も出しっぱなしだったことに気付いて慌てて閉めた。

「紣川が休んでいようと関係ない。俺もお前も、目の前のことに集中するだけだ。展覧博のはもう出来たのか?」

「まだ、です」

「何をすべきか、後は分かるな」

 大きな歩幅でスタスタと先へ行く。琴は、そんな聖璋の背中を見て、小走りで追いかけた。


 朝が来ると体調が悪くなる。ベッドに座ったまま何もしない時間が過ぎた。休めば心の右側が、締め付けられて逃れない。罪悪感とプライドが相乗効果で夕李を痛めつける。きっと、〝天才〟だったら、そんな小さなことは気にせずに、世間のルールを外しても、他人の期待を裏切っても、自分の道を創り上げていくのだろうと、考えてやめた。携帯のブックマークを開いて、自分への称賛を頭から浴びる。そうすれば、保っていられると思った。

〈ユキコ〉

 まただ。また、声が聞こえる。夕李はぎゅっと目を瞑った。声は映像になり、夕李の脳内をむしばんでいく。

「やめて……」

〈ユキコ〉

「……!」

〈ごめんね〉

「嫌だ…嫌だ!」

 クッションで頭を覆って縮こまる。涙が出てきた。

 私は、創りたいのに…。

 思わず自分の言葉が蘇ってきて、ハッとした。

〈もう、何も創れないかもしれない〉

「嫌…終わりたくない、まだ出来る、出来る!」

 大声に母親が駆け付けて、ドアを開けた。夕李は呆然とした表情で涙を流している。言葉はなく、うなだれた。


 中庭で私用の携帯電話を耳に当てていた。空を見上げ、息を吐きながら呼び出し音が切れるのを待つ。

「――――はい、紣川です」

「あっ、突然すみません。私、美術部の顧問をしております、鳳と申しますが…」

 出来るだけ丁寧な言葉遣いで挨拶をする。夕李の母親かと思われた声は「鳳先生?」と驚いた。

「えっ、あっ、紣川?」

「夕李です。こんにちは」

 意外と張りのある声に意表を突かれながら安堵する。

「よかった、元気か?」

「………」

「びっくりしたよ、俺がいない間に、倒れて、休むようになってたなんて」

「すみません」

 少し受話器から離れた声を戻そうと近づく。

「いや、謝ることはないんだけどな! 俺の方がすまなかった、何も支えてやれなくて」

 そう言う善次の中には、夕李が休んでいる理由の目星がついていた。

「重荷だったか」

 夕李は答えない。

「言うことで、すっきりすることもある。口に出すのがつらかったら、今から言うアドレスにメールしてくれ。いいか?」

 静寂の中で、夕李が頷いたように聞こえ、善次は続けた。

「学校のことも、取材のことも、今は考えなくていい。ゆっくり休んで、あ、外には出るようにしろよ。陽の光を浴びるのがいいから。それついでで、お前に会いたいって言ってる人がいるんだ」

「人…?」

「また、連絡するから、メールくれよ? …大丈夫か?」

「大丈夫です」

「じゃあ、またな」

 電話を切ると、時間を確かめて、すぐ別の人物にコールした。冷たい風が善次の体を撫でていった。

 その日の夜、夕李から『紣川です』とだけ書いたメールが届いた。善次はため息をついて、そのメールに日時を書いて返信した。次の次の日曜日、午後二時半、学校から離れた喫茶店で――――

「先生」

 待ち合わせの十分前、夕李は入口で待っていた善次に声をかけた。

「おお、紣川。早いな」

 時計と夕李を交互に見る。「寒いし、入ろうか」

 ランチタイムも終わりかけ、人がまばらな店内。ゆったりとした音楽が流れている。

「コーヒーホット、紣川は?」

「…ミルクティー、ホットで」

 善次が夕李を見つめる。

「最近、何してるんだ?」

「何も、してないです」

「そうか」

 言葉はない。注文したコーヒーと紅茶が静かに置かれた。口をつけると熱くて息を吹きかける。入口の方から声が聞こえた。「先生!」

 そう言った女性は、内巻きのボブを揺らしながら近づいてきた。

「すみません、遅くなって」

「いや、丁度だよ。紣川、この人」

「前原つばきです、初めまして」

 善次が立ってつばきを奥に座らせる。「前原、飲み物」

「あ、じゃあコーヒーで、ホットの」

 緊張した面持ちの夕李につばきはにっこりと微笑む。

「紣川、前原は美術部の先輩で、今は渋江美大で…何年生だ?」

「三です。紣川さんとは…四つ違いかな?」

 善次が一気にコーヒーを飲み干す。「二人、同じ彫刻班だったから、何か力になれればって、前原が。お金は払っておくから、後は二人で話してみてくれ」

「えっ」

 善次は夕李の目を見ると頷いて、領収書を持って行ってしまった。夕李が呆然としていると、つばきが口を開いた。

「そんなに固くならないで。そうね…まずは私の話を聞いてくれる?」

「はい…」

「私、高校から彫刻を始めて、高二の時にコンクールで金賞をとったの。それが、有名な大会だったから、ちょっと名前が知られるようになって、皆に褒められるようになって」

 嬉しかったなぁ、とコーヒーを口に運ぶ。

「それきっかけで部長になって、美大も目指すようになったんだけど、何だか、背負い過ぎちゃってね。ノイローゼみたいになって、受験の時期なのに体も壊してばっかりで、全部嫌になっちゃって」

 体をずいと前に出して、夕李の顔をより近くで見る。

「紣川さんも、今、そんな感じなんでしょう?」

 イエスを期待した目が苦手だと夕李は感じた。仕方なく頷く。

「そうよね、期待以上のものが作れなくなるって、本当に怖いのよね」

 つばきは語り出す。夕李の意識はまるで後ろの席にあるようだった。つばきの経験談は、傍から見ればニアリーイコールだったのかもしれない。ただ、夕李からしてみれば、全く違う境遇の中で、大事にしていた感情をさも分かったような口調で並べられたように思えた。一度賞をとったくらいで同じを語るなんて――――

この人と私は違う。固い壁を作ったその意識だけが、夕李の中にとどまり続けた。

「私、美大に入ったけど、今スランプなの」

 紣川さんも、きっとこの先色んな悩みが出てくるわ。口角がぐっと上がって、大きな目が夕李を見つめる。

「でもね、済んでしまえば、そんなこともあったなってぐらいに思えるから。鳳先生はいい人だし、沢山相談してみて。あなたらしく、彫刻に向き合って」

 つばきは、満足げに微笑んだ。空気を読んで、礼を言う夕李。

 とても長い時間に思えた面会は、日の明るいうちに終わった。久々に感じた人と接することの煩わしさ。疲れきった夕李は、志弦のことを思い浮かべていた。

 夜、善次の下に、つばきからメールが入った。

『紣川さん、あまりリアクションがなかったですけど、少しは力になれたかと思います。私も、自信が出てきました』

 それを読んで、善次は来ない夕李からのメールを待った。元々、つばきの強い押しに負けて設けた機会だ。いつものように電話でつばきの相談に乗っている最中、口を滑らせて夕李が休んでいることを言ってしまったのが原因だった。

〈それなら、私に紣川さんとお話をさせていただけませんか!?〉

 善次はあまり乗り気ではなかった。つばきは、〝同じ境遇〟としてアドバイスが出来ると自信満々だったが、善次には、つばきと夕李では圧倒的な才能の差があると思えてならなかった。それでも、美術部の先輩として――あるいは反面教師として、夕李の心に刺さるものがあればと承諾したのだ。善次にとって、夕李への警告でもあった。

 前原のようになるなよ。

 控えめに鳴った携帯電話を強く見る。夕李からのメールだ。開いてみると、差し障りのない定型文の終わりに本音が添えられていた。

『前原さんの経験談とは、ちょっと違うかなと思いました』

 善次は安堵した。そうして初めてつばきに感謝する。

 そうだ、お前は、違うんだ。

 大切にしたい原石は濁った水をかけてもなお輝いている。間違いない。早く、早く復帰を――善次は部屋に積まれた本の中から、不登校に関するものを読み漁った。


 琴は感じとった。いつもと違う聖璋の空気を。春から作ってきた日本美術大賞の結果が出た時からだ。聖璋の周りは絡まった糸のようなもので埋め尽くされていた。

「御堂くん…」

 夕李が、最優秀賞だった。しかし、それは途中かけの不完全な作品だった。夕李の同意を得て善次が出したその作品は、いとも簡単にトップを攫っていった。強い、大きな壁がそこにある。

 結果が貼られた壁の前、立ったまま聖璋は動かない。琴はそんな後ろ姿を見て言葉を探していた。沈黙の圧が喉を押す。

「…あの、御堂くん、私ね、」

 言葉の一つ一つ、両手でその重量を確かめながら発する。

「美術部に入る時、本当は、絵画班に入ろうと思ってたの。ずっと、絵は、小さい頃から好きだったから…。だけど、凄く、不純な理由で、彫刻班を選んだ。入ることが目的で、彫刻は、二の次で…」

