第10話

 梅島からだ。今日はアルコールに縁がない。


「もしもし」

「真山か?梅島だ。面倒なことになったぞ」


 梅島の言葉に背中が強ばる。


「なにがあったんですか?」

「大野の車の記録だがな。無いんだ、何も」

「無いって……。どういうことですか?」


 梅島の言うことが理解できず、思わず声が荒くなる。


「カメラにSDカードは入っていたんだがな。記録が全て消えているんだよ。俺にもどういうことかわからん」


 梅島も困惑しているのが電話越しに伝わってくる。


「機械の故障じゃないですよね?」

「なんとも言えないが、パソコンに詳しい事務員の話だと、故障だとしても何の記録も残っていないってことは考えられないと言っている」


 大野が乗務している時に機械が故障して記録が残らなかったら、大野の前に他の者が乗務した時の記録が残っていないとおかしいはずだ。もちろん機械がずっと故障していた可能性は否定できないが通常では考えにくい。


「記録を消すにしても、あそこにSDカードが入っていることは、あまり知られていないことですよね?」

「あぁ。抜き取るのは会社の責任者がやることになっている。乗務員でも知るものは少ないはずだ」


 俺は一度、客とのトラブルで車内映像が必要となったことがある。


――歌舞伎町バッティングセンターの裏手から乗せたその客は風俗店のオーナーらしかった。店の女の子や従業員に見送られ足元が覚束ない様子で俺のタクシーに乗り込んできた。

 行き先を告げるとすぐに後ろから座席を蹴りながら喚き始めた。


「殺すぞ、こら!おい、もっとスピード出せよ、この野郎!」


 無言でアクセルを踏みこみ赤信号ギリギリで突っ込んでいく。


「殺すぞ、殺していい?お前」


 男は同じ言葉を繰り返し座席を蹴り続けていたが、突然窓を開けると外に向かって吐瀉としゃした。窓枠の中に男の吐瀉物としゃぶつが入り込み、すえた臭いが車内に立ち込めた。これで今夜の営業はもう出来なくなった。


「なぁ、殺していい?なにシカトしてんだよ、こら!」


 吐き終えた男はまた叫びだすと運転に支障が出るほど強く運転席を蹴り始めた。限界だった。

 西参道から明治神宮の入口へ向かい、人気の無い袋小路に車を止めた。


「お客さん、蹴るのはやめてもらえますか?」

「あぁ?」

「座席を蹴るのを止めてもらえますか?」

「なんだ?てめぇ、マジで殺すぞ!」

「脅すのもやめてもらえます?怖くて運転ができないので」


 抑揚よくようのない声で繰り返す。突然後ろから伸びてきた男の手が俺の髪を掴み首がのけぞった。角度的にも車内カメラにしっかりと写っているはずだ。音声も充分だろう。


「殺すぞ、てめぇ!」

「痛い!やめてください!暴力はやめてください!」


 証拠も充分に取れたところでエンジンを切った。後のできごとは記録が残るとまずい。

 俺はシートベルトを外しルームミラーで確認しながら男の眉間みけんに拳を叩き込んだ。苦痛の声を上げながら男の手が離れる。すかさず男の髪を掴みヘッドレストの上に強引に頭を引き上げシートベルトで首を締め上げた。


「さっきからうるせぇんだよ、この野郎。殺していい?だと?はい、殺してくださいって誰が言うんだよ、馬鹿か。殺したいなら黙ってやれよ」


 シートベルトを締め上げる手に力を加えると男の眼球が見開かれ恐怖の色が浮かぶ。


?」


 俺は唇を歪めながら男の口調を真似た。


「このまま中央道に乗って富士の樹海辺りに埋めてやろうか?」

「すいませんでした。」


 男は屈辱と酸素不足で顔を真っ赤にして言った。

 俺は吐瀉物のクリーニング代と料金を払わせその場で男を下ろした。この後すぐに男は会社にクレームの電話を入れ、俺が帰ってから車内映像が調べられた。俺は単純な興味から事務員の後についていき、迷惑そうな事務員の態度は無視し作業の一部始終を見てカードの位置を知った。不自然に終わっている記録に課長が怪訝けげんな目で俺を睨んできたが、それまでの男の車内暴力と暴言は明らかだったためお咎めはなかった――。

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