第23話
関東運輸局は国土交通省の下部組織だ。要するにタクシーという旅客運送業の元締めで、タクシー会社にとっては煙たい存在だ。重大事故を起こしてしまったりすると会社に対して関東運輸局からの監査が入り、きちんと休憩を取って乗務をしていたか、決められた帰庫時間を守っているかなど事故を起こした乗務員や他の乗務員の乗務記録が調べられる。
そこで法外な乗務をしていると判断されると、厳しいところでは「業務停止処分」が下される。役人一人の権限で会社に対して大きなペナルティが与えられるとは思えないが、藪から蛇になるくらいなら下手に逆らわないでおくに越したことはない。
「もう一つ大野に取っては不運な事が重なってな」
梅島が言いにくそうに付け足す。
「その頃、所内で夏風邪が流行っていて俺も事務員もかかってしまってな。当直の者から事情を聞いて大野のクレームの対応をしたのは所長なんだ。あの人は出世街道から外れてうちに飛ばされたんだが返り咲きを狙っている」
「本社に漏れたら終わり、と言うことですか」
「そういうことだ。相手の条件を全て飲んで内密に処理をしたらしい。実はこの件を調べるのに時間がかかったのは通常のクレームとは違う場所に保管されていたからだ」
「結局、客を殴った男たちは見つかってないんですよね?」
「記録には何も書かれていない。会社から金が出て相手はそれで収めたようだ。所長としてもわざわざ事を大きくしたくないからそのままにしたんだろう」
「全て所長の一存――。」
「そういうことだ」
「大野は結局顛末書だけで済んだのですか?」
「出勤停止にもなっていない。大事だった割には最も軽い処分だ」
「それを決めたのも所長ですか?」
「記録ではそうなっている。調べていて思い出したんだが、俺はこの件についてほとんど聞いていなかった。通常は客のクレームは課長が担当するんだがさっき言った通り夏風邪で一週間ほど休んでいて、その間に片付けられた。出社してから、休んでいる間のクレームの報告として他のいくつかのクレームとまとめて事務員から報告を受けたが、全て顛末書の軽い案件だったから細かく見なかった。すまん」
あの天野の性格を考えると大野へのペナルティは軽すぎるように思えた。なにかが不自然だ。天野が絡んでいると分かった以上、慎重になる必要があった。この件に梅島を巻き込み過ぎている。だがここから先は梅島の協力が無ければ進まないことがわかっていた。梅島の真意を聞き出す必要があった。
「梅島さん、俺は、」
俺は言葉を探していた。
「なんだ?水臭いな。言ってみろ」
「梅島さんの会社での立場を悪くしてしまうかもしれません。だから、」
「真山」
「はい」
「この仕事が好きか?」
唐突な問いだった。俺は正直な気持ちを伝えた。
「好きとは言えないです」
「タクシー会社で働いていてそう言ってのけるお前が何を遠慮することがある」
梅島は笑いながら言った。
「所長を敵に回すことになります」
「俺は一度たりともあの人の下で働いていると思ったことはない」
即答が返ってきた。この気のいい上司に危ない橋を渡らせようとしていた。
「クビになったらかみさんと二人で居酒屋でも始めるさ。そうすりゃ毎日タダ酒を飲める」
俺の心を見透かしているかのように梅島が言った。
「引き返せませんよ」
「構わん」
俺は汚い男だ。言い出せば梅島は必ず協力してくれると分かっていた。結局俺は誰かの助けを借りないと何一つまともにできない。
俺は梅島にこれまで話さなかったことも含めて全てを話した。大野のアパートが監視されていたかもしれないこと、鍵を開けられたこと、千尋の尾行、そして――、
「大野の娘を尾行し、俺の呼吸を一瞬止めた男は俺の顔を見て驚きました。俺の顔を知っているようでした」
「何者なんだ?そいつは」
俺はノートパソコンにはあと4つの映像記録が保管されていることを話した。
「そのうち2つの映像記録の運転手はその男です」
「それじゃあそいつはうちの乗務員ってことか?」
「間違いないと思います。あの男は右の踵だけすり減った革靴を履いていました」
全てのタクシーがオートマに変わった今、アクセルとブレーキは右足だけで操作する者がほとんどだ。その操作だけで革靴の踵はすり減っていく。タクシー運転手の靴にみられる特徴だ。
「いったいどうなっているんだ?そもそもなんで大野のパソコンにそいつの車内映像記録が入っているんだ?」
梅島は相当困惑しているようだった。
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