 口が渇く。後ろ姿は変わらない。

「それで、いいと思ってた。御堂くんに言われた時も、私は、まだ彫刻が大事じゃなかった。――だけど、今は、彫刻を頑張ろうって思うようになったの。それは、御堂くんがいるから…!」

 体が熱くなる。視界が滲む。

「私は下手くそで、凡人だけど、御堂くんに近づきたい…! だから…」

 いつもの涼しげな後ろ姿を重ねていた。触れてはいけないその背中へわがままに手を伸ばす。

「私を見てなんて言わない。でも、ここに、御堂くんの後ろに、凡人の、私がいるってことを知っていてほしい…!」

 声を絞り出す。言葉はその背を包んだ。

「――――俺は振り向かない」

「! うん」

「背中を押してもらうほど落ちぶれてない」

「うん、そうだね…」

「そこで見てろ」

「うん……」

 安心が体を巡り、一粒、涙が零れた。


 冬季の休みに入った。志弦は何ページも描き直した夕李をめくっては戻す。記憶は薄れる。夕李の顔をもう二ヶ月も見ていなかった。

〈もう、何も創れないかもしれない〉

 彼女は、彫刻から離れたくて学校を休んでいるんだろうか。伝えられた言葉を反芻しても、何も分からなかった。

 スケッチブックを閉じて、鞄に放り込む。乱雑に電気を消して部屋を出る。一階に下りると、ソファでうたた寝をしている善次がいた。何の気なしに覗きこむとローテーブルに置かれた携帯が光った。

「え…」

 そこに映っていたのは、〝紣川夕李〟の文字。

「何だよ!」

「わっ…えっ?」

 志弦の大声で善次は飛び起きた。体を起こそうとして右手が空を切った。

「兄貴、紣川とメールしてんの…」

「えっ? ああ、何だ、してるよ、内容は俺から一方的だけどな」

「何で教えてくんなかったわけ? アドレス」

 声が低い。善次は頭をかいて状況を整理する。

「何でって…お前知らなかったのか」

「知らないよ、紣川そういう話しないし。そんなの、普通言うだろ」

「何でお前に? 俺は教師だけど、お前はそこまでの友だちだろ」

「俺の方が紣川を思ってるよ!」

 真剣な表情に、冗談めいた返答は受け付けないと分かった。ため息をついて、携帯をいじる。

「一応、紣川に聞くから。仲良くても、逆に連絡とりたくない時だってあるかもしれないし」

「分かった」

 その夜、善次が言いに来るより先に志弦の下へ夕李からメールが届いた。

『志弦くん、久し振りです。メアド、聞いてくれてありがとう。私も、志弦くんと話したかった』

 夕李のメールは絵文字もない簡素なものだ。一文ずつ、弱々しい声で読み上げられているようだった。

『久し振り。ちゃんと飯食ってるか? 俺でよかったら、何でも聞くから』

『ありがとう。大丈夫だよ。志弦くん、先生と同じこと言ってるね』

 兄と同じ、という部分にムッとしたが、その下にはおそらく兄へ送るメールとは違う言葉が書かれていた。

『話したいことがあります。今度、会ってもらえる?』

 街はクリスマスムードに浮かれている。商店街もリースやトナカイで飾られ、クリスマスソングがループしていた。小さなツリーをレジ横に置いた和菓子屋で土産を買い、約束の時間通り夕李の家に着いた。

「いらっしゃい、どうぞ」

 促されたのは二階の角にある夕李の部屋。ラムネのような匂いがして、女の子の場所だと主張してくる。少し気恥ずかしくて、なかなか座れないでいた。すぐに飲み物を持ってきた夕李は幾分か元気そうに見え、志弦はホッとした。ベッドを背に夕李が腰を下ろすので、志弦も胡坐をかく。

「志弦くん、私の絵、持ってきてくれた?」

 言われるままにスケッチブックを渡した。人が自分の作品を見ているのを見るのは落ち着かない。紛らわすように買ってきた饅頭を掴んだ。

「私、こんな顔してたんだ」

「下手だろ」

 ううん、ありがとう。閉じたスケッチブックは丁寧に返された。

「今は何を描いてるの?」

「コンテストがあるから、それの絵を描いてるよ。何のってわけじゃないけど、テーマは〝羨望〟のつもり」

「羨望…」

「あんま恥ずかしいから言わないけど、紣川のことだよ」

「私?」

 唇に付いたカスを親指で拭う。

「フィールドは違うけど、才能凄いだろ。羨ましいなって」

 夕李は口を閉じて考え込むような表情になった。

「皆待ってるよ、紣川のこと」

「…待ってるのは、作品でしょう」

 悲しそうな目で夕李が訴える。

「私のことなんて、誰も見てない」

「そんなこと言うなよ、俺だって見てるよ…!」

 首をかしげて志弦を覗き見る。細い髪が小さく揺れた。

「…志弦くんは、私のこと、知りたい?」

 突然部屋が氷漬けになったように、冷気が二人を包んだ。震える唇で頷くと、夕李はゆっくり話しだした。


 八歳の春、親に連れてこられたその場所は、初めてなのに何故か温かく懐かしい匂いがした。大きな邸宅に添えられたその離れは、木目調の内装で入ってみると広く、日当たりのいいウッドデッキに続いていた。小さな私は目を輝かせてそこにいた。

〝アトリエガモン〟と名付けられたそこは、子どもたちが、見て、触れて、作る、をテーマに絵画や彫刻など、芸術を身近に学べる場として開設された知育教室だ。三歳から五歳までの年少コース、六歳から十二歳までの小学生コース、十三歳から十五歳までの中学生コースがあり、定員は各五名と少ない。各コースに担当が一人ずつついており、教室長は〝先生〟が務めていた。

先生は人見知りの私に粘土で作った人形を見せた。

「一緒に作ってみようか」

私の入った小学生コースは、先生の奥さんである秀子先生が担当だったが、私はよく先生に直接教えてもらっていた。彫刻を知ったのは、まさにこの時だった。先生はいつも簡単な動物や植物を木に彫って私に見せた。初めて見る彫刻の美しさに捕まり、作品の手触りを確かめたり、やすりがけを手伝ったりした。次第に私は粘土だけでなく、彫刻刀で彫ることを覚える。初めて彫ったのは自分の名前を縦に書いた木製のキーホルダーだった。

「ユキコ、いい名前だね」

 私が削ったのが夕木子だと思い、先生は私のことをユキコと呼んだ。私は作品に、ユキコというブランド名が付いたような気になって、それを正さなかった。


 先生は先生でありながら、宮下(みやした)雅文(がもん)というプロの彫刻家だ。一年たった頃、私はアトリエガモンが好きで、開始時間の三十分前から行って待っているような子どもになった。ある日、見かねた先生は内緒と言いながら中に入れてくれた。教室が始まるまでの時間、併設された小さな部屋に先生と私はいた。そこは先生の部屋として、普段は閉ざされた場所だ。入ってみると、小さな場所に敷き詰められるよう先生の、宮下雅文の作品が並んでいた。木彫りや石膏の像たちをじっくりと眺め、一つ先生に尋ねる度に作品に込められた深い思いを知る。小さな私にはまだ理解出来ない思考の数々は、星のようにキラキラと目の前に降り積もった。中でも先生には、彫り続けている一つの作品があった。それは――〝ピエタ〟。先生はピエタの話になると目を大きくして輝かせ、途中かけの像の横でビデオ教材を再生して見せてくれた。ミケランジェロが作った、ローマ、サン・ピエトロ大聖堂のピエタ像。キリストの亡骸を抱いたマリアの美しさ、儚さを先生は、子どもには分からない言葉を羅列して何度も語った。そして時折、憂うような表情で画面の向こうを見つめていた。

「いつか、ユキコもローマに行って、本物をその目で見てくるといいよ」

 先生は若い頃、ピエタのためだけに何度かローマを訪れたらしい。細部まで見逃さないよう、目は大事にして、ゲームをやりすぎてはいけないよと言われた。

 私は海の向こうのピエタより、先生の彫刻の方が気になっていた。先生の作るものはそれこそ美しくて、先生がピエタを作ったら贋作で捕まってしまうのではないかと子どもながらに恐怖した。それでも、先生のピエタに対する熱意は誰も止められない、止めたくはないと思った。この頃から私は、先生と同じ彫刻家になりたいと夢見るようになる。この時先生は六十歳、子どもはいなかった。


 私は消極的で友達を作るのが苦手だった。けれど、アトリエでは自然と仲良くなれた。学年は関係なく、創造をベースに皆が皆を尊重し合い、心地いい空間を作り出していた。

 そんな中、私は小学校を卒業し、中学生になった。多くなる同級生たちに、ますます付き合いを悪くし、学校では一人でいるのが楽になっていった。ひそひそと陰口を叩かれていることに気付いても、自分の自由を貫いていることに自信があった。グループが求められる場所であっても、余った空欄に入れてもらうだけだ。一時的なそれに苦痛は感じなかった。入部した美術部も、ただおしゃべりの場になっていて行くのをやめた。私の青春に学校の文字はなく、アトリエと彫刻があればよかった。

 夏、二泊三日のオリエンテーション合宿が予告された。常時班行動となるこのイベントでは、各自自由に六人のグループを作ることが第一のミッションであった。私はいつものように空欄が出来るのを待つ。

「夕李ちゃん」

 声をかけてきた、一人の少女。

「まだグループ入ってない? よかったら、私たちと組まない?」

 小牧さん。彼女はグループ行動の時いつも私を誘ってくれる。私のことを名字しか知らない人が多い中、名前で呼んでくる気さくな子。今回も彼女に誘われて、無事ミッションをクリアした。

 班行動とはいえ、自由時間は一人でいるつもりだ。オリエンテーションには尽力するが、やっぱり休息がしたい。それは、誰にも迷惑をかけない。そのはずだった。

 合宿が始まった。行きのバスの中、私の隣には小牧さんがいた。

「ねえ、夕李ちゃん、見て! あのマンション、私住んでるの。夕李ちゃんはどこらへん? 自転車通学だっけ?」

 彼女はよく喋った。変わっていく風景の一つ一つから話題を掘り起こし、昨日のテレビ、昨日の部活、昨日見た夢…私が頷くことしかしていなくても、話は終わらなかった。

 到着までが長い時間に思えた。小牧さんのマシンガントークからようやく解放されたと思うと、すぐに班行動の課題が降ってきた。これは比較的簡単だ。目立たないように必要最低限だけ動けばいい。しかし、

「夕李ちゃんはこの問題どう思う? あ、ねえ、皆も聞いて!」

 小牧さんは違った。いつもなら同じ班になった後、私に意識を向けることは少ないのに今日はずっと見られている。やりづらかった。発言することは嫌でないが、明らかに小牧さん以外から求められていない。扱いなれていない私の言葉を持て余して、妙な空気が流れてしまう。小牧さん以外、私のことは放っておけばいいのにと思っていた。

 その後の自由時間でも、小牧さんは私を輪の中に入れようとする。

「あの、私…大丈夫だから、ね?」

「? うん!」

 やんわりと伝えてみても、彼女は私を諦めなかった。

 夜、入浴を終え、部屋に戻る途中、小牧さんは私を見つけた。そして、慣れたように後ろから驚かす。彼女は笑っていた。

「…無理して、輪に入れてくれなくていいよ」

 持っていたタオルをぎゅっと握りしめながら、彼女に伝えた。

「無理なんかしてないよ、夕李ちゃんと仲良くなりたいし」

「でも…皆気を遣ってるみたいで…」

「大丈夫だよ、皆も楽しいって!」

 小牧さんが意識せず近づく。私は、一歩引いてしまった。

「あ…皆で、仲いい子たちで楽しくしてて? 私は、邪魔しちゃうから…」

「何でえ? 夕李ちゃんも話そうよ」

 小牧さんが私の手を握る。ぞくりと悪寒が走った。

「ごめんなさい、私、ホント、一人の方が楽だから…!」

「そんなの絶対寂しいよ! ほら、行こう?」

 一蹴されてしまった。私の本音は謙遜として取られ、彼女は勝った。そうして、一人じゃない合宿は続いた。

 帰ってきて、アトリエの日。何だか随分久し振りに感じられた。

「ユキちゃん!」

 足元に飛びついてきたのは、小学生コースで一緒だった梶田(かじた)七菜子(ななこ)ちゃん。八歳の彼女はキラキラと目を輝かせて私の名前を呼んでくれる。

「ユキコちゃんこんにちは」

 一つ年上の鴨原(かもはら)史与(ふみよ)ちゃん。

「おっすユキコ、どうした?」

 同い年の安本(やすもと)賢(けん)くん。

 皆が暖かくて心地よくて、私はいつの間にか泣いていた。先生が来る。

「ユキコ、おいで」

 先生の部屋に入った。いつもの、ピエタのビデオが流れている。

「先生、私、このビデオ好き」

 真っ赤な鼻でぽつりぽつりと話し出した。

「先生の作品が好き、彫刻が好き、アトリエの皆が好き」

「そうか…」

「でも、どうして、ここは凄く居心地がいいのに、学校の子たちはあんなに嫌だと思っちゃうんだろう。意地悪されたわけでもなくて、向こうは私に気を遣ってくれてるのに…。私がおかしいのかな…」

「ユキコ…」

 先生が私の頭を撫でる。

「おかしくないよ、大丈夫。人にはね、合う合わないがあるんだ。ユキコの見ている世界と、他の子の見ている世界は同じじゃないからね。ルールも、良し悪しも違うんだ。学校の子が良かれと思ってやったことが、ユキコにはつらかったんだよね。ユキコは優しいから、その子の気持ちをないがしろにしちゃうのが怖かったんだよね」

 私が望んだ孤独を小牧さんは寂しいことと思った。それは、私の世界と小牧さんの世界が違うから。

「その感情を悪いことだと思わないで。ユキコにはユキコの世界があるんだから。合わない子と無理に付き合う必要はないよ。違う世界の者同士、分かり合えることの方が奇跡だ。自分が穏やかでいられるように動きなさい。僕たちは君の味方だよ」

 先生が微笑んだ時、自分がまた泣いていることに気付いた。先生やアトリエの皆という仲間がいるのだと改めて思った時、何より心強く感じた。私には、居場所がある。


 師走、年内最後の教室は、クリスマスをテーマとした作品発表と小さなパーティーだった。この時作った木彫りのサンタクロース像は、初めて彫刻コンクールにエントリーしたものだった。思い思いの作品に囲まれながらケーキを食べ、外は寒く風が吹いていたが、皆で暖かな時間を過ごした。

 帰り道、史与ちゃんと別れ、駅へ向かうと、鞄の中に母からのお使いが入っていることに気付いた。毎年、一年の締めくくりとして、先生にお菓子を渡す。先生の好きなもなかだ。パーティーが楽しくて、すっかり忘れていた。潰れていないか包装を確認して、引き返す。

 十分足らずの道のりだった。家の方のチャイムを押すと、秀子先生が出てきた。

「あらユキコちゃん」

「秀子先生、あの、今年もありがとうございました」

「まあ、いつもありがとうね」

 秀子先生の後ろを少し覗く。先生はいない。挨拶をして帰り道に戻る。脇にある教室が気になった。

 先生は、まだ教室にいるのかな?

 そっと、先ほどまで賑やかだった教室の扉を開ける。後片付けがされたそこはがらんとしていて、電気もついていなかった。何となく入ると、温い空気が体を包んだ。

「……………」

 作品たちが私を見つめる。見ていると、背後で物音がした。

「!」

 振り返っても誰も、何も、いない。ただ、先生の部屋のドアがあるだけだ。何か、吸い込まれるような気持ちでドアを見ていた。ゆっくりと近づく。

「先生…?」

 そっと、ドアに手をかける。小さな隙間から中を覗いた。

「………!」

 そこには、上半身裸になった七菜子ちゃんとその肌に触れる先生がいた。七菜子ちゃんは机の上に座って、目をつぶり、唇を噛んで声を殺している。先生は確かめるように顔を近づけ、その白い肌や突起に触れている。思わず、吐きそうになった。混乱して、息は短く、瞳が滲む。

 何、してるの、先生…。

 気付けば、先生の背中に彫刻刀が刺さっていた。

「…!」

 驚いたように振り向く先生。私は彫刻刀を握りしめて先生に凭れかかった。

 どうして、どうして、先生が、何で、七菜子ちゃん、助けなきゃ、どうしよう、誰か、どうして、先生――――

「ユキコ」

 先生の声に肩を震わせた。そして、自分の手が先生を刺していることを実感し、うろたえて彫刻刀を離した。重力に落ちていく彫刻刀。七菜子ちゃんが泣いている。

「あ…先生…」

 声が上手く出なかった。息が苦しい。

「ごめんね」

 先生は私に謝った。ピエタを見つめていた、あの優しい目は消えていた。

 年が明けて、教室は臨時休業の末、なくなった。理由は一身上の都合に伴う引っ越しで、先生は自分の罪をなかったことにした。そして、私の罪も。あの日以降、先生にも、七菜子ちゃんにも会っていない。私は中学二年生になった。

 居場所も、先生もなくした私には、彫刻しかなかった。あの日のフラッシュバックを消したくて、ひたすら彫刻に励んだ。手探りで始めた石膏で、大きな賞をいくつもとった。ユキコは、次第に大きな存在になっていった。


 話し終えた夕李は息を整え、込み上げる不快感を抑えるのに必死だった。そんな彼女を見つめて、志弦は言葉を探している。沈黙が続く中、耐えきれなくなって夕李は席を外した。駆け足でトイレに向かい、全て吐き出す。耳鳴りのようにユキコを呼ぶ雅文の声が響いていた。

 戻ってきた夕李の顔はげっそりとしていて、志弦は心配の眼差しを向ける。夕李はそのままクローゼットの奥から段ボールを取り出し、志弦の前に置いた。少し埃を被ったその中からは、緩衝材に包まれた彫刻たちが現れた。夕李は細い指先で、一つ一つテーブルに置いていく。以前写真を見せてもらったものから、初めて見るものまで、そのクオリティの高さは圧巻だった。紣川夕李、いや、ユキコが作りだす芸術。志弦はゆっくりとため息をついた。

「志弦くん。今の私でも、作品が好きだと言える?」

 夕李と彫刻たちが志弦を見つめる。声を出すのに戸惑った。

「紣川…」

「私は、許せないの。先生も、自分も」

 サンタクロースの彫刻に手を伸ばし、そっと指先で撫でる。「皆、私のことを凄いと褒めてくれるけど、嘘。私のことなんか、何も知らないの」

「でも…紣川の実力だろ…」

「運がよかっただけ。私は、何も得ていない」

 そういえば、あるはずのトロフィーや賞状がどこにも飾っていない。彫刻と同じように、段ボール詰めにされているのだろうか。

「聞いてくれてありがとう、志弦くん」

 今までで一番、悲しい笑顔だった。

 風が吹きすさぶ帰り道を歩いていると、見慣れた車がコンビニに止まっていた。目を凝らして運転席を見ると、気付いた善次が手招きをしている。

「何でいんの」

「近くまで来たから、待ってようかと思って。メール入れたぞ?」

 後部座席に座って携帯を確認する。三十分前に連絡が入っていた。飲みかけの缶コーヒーをサイドに置いて、善次は車を走らせた。

「どうだった」

「何が」分かっていながら意地が返す。

「紣川、元気だったか?」

「普通」

「そうか」

 何となく、返事がとげとげしくなる。

「俺もさ、お前は覚えてないだろうけど、高校の時取材が来てさ、何か、追い込まれた時があったんだよ」

 相槌は打たない。志弦は黙って俯いている。

「彫刻家になりたかったし、進学とか、色んなところから勝手なことばっかり言われて…。友だちがいなきゃ多分潰れてた」

 記憶は残っている。まだ小学生だった時分、あの頃の兄は荒れていて怖かったことを。

「だから、紣川には同じ道を歩かせたくなかったんだけど…。弟だからお前に仲良くするよう頼んだけど、男女だし考え方の違いもあるよなあ…」

「何だよ、俺が悪いの? 紣川がダメになったの、俺のせいなわけ?」

「そんなこと言ってないだろ」

「考えてないのは兄貴の方だ。俺だって言われただけで付き合ってるわけじゃないし、だいたい、紣川は兄貴と同じじゃない!」

 乗り出した体にシートベルトが引っかかる。今度は善次が黙ってしまった。志弦は体を戻して自分の言葉を反芻していた。きっかけは善次の言葉だった夕李への感情。しかし、今は――――

 何で俺、紣川に優しいんだ?

 夕李をモデルにした自分の絵。くすぶっている感情の名に答えがないまま、車は夜を走った。


 新しい一年が始まる。三が日が過ぎた頃、夕李は善次の車に乗っていた。夕李だけではない、聖璋と琴も一緒だ。

「久し振り…あ、あけましておめでとう、紣川さん…元気だった?」

 琴が顔色を窺いながら聞く。

「あけましておめでとう。そこそこかな」

「休んでたんだ、建前上元気なわけないだろ」

 聖璋に言われ恐縮する琴。静まり返った車内に善次が苦笑する。

「まあまあ、皆悪いな、新年早々連れ出しちゃって」

「いえ…今日は絵画班も来るんですか?」

 夕李が尋ねる。「いや、他に車出せなかったから、今日は彫刻だけだよ」

 善次が企画したのは美術部の初詣だ。車で一時間、山の中にある神社を目指す。

「どうなんですか、個人的に教師が生徒を連れ出すのって」

 目を細めて聖璋が善次を見る。善次は笑った。

「ちゃんと課外活動届け出してるから大丈夫。後でジュース買ってやるけど、それは内緒な」

「いりません」

「何だよ…」

 やりとりに琴が笑いを堪えている。夕李も口角だけで少し微笑んだ。

 車が止まったのは、坂を上った先の広場だった。砂利を踏んで小気味いい音がする。奥に石段が見え、あれを上ると善次が言うと、琴が顔を真っ青にした。

 石段は長い。途中途中に灯篭が立っている。風が吹き抜けていくため体が震えたが、上っていくと内側から温かくなっていった。中腹の辺りで琴が遅れていることに三人とも気付いた。

「ご、ごめんなさい…」

「お前何でそんな靴履いてきたんだ」

「だって、年末バーゲンで…」

 ヒールの高い新品のショートブーツ。聖璋と会えるのでおめかししてきたのが仇となった。

「自力で上がってこい、俺は先に行く」

 そう言うと、スタスタと上がっていってしまった。

「まあ、冷たい男だこと。鈴木、歩けるか? 掴まってもいいけど、紣川の方がいいか。紣川、手を貸してやってくれ」

 夕李が琴の背中を支える。琴は夕李の肩に掴まった。

「うう、すみません…。あっ、でっ、でも、御堂くん、冷たくないんですよ。今のも、御堂くんなりに優しく言ってて…」

「そうかあ? 御堂語解読難しいな」

「そうです、えへ、えへ」

「鈴木さん、嬉しそう」

 夕李が何の気なしに言った言葉に過敏になる。「えっ! そんな、嬉しいとかじゃないよ…!」

 慌てる琴ときょとんとしている夕李を見て、善次は笑った。

 聖璋を十五分ほど待たせて、目的の神社本殿に到着した。早速四人で参拝をする。バラバラの二礼二拍手一礼が終わり、善次がおみくじの文字を見つけた。

「引いてくか?」

「あ、私、家族で行った時に引いちゃって…」

「俺は興味ないので」

「私、引こうかな」

 夕李はがま口の小銭入れから二百円を取り出し、片手で握ったままみくじ筒を振る。出てきた番号と共に二百円を巫女に渡した。交換で渡される薄い紙をひらりと表に向ける。中吉。読んでいると、琴がひょっこりと覗きこんできた。

「わ、凄い、紣川さんいいなあ。待ち人…既にありだって、え! 彼氏いるの?」

 夕李は首を横に振る。

「お前な、待ち人って恋人って意味じゃないからな」

 えっそうなの、と聖璋の言葉に顔を赤くする。その様子が微笑ましい。

 夕李がおみくじを結ぶと、善次が三人を呼んだ。本殿の陰にある坂を下ると、そこにはたいそう大きな楠があった。

「大楠、アイディアとか激励とか、この木から、よくパワーを貰ってるんだ」

 善次が言う。三人とも圧倒されるような大きさをビリビリと感じていた。夕李は、目を瞑った。葉擦れの音が心地いい。

〈紣川〉

 驚いて目を開けた。今まで、目を瞑ると聞こえてきたのは、雅文の声。今、聞こえてきたのは紛れもなく、志弦――――

〈俺だって見てるよ〉

 聞こえる度に、目頭が熱くなる。羨望――してくれた彼に、恥じないよう出来ることは――――

「私、」

 三人が夕李を見る。夕李は楠を見つめたまま言った。

「もう一度、彫刻を頑張れるかな」


 休み明けの登校日、夕李はまだ学校に来られていない。数ヶ月で新学期を迎える校内では、教師たちが各担当の生徒を導くべき道に頭を悩ませていた。進路指導室でも、成実がため息をつく。

「もうすぐセンターですね」

 振られた善次が資料を目にしながら頷く。「この時期は、落ち着きませんね」

「そうですね…この子たちも来年には…」

 並べられた名前は、美術部の二年生。指でなぞりながら成実が言う。

「紣川さんは、まだお休みしていますよね…鳳先生、連絡とられたりしてます?」

「ええまあ、一応。でも、紣川なら推薦で芸術方面に行けますから、出席日数さえ足りれば…」

 あっけらかんと言う善次に、成実は少しムッとした。

「紣川さんとはまだそういった話は出ていませんし、分かりません」

「今、休んでいるのは、僕の指導が悪かったせいかもしれません。もっと、のびのびと作らせてあげればよかった」

 善次が両手を組んで神妙に話す。

「評価されるのって、良くも悪くもしんどいんですよ」

「取材がまずかったとでも仰るんですか?」

「そうです。周りの評価に振り回されず、自分の彫刻を極めていけていたら…」

「鳳先生」

 成実がぴしゃりと名を呼んだ。不思議そうに顔を上げる。

「紣川さんが、彫刻家になりたいとか芸大に行きたいとか言うのであればそれは尊重してあげてください。でも、まだ分からないのであれば、彼女には、彫刻以外の道もあることを忘れないであげてください」

 成実は穏やかな顔に戻った。

「期待という先入観で彼女を決めないでくださいね」

 善次はカッと体が熱くなるのを感じた。頭をかいて、瞬きをする。言われたことの本質を認めたくなくて、黙ってしまった。

 紣川が彫刻以外の道に進む?

 冗談のような選択肢に鼻で笑ってしまいそうになる。それでも顔を上げて見た成実の顔は真剣だ。夕李にしてきた指導の全てを否定されたような気持ちになって、善次は鼓動を速くしていた。


 休日の会館は賑わっていた。学生芸術展覧博が開催されているのだ。美術部は各個人で作品を提出しており、その審査結果はこの展示で分かる。

「わあ、結構人いるね」

 琴が入口を見て白い息を吐く。

「小学生から大学生まで〝学生〟だからな」

 心なしか聖璋の声が柔らかい。琴はビックリする。

「御堂くん、好きなの? こういう作品見るの」

「好きじゃ悪いか?」

「う、ううん、全然!」

 聖璋の好みが聞けて内心ガッツポーズをする。そんな二人を後ろから覗きこんで、夕李が入場を促した。善次に言われ、今日は彫刻班三人で来ている。

 ロビーを抜けた先の順路の看板に沿って進む。一番目の広い部屋には小学生の作品が展示されていた。絵画も造形も一緒くただ。中央に金賞・銀賞・銅賞を獲った精鋭たちが飾られ、囲うように壁沿いに他の参加作品が並べられている。聖璋は一つ一つ、確かめるように作品を見ていく。

「御堂くんは、小学生の時から彫刻をしてたの?」

 作品に夢中な聖璋に問いかけてみる。夕李も興味ありげに聖璋を見た。

「展覧博は毎年金賞だった。中一まではな」

 視線は作品から外さない。夕李はドキリとして、琴も意味を理解した。

 中学二年生の聖璋が、意気揚々とフロアに入る。金賞――そこにあったのは、初めて見る名前と作品――紣川夕李『空白』。初めて味わう敗北と、燃やされる競争心。それは、聖璋にとって大切な感情だった。聖璋が今までで一番を作っても、夕李はそれを軽々と超えていく。腐ることはなかった。それ以上に夕李と競うことが楽しかったからだ。同じ高校、同じ部活に入ったのを知ると、よりいっそう力が入った。信念も性格も違う二人だが、ただ彫刻についてだけは同じ場所を目指していると思っていた。だからこそ、今彫刻を離れている夕李が理解出来なかった。

〈もう一度、彫刻を頑張れるかな〉

 頑張れるか? 聖璋に彫刻を頑張るか頑張らないかという意識はない。ただ、彫る、それが楽しいから。それだけだった。

 三人はじっくりと作品を見て、次のフロアへ、そして二階へ移動した。高校生の展示だ。琴は入口でごくりと唾を飲んだ。聖璋が先陣を切る。夕李も続き、遅れて琴がついていった。金賞は――――

「……」

 聖璋が息を吐く。金賞は、紣川夕李『不実』。その横に、銀賞・御堂聖璋『概念と言う個体』と並んでいた。琴は二人の背中を見比べながら少し焦った。二人を褒める上手い言葉が見つからない。夕李はまたしても、未完の作品で聖璋を上回ってしまった。琴が思いきって話しかける。

「み」

「紣川」

 聖璋の声に阻まれた。夕李が聖璋を見る。

「次は、万全にしてこい」

 聖璋の宣戦布告。夕李は視線を外して、素直に頷くことが出来なかった。琴は一人おろおろして、もう一度話しかけようとする。

「御堂く、」

「ねーこっち金賞だって!」

 またしても、今度は知らない声に阻まれた。声の主は同年代の女子二人組。作品にぐいぐい近づいてくるので、三人は少し避けた。

「あれ、この人またじゃない?」

「誰? 紣川って人?」

 夕李の名前を見つけ、指をさす。

「うん、前テレビ出てた」

「え、ヤバい、凄い人じゃん!」

「えーでも、作品見て、ちょっと雑じゃない? 何か、これなら誰でも作れそうっていうか」

「あー確かに。もしかしてコネとかかな? 偉い人の娘みたいな」

 言いたい放題の二人に琴は顔を真っ赤にした。

 本人がすぐ近くにいるんですけど…!?

 そんなことは露知らず、楽しそうに酷評を言い合う二人。流石に聞いていられなくて、琴は夕李を窺った。

「か、紣川さん…」

「言わせておけ、負け犬の遠吠えだ」

 聖璋がため息をついて言う。夕李も琴の心配そうな顔を見て、うっすら微笑んだ。

「あれくらいなら大丈夫、慣れてるから」

「え、えー、慣れてるって言っても…」

「ネットだともっと酷いよ」

 そう言ってSNSの暴言を教える。琴は目を丸くして口を開けた。

「ひ、酷い…というか、紣川さんもネットとか見るんだ…」

「ちょっとだけね…情けないでしょ」

「そんなことない! それって…」

 普通だよ。琴はまた夕李の身近な一面が知れて嬉しいと思った。

「情けないな」

 女子二人に聖璋が割って入る。

「他人の意見なんかおよそ役に立たない。そんなものに振り回されてどうする」

 夕李は苦笑する。琴は言いづらいことを口に出そうとしていた。

「御堂くんは…」

「御堂さん!?」

 今日はよく発言を阻止される。振り向くと今度は三人組の女の子が聖璋を見ていた。うち一人が前に出る。

「あの、御堂聖璋さんですか…?」

「はい」

 きゃあっと声が上がる。「あの私、ファンです! 中学生の時からずっと…」

 思わず琴がぎくりとする。女の子は嬉しそうに聖璋に詰め寄った。

「今回もおめでとうございます、銀賞…私はもう金賞だと思ってるんですけど」

「はあ」

「あまり紣川っていう人の作品は温かみが感じられないというか浅いというか、御堂さんの作品は凄く考えさせられて丁寧で…断然素敵です!」

「どうも」

 言うと聖璋はスタスタと出口に向かってしまった。夕李は災難だなあという顔をしてついていき、琴は女の子と聖璋を交互に見て、会釈をした後追いかけた。後ろから落胆の声が聞こえる。

「あんなに凄い作品を作る人なのに、何か冷たかった…」

 夕李も琴もその言葉をしっかりと耳にする。琴はぎょっとして聖璋を呼んだ。

「みっ御堂くん!」

「何だ、走るな」

 言われて歩みを遅くする。

「ありがとうくらい言わなきゃ…」

「ありがたいか? あれ」

 聖璋は眉間にしわを寄せた。「他人を下げてまで褒められたくはないな」

「え…?」

「紣川を下げただろ。俺の前でよくそんな言葉が出たもんだ」

 それを聞いて夕李の心が軽くなる。

「ありがとう、御堂くん」

「言われる筋合いはない、勝手にありがたがってくれ」

 ふふ、と笑う夕李がいい雰囲気に見えてしまい、琴はますます焦った。やはり聖璋にとって夕李は大きな存在で、琴の大きな壁なのである。再び彫刻を頑張ろうとしている彼女が本腰をいれたら、その壁はどれほど厚くなるのだろう。琴は振り返り、フロアのどこかに参加作品として置いてある自身のそれを思った。彫刻を続けていたら、いつか――

 御堂くんは、私を見てくれるの?

 耳元でそっと囁かれた気がした。それは紛れもなく自分の声。こんなに沢山の彫刻の中から抜きんでるものを作ることは、自分の実力からして不可能だと思った。だが、それ以前に、自分の作品は他と違うことに気付いてしまった。一緒に飾られている絵画を見て、思う。いつかの聖璋の声が脳に響いた。

〈好きだからに決まってるだろ〉

 振り向けば、二人の背中は遠い。置いてきぼりになった自分を作品は見ていると感じた。

 全ての展示を見終わり、ロビーに戻る。冷たい風が開け放しのドアから入ってくる。夕李はぼんやり作品の海を思い出していた。

「ユキちゃん」

 鈴のような声でその名を呼ばれた。電流が一直線に走ったような感覚がして、体がぎしりと振り返る。ダッフルコートにチェックのマフラーをつけた少女が潤んだ瞳で夕李を見ていた。

「ねえ、ユキちゃん、ユキコちゃんだよね…?」

 あどけない顔に面影がある。夕李を慕い、懐いていた彼女――

「七菜子、ちゃん…」

 梶田七菜子。雅文から性的な嫌がらせを受けていた、幼い思い出が彼女のバックに広がる。瞬きが出来ずにめまいがした。

「どうして、ここに…」

「友だちの付き添いでついてきたの。絵だけだと思ってたから、彫刻もあってビックリ…」

 吐き捨てるように言う。平静を装っているが、夕李の指先は震えていた。

「ねえ、ユキちゃん」

 見つめる瞳が痛い。

「どうしてまだ、彫刻やってるの?」

 ゴウッと風が吹き抜けていった。七菜子は夕李を捉えている。

「どうして…」

 繰り返して自身に問う。何度考え直しても、雅文のこだまが脳を支配していた。


 七菜子の言葉を受け、久し振りに夕李は学校に来ていた。周りから好奇の目を向けられたが、今更だった。授業を終え、美術室に向かい、改めて粘土に向き合う。手を添えてみると、やはり今まで通り作ることは出来なくなっていた。それを自覚するのはつらいことだったが、それでも今は、ひたすら粘土や石膏と触れ合うしか――ユキコになるしか――夕李には意味がなかった。何より、耳鳴りを消すのは彫刻に没頭すること。聞こえては嘔吐を繰り返していた雅文の声から解放されるには、中学二年生の時からずっと彫刻なのだ。手が上手に動かなくても、見つめるだけで時間が過ぎても、夕李は創造をやめなかった。そんな夕李を琴は心配そうに窺い、聖璋はいつも通り彫刻に打ち込む。善次は少し寂しげに見ていた。

 志弦は変わらなかった。夕李の過去を聞いてからも、引き続き夕李と接した。二人だけの居残りも、また復活した。夕李の向かいで志弦は、大きな画用紙に鉛筆で描き込んでいく。夕李は志弦がいることに安心していたが、度々頭や口を押さえて呼吸を整えなくてはいけなかった。

「無理するなよ。もう今日は帰ろう」

 俯く夕李の顔を覗きこんで志弦は言った。

「嫌…もっと、創りたい、私…」

「そんな急がなくてもいいじゃんか、大会だって無理に出なくても」

「ダメ…!」夕李は顔を上げる。

「賞をとらなきゃ、私がとらなきゃ、ユキコが…」

 不確かな瞳に志弦の顔が映った。期待など一ミリもない顔でこちらを見ている。夕李はショックを受けた。

「志弦くんは…もう私はダメだと思ってるの…?」

「思ってないよ、どうして」

「志弦くんには分からないでしょう、一番でいるのがどれほど大変かなんて…」

 夕李の脳内には声がガンガンと響いていた。七菜子の声、聖璋の声、琴の声、善次の声、そして雅文の声。頭を押さえてうずくまる彼女の背中を撫でることしか出来ずに、志弦はどこか遠い目をしていた。

 時間になり、善次が迎えに来た。落ち着いた夕李を連れて、車に乗り込む。最近の善次は復帰してきた夕李に対して、腫れものを触るような態度でいる。志弦には違和感だったが、何も聞かなかった。

「ごめんなさい、志弦くん」

 夕李が降りる時、小さな声で言った。

「いいよ」

 運転席の善次には聞こえない声で返した。ドアが閉まる。

「お前を降ろしたら、俺はスタジオに行くから。母さんに言っといて」

 走り出した車の中で善次が言った。スタジオとは、善次ら若手彫刻家が創作の場として借りている部屋だ。

「待って、それ、俺も行く」

「え? ――まあ、いいけど、相手は出来ないぞ」

 予定外の言葉につきあたりを左折して、大通りへ戻る。ビル横の細道を通って奥まったスペースに駐車する。エントランスは暗い。エレベーターで三階に上がる。

「お前が来るのって、いつぶりだ? だいぶ久し振りだろ」

「多分、兄貴が初めて家から作品を置きに来た時だったと思う。ずっと前」

 開いた目の前のドアはギャラリーだ。よく展示会が開かれる。廊下を進み、アートスタジオと書かれたドアを開ける。電気はついているが静かだ。二三歩いたところで、区切られたパーテーションの奥から人が出てきた。頭にタオルを巻き、腕まくりをしたガタイのいい男性。はめていた軍手を外しながら近づいてくる。

「鳳さん、こんばんは。会うの久し振りですよね、来てました?」

「いや、学校の方が大変でなかなか。そろそろ作らないとと思って」

「そうですよねー、先生ですもん! あ、弟さんですか?」

 後ろにいる志弦に微笑んで会釈する。志弦も控えめに挨拶をした。

「志弦、ちょっと先に行っててくれ」

 男性と話があるのだと、善次は言った。言われたように、パーテーションの奥に進む。もううろ覚えでしかないが、確か兄の作業場は奥から二番目だった。ひょっこり覗きこむと、思った通り兄の作品が並んでいる。細かなものから大きなものまで、完成はしているが世に出なかった作品たちだ。兄も来ないので、ゆっくりとそれらを見ていく。その中に、両手を掬うように挙げた天使の彫刻が横たわっていた。胴体を掴んで色々な角度から見る。

〈志弦くんには分からないでしょう〉

 ふと夕李の言葉が蘇る。反芻していくうちに、ムカムカとしてきた。

 分からないでしょうって何だよ、分からないよ、一番なんて目指したことないから。

 志弦が幼い頃、憧れのヒーローはテレビの中におらず、すぐ傍にいた。善次だ。彼は学生の頃から美術が得意で、絵画では入選を繰り返していた。そのうち彫刻と出会い、その才能を開花させていく。志弦にとって、花道を歩む兄の姿は、何よりも素敵だった。

 志弦は兄ほど器用ではなかったため、違う道を選んだ。中学でバスケットボールを部活にしたのも、元をたどれば、兄が褒めてくれたからであった。兄が若手彫刻家として活躍していく中で、美術教師になることが決まり、志弦はすぐ赴任先の高校を目指すようになった。兄を目指していたわけではないが、兄に近づきたかった。入学する頃には素直な憧れにわずかな羞恥が混じり、美術部でも絵画班を選んだ。思えばそれは、兄に見ていてもらいたかっただけなのかもしれない。それでも兄は〝紣川〟に夢中で、弟の視線に気付くことはなかった。

 俺は、兄貴の一番ばかり目指してたんだな…。

 夕李に話した羨望は、才能や名声に向けたものではなく、善次の期待を一身に受けていることなのだと自分に思った。しかし、夕李に近づき、夕李を知ると、志弦に芯が芽生え始めた。夕李と仲良くなりたい、夕李を描きたい。その気持ちに兄の背景はなく、志弦自身が心から思うことだった。

 分かりたいよ、紣川のこと。

 兄を追うだけだった蕾は今、ようやく陽の光を見つけた。

「――安泰ですよね、紣川夕李ちゃん。この間も優勝してたでしょう」

 志弦のいないパーテーションの陰でひそひそと話す。善次は顔をしかめた。

「でもね、言われちゃったんですよ、他の先生に。紣川には、彫刻家以外の道もあるって」

 がっくりと肩を落とす。ポケットに挿した車のキーがじゃらりと揺れた。

「期待しすぎるなって、あんだけ才能あったら期待するでしょう、ねえ?」

「うーん、正論ですけど、先生も立場上言わざるをえなかったのでは?」

「何か、バカみたいじゃないですか、俺。期待の新星を勝手に喜んで、丁寧に指導した気になって」

 目をつぶって息を吐く。同僚は固まった後、苦笑いをした。

「それ、紣川ちゃんにも弟さんにも言っちゃダメですよ」

「ああ…何かダメですね、俺は、愚痴っちゃって」

「鳳さん、師弟制度の方が向いてるんじゃないですか。生徒って、沢山いるし、彫刻だけじゃないし」

 善次は目をぱちくりして同僚を見る。

「俺、教師向いてないのかな…」

「そうは言ってないですけど…。教師って多分、生徒一人一人を尊重してあげなくちゃいけないから」

 まあ、頑張ってください、と善次の背中を強く叩く。情けない顔を弟に見せたくなくて、気合を入れ直した。


 新年度にある大会にむけて、彫刻班は作品を作っていた。琴もいつも通りチャイムと同時に切り上げ、準備室へ用具を片付けに行く。戸棚の前で善次が考えごとをしていたので、控えめに声をかけた。

「どうした、鈴木」

「えっと、あの…」

「ん?」

 展覧博で見た夕李と聖璋の作品が蘇る。

「私の作品、指導してもらえませんか…?」

 言ってすぐに美術室から作りかけの像を持ってきた。冷たいプラスチック板に粘土が力なく立っている。琴はラフ画を渡した。

「おお、やけにしっかりしたラフだな」

 善次は微笑した。琴のそれは他と違って書き込みが多く、デッサンのように描かれていた。

「あ、と…好きなので、描くの…」

「へえ、鈴木は何で絵画じゃなくて彫刻に入ったんだ?」

 言葉に詰まる。親友にしか言えない、琴の秘密の部分だ。答えないでいる琴を見かねて、善次は続けた。

「まあ、初心者でも彫刻に興味を持ってくれたのは嬉しいよ。ちょっとな、同期がレベル高い奴ばかりだから、大変だろう」

「そうですね…私全然…二人についていきたいのに…」

 善次が驚いた表情になる。琴は何かまずいことを言っただろうかと心配になった。

「もしかして、鈴木もプロを目指してるのか?」

 ハッとして首を横に大きく振る。「そんなわけないです! 私は…」

〈じゃあ何で彫刻やってるんだ〉

 聖璋が脳内で責める。琴は口に指を当ててその言葉を吸い込んだ。

「私は…」

 頑張りたいと決めたはずのそれに、もう答えは出ていた。

 家に帰って夕食をとるが、心ここにあらず。自室に戻ってクッションを抱きしめながら寝転んだ。机の下に一枚の紙が落ちていることに気付く。手を伸ばして見てみると、展覧博に出した作品のラフ画だった。これも、鉛筆で濃淡をつけて、まるでこちらが作品のようだ。目の焦点を緩ましながら、作ってきた作品たちを思い出す。ひときわ記憶に残っているのは、完成図を描いたスケッチと、聖璋の姿。自分で苦笑してしまう。

「御堂くんの、ことばっかり…」

 聖璋に言われた言葉の数々が頭を巡った。思い出すたびに、ぎゅっと体が縮こまる。

 この小さい体で、全身で、彼を好きになった。思う度涙が流れるのは、彼が優しいからだと信じている。

 見てるよ、御堂くんのこと。だけど、私は――

「また、叱られそうだなあ…」

 茨から守るように、体の中に生まれた感情の結晶を大事そうに抱いた。


 次の時間は家庭科で、移動のために休み時間を少し早めに切り上げる。既に教科書とエプロンを持った慶子を見て、琴は慌てて鞄を探った。ここのところ天気がいい。春が近いと実感する。二人は渡り廊下を歩いていた。

「もうすぐ受験生だね、何か実感わかないなー」

 慶子が琴の方を向く。琴は難しい顔をして俯いていた。

「どうしたの?」

「えっ、あ…うん…」

「また、御堂くんがらみ?」

 慶子は芳しくない顔をしてみせる。琴は顔を上げて頬を染める。

「近いけど、ちょっと違う…」

 そう言うと琴は、小さな声でおぼろげな決心を話した。

「何か…うろうろしてて、逃げるみたいな、ダメだよね、こんな…」

「ダメじゃないよ」

 慶子は真っ直ぐ琴を見ている。

「つらいことを避けて進むのだって、立派な戦い方だよ。琴が決めたことなら、私は応援する」

「ありがとう…」

 琴の鼓動が緩んでいく。予鈴が鳴って、慌てて二人は廊下を駆けた。

 美術室は中庭から陽がさすが、午後には陰になる。善次の指示で、各班準備室に呼び出され、来年度の目標や方針を話し合うこととなった。彫刻班の三人も、善次の前に並んで座る。

「さて、お前たち三人とも受験生になるわけだが、進路のことは美術方面で相談があれば――」

 夕李をちらりと確認する。彼女は変わりないいつものポーカーフェイスだ。善次は咳ばらいをした。

「――いつでも、相談に乗る。それで、来年度の制作予定は…そうだな、卒業制作もあることだし、いっそ三人で大きな像を作ってみるか? なんて…」

 聖璋が首を横に振り、他二人はきょとんとした顔をしている。

「そうだな、ないな。じゃあ――」

「せ、先生」

 琴が口を挟む。三人の視線が琴に集まって、ぶわっと汗をかいた。胸を手に当て落ち着かせ、飽くまで善次を見ながら言う。

「私、絵画班に移りたいです」

 ――チャイムが鳴る。美術部は夕李と志弦を残して、帰っていく。

「木琴」

 出入り口でまごまごしていた琴を聖璋が呼ぶ。そのまま聖璋はスタスタと下駄箱に向かうので、琴もついていった。あの時のようだ、と初めて一緒に帰ったことを思い出していた。

 夜はまだ冷える。半歩下がったところで琴は聖璋の背中を見ていた。

「お前、彫刻をやめるのか」

 歩きながら問う。琴はやはりという顔で、深呼吸をした。

「うん、絵画班に移るよ…」

「今になって移るような優柔不断に、絵がかけるのか」

「……絵は、ずっと描いてたから…」

「お前は、そんな中途半端な気持ちで彫刻をやっていたんだな」

「それは………」

 足を止めて顔を拭う。聖璋が振り返った。

「また泣くのか」

「私は…」

 ぐっと腹に力を入れて、大きく息を吸い込んだ。

「私は、たったそれだけのことで、泣いちゃうんだよ。御堂くんから見れば、弱いから泣いちゃうんだよ。だけど、私は、このままの自分だって肯定されたい…!」

 泣きじゃくりながら琴は続ける。

「初めは、不純な動機だったけど、私は本当に、彫刻を頑張ろうって思ったの。御堂くんや紣川さんを追いかけて、だけど、つらくて…!」

「才能がなくてつらいなら、努力すればいい。力がないなら動けばいい。それもせずに嘆くばかりじゃ、救いようのないクズにしかならないぞ」

 聖璋の言葉が体に刺さったまま、琴は食い下がった。

「違うの、私は、才能もないけど、それ以前に好きの気持ちが彫刻にないって気付いた。だから考えたの、自分が本当にやりたいことは何かって。ずっと続けてきたのに簡単に手放しちゃった絵を思って…。遠回りしたけど、今、私は、一番に絵が描きたい!」

 言い切ってへなへなと座り込んだ。聖璋は動かない。

「優柔不断で、中途半端って分かってるよ…だけど、私は、こうしたいって、思ったの……」

 声を押し殺して泣いた。夜風が二人の間を通り抜けていく。

「そんなことを思う奴がいるのか…」

「い、いるよ、ここに…」

 聖璋は、ふん、と鼻で返事をする。

「分かってくれたの…?」

「分かるわけないだろ。俺がお前と同じ頭してると思うのか?」

「すみません…」

「まあ、そういう思考の奴もいるってことは、よく分かった」

 聖璋が琴の腕を引っ張って立たせる。ふらつきながら、琴は聖璋を見た。

「木琴、努力しろよ」

 頑張れ、と言われた気がした。


 春が近づき、教師陣は師走より忙しい。善次は、成実に言われた言葉が長らくひっかがっている。

〈先入観で彼女を決めないでくださいね〉

 納得がいってなかった。夕李自身が彫刻家以外の道を考えているのか否か。七時になり、二人を迎えに行く。タイミング良く志弦がトイレに行っているので、善次はここぞとばかりに話を切り出した。

「紣川」

「はい」

「紣川は、進路、どう考えてる?」

 一瞬首をかしげて、口をとがらせる。数秒の後、「まだあまり考えてません」と答えた。

「そうか、彫刻は続けていくのか?」

「…それも、分かりません」

 その言葉にショックを受ける。どうにかして夕李を扇動したいと思った。それを知らずに夕李は続ける。

「現に今、出来てないので、どうなるか…」

「大丈夫だ、お前なら出来る!」

 思わず大声を出してしまった。うんうんと頷きながら取り繕ってエールを送る。夕李は柔らかな表情になって返す。

「根性論って信じないですけど、そう言ってもらえるのってやっぱり嬉しいですね」

「え?」善次がきょとんとする。

「きっと、進路って皆悩むと思うんです。だけど、先生たちが励ましてくれるおかげで、希望を失わずに進めるんですよね」

「希望…」

〈希望を奪われて生き永らえるのと、希望を求めて死に急ぐの、どっちが幸せだと思います?〉

 自分の言葉がぐにゃりと蘇る。

「紣川なんて、励まされなくても実力があるじゃないか」

 夕李は首を横に振る。

「意地を張って守ってきましたけど、いつだって不安でした。他人の言葉を欲しがって」

 パタパタと廊下を歩く音がする。もうじき志弦が戻ってくる。廊下に目をやりながら、夕李は言った。

「いつも、可能性しかないんです。絶対なんてない。一人でいると潰れてしまいそうになるって、実感しました。学校に来たら、肯定してくれる人がいる…。それって、ありがたいことですよね」

 善次はあっけにとられていた。紣川夕李という天才が、まるで普通の少女であったことに。

 戻ってきた志弦と夕李を乗せ、車を走らせた。改めて、成実と夕李の言葉を思い出す。生徒一人一人が持つ、大事な可能性。

 俺は、そんな大切なものを潰そうとしてきたのか。

 現実に立ち尽くした男が、夢のかけらを拾う。信じていたものは否定され、真新しい世界に戸惑いを隠せない。けれどそこには、生徒たちがはっきりと見えた。少女が駆け寄る。

〈先生、私、彫刻家を目指したい〉

「前原…」

 つばきが駆け抜け、他の生徒たちも笑顔で善次を通り過ぎていく。黄色の光が彼らを包んでいた。

 これが、可能性。教師(おれ)が守らなくちゃならない、生徒たちの可能性――

〈兄貴〉

 呼ばれて振り向いた。後部座席の弟は窓にもたれて舟をこいでいる。善次はパチパチと瞬きをして、前を向き直し、もう一度丁寧にアクセルを踏んだ。 


 一見して、夕李の体調は良くなったようだった。周りはそれに安心していたが、当人は相変わらず〝声〟に悩まされている。ただ、今まではひたすら受け身で体調を崩していただけだったが、少し冷静に向き合えるようになっていた。

 先生は、こんなに私を呼んで、どうしたいんだろう。

 夕李は呆けたように意識を浮遊させ、目を瞑った。

 先生、

〈ユキコ〉

 先生、

〈ユキコ〉

 先生…

「紣川」

 パッと目を開けると志弦が心配そうに顔を覗きこんでいた。「顔色悪いよ、大丈夫か?」

「あ…ううん、ありがとう」

 額に触れると、脂汗が滲んでいた。夕李は目線をそらしたが、すぐに志弦の方を見て呼ぶ。

「志弦くん」

「何?」

「私、どうしたいんだろう」

 虚ろな問いかけに、志弦も肩をすくめる。

「どう…どうしたいんだ?」

「分からない。でも、今までは彫刻をして嫌な記憶から離れていたのに、今は、彫刻をすると先生を思い出してばかり…」

「つらいんだ」

「うん…それも、よく分からない。でも体が拒否してる。きっと、つらいんだろうね…」

 ふと、志弦は机にある夕李のラフ画を見る。そして、ハッとした。

「紣川」

 首をかしげて志弦を見る。

「ちょっと、お願いがあるんだけど」

 志弦にお願いされた休日、午後二時。海岸線を進むバスがヨットハーバーで停まる。二人は降りて、砂浜に出る。ザクザクと粒子の荒い音がして、少し歩くとヨットはなくなり、開けた場所に行きあたった。先を歩いていた志弦が立ち止まって振り向く。

「海風は冷たいな。もっと着てくればよかった」

 夕李はなびく髪を何度も直して海を見る。

「志弦くん、それで…」

「ああ、ちょっと下ろしていいかな」

 手に持っていた紙袋を砂浜に置く。中のものがかすかに擦れ合った。それは、志弦が頼んで夕李に持ってきてもらった、夕李の過去の作品たちだ。

「俺、思ったんだ」

 志弦が夕李を見ながら言う。

「紣川、先生のこと好きなんだなって」

 夕李が一瞬固まる。「先生って…」

「紣川の、宮下雅文先生」

「好きだったけど…もう、先生には、悲しい思い出しかないよ…」

「まだ好きだよ」

 志弦は言い切る。夕李は眉間にしわを寄せた。

「どうして? 志弦くん聞いたでしょう。正直、こんなこと言いたくなかったけど、先生には裏切られたって思ってる。今だって、ずっと邪魔ばかり…。そんな人のこと、好きでいられるわけない!」

 思わず声を荒げた。髪が口に入り、振り払う。

「これ」

 志弦は紙袋から一つ取り出した。

「紣川の作品には、どれも先生がいるよ」

 志弦には見えた。どの作品にも、ラフ画にすら、夕李の言う〝先生〟が込められている。しかもそれは、悪人となった苦い思い出ではなく、かつて夕李が見ていたであろう優しい眼差し――ピエタを見つめる先生――だ。

「…違う、そんな、先生なんかいない…だって、これは…!」

 雅文のことを忘れようと作ってきた作品。それなのに、

「本当は先生のために、作品を作ってきたんだろう」

「違う! 私は…先生なんて…」

 耳を押さえ、首を振ってしゃがみこむ。志弦は続けた。

「紣川の中に、ずっと先生がいる。だけど、――もう、解放されてもいいんじゃないか」

 言うと、志弦は彫刻を防波堤に向かって投げつけた。音に驚き顔を上げる。何が起きたか分からずポカンと口を開けたまま志弦を見る。ワンテンポ遅れて、別の彫刻を振りかぶる志弦の腕にすがりついた。

「自分を見ろよ、紣川! 先生が離れないなら、俺が離してやる!」

 彫刻は投げられる。無残に砕け散り風が揺らす。夕李は叫んだ。

「やだ…やめて、志弦くん、やめて…! 嫌…」

 夕李の脳裏に、彫刻を褒めてくれた雅文が蘇った。

〈ユキコ〉

「――先生!」

 砕け散った作品に駆け寄り、両手で掬うように抱きしめる。

「先生を壊さないで……」

 志弦は投げるのをやめて、夕李に歩み寄る。夕李は泣いていた。

「紣川、いつか言ってたよな。作った人が悪人でも、作品を楽しめるかって。それは、自分じゃなくて、先生に思ってたんじゃないか?」

 夕李の背中は丸くなる。絞り出すような声が聞こえた。

「先生が悪人でも、作品は無実だと思った…だから、作品を好きだった気持ちは消さなくていいと思ってた…。だけど、本当は、作品より…先生が好きだった…! 私を受け入れてくれたあの人が大切だった…! だから、信じたかった…信じたかったのに……」

 志弦はしゃがんで夕李と目線を同じにする。鞄の中から一枚の紙を取り出した。

「紣川、俺の絵、見て」

 顔を上げて見ると、そこにはいつかより上手く描かれた、笑顔の夕李がいた。

「私…?」

 志弦は頷く。

「紣川が、好きだ」

 ハッとして夕李は志弦を見る。志弦の瞳が夕李を捉えていた。

「俺は紣川のことが知りたい。どんな過去も、思いも、全部紣川だから」

 志弦は夕李の作品の中から手にしていた木彫りのキーホルダーを渡す。

「私…」

「もう先生はいない。紣川自身で決めるんだ」

 夕李はキーホルダーをじっと見つめた。

〈上手に出来たね、ユキコ〉

 鮮明に思い出される微笑み。何より、打ち込んできたのだ。

「私…彫刻がしたい……!」

 〝先生〟の声が遠くなっていく。夕李は握り締めたまま、声をあげて泣いた。


 新緑が雨に濡れる。美術部の新入部員たちもそろそろ慣れてきた頃だ。

「部長」

「ん、どうした?」

 一年生に呼ばれ、志弦が筆を置く。去年とは違う、真剣な空気が部に流れていた。絵画班には四人、彫刻班には二人、新しい顔ぶれが揃った。夕李と聖璋も初めての後輩指導を経験しているが、教え下手な様子を見てすぐ善次が介入する。そんな光景が気になりながらも、琴は真っ直ぐ自分のキャンバスだけを見て、色を重ねていた。

「琴ちゃん、休憩しよー」

「うん、もうちょっと、ここだけやったら…」

 声をかけた女生徒が熱心だねえと覗きこむ。大きな画用紙にアクリル絵の具が〝後ろ姿〟を描いていた。

「これ、モデルとかいるの?」

 琴はぽっと頬を染めながら頷く。冷やかしながら誰かと聞かれ、ちょっと困ったような、それでも嬉しそうな顔で答えた。

「私を動かしてくれた、憧れの人」

 その言葉を聖璋は聞いているだろうか。おそらく聞いていない、と琴は思った。彼が彫刻に熱心なことは、琴が一番知っている。

 聖璋は春に出したコンクールで最優秀賞を獲った。勿論、再び彫刻に向き合い始めた夕李も出場している。新年度に早速、悲願の――彼はこの表現を嫌がるだろう――勝利を飾ったのだった。それでも彼は油断しない。次を見据えていつもの席で彫刻に励んでいる。時々、後輩に対する口調のきつさを善次に指摘されながら。

「先生」

 一年生を指導していた善次を志弦が呼ぶ。休憩に入らせ、二人は準備室へ消えていった。

「俺、美大に進みたいんだ」

 弟から発せられた進路希望。善次はすうっと息を吸い込んだ。

 志弦は昨年度制作していた『羨望』が、とある大会で入賞している。勢いづいたのか、そこから何枚もの絵を完成させていた。善次はつばきのことを思い出していた。志弦は高校入学と同時に絵を始めた初心者だ。無謀とも言える、夢物語。以前の善次なら、諦めろと一蹴していただろう。しかし、

 可能性を先入観で潰してはいけない。

 善次は頷いた。

「それなら、俺が全力でサポートする。でも、自分の実力もちゃんと知っておけ、いいな?」

「! よろしくお願いします!」

 志弦は表情を明るくして、礼をした。

 チャイムが鳴り、各々が家へ帰る。二人の居残りは今も続いていた。夕李は創造の通り、丁寧に石膏を削っている。志弦が口を開いた。

「今日、兄貴に言ったよ、美大に行きたいって」

 夕李は手を止めて志弦を見る。

「俺、頑張るよ。紣川を描いたから、見つけた夢なんだ」

「うん、頑張って」夕李は微笑む。

「紣川は、この先どうするんだ?」

 天井から下へゆっくりと視線が動く。彫りかけの像を見ながら夕李は言った。

「とにかく、彫刻を続けたい。御堂くんにも、負けてられないし」

 机の上、そっと手を添えて削りカスを払う。現れるピエタ像と優しく見つめる老人、そしてその脇に一人の少女。

「紣川夕李として、一番になりたい」

 穏やかに微笑んだ彼女は、今、未来を見つめている。

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