かいしゃく

 日替部は今日も闊達だ。


「与謝野晶子ってさ、きっとどMだったと思うんだよ。だって、旦那のペンネーム折檻だぜ、折檻。はしたない晶子にお仕置きをってことだろ? これ」


 沙妃先輩がまた妙なことを口走る。


「いや、ことだろ? って……」


 啓示は乏しい文学史の知識をほじくり返した。折檻ではなく鉄幹です。というか自ら「折檻」と名乗る歌人がどこにいるのか。パンクか。


「蘭学事始のフルヘッヘンドもさ、あれ絶対エロネタだぜ、元は」

「ふ、フルヘッヘンド? え、えーと……何でしたっけ?」

「フルヘッヘンドというオランダ語からうず高く盛り上がった身体の箇所、つまり鼻を連想したという解体新書作成にまつわる有名な逸話ですね」


 横から瀬奈が割り込んでくる。


「そう、それそれ。でもさ、んなわけねーだろって思うんだ、あたしゃ。うず高く盛り上がるだぞ、うず高く盛り上がる。そんなんで連想するのなんて男の股間しかねーじゃん。常識的に」

「痴女の、常識ではな」


 拳を振り上げて語る沙妃先輩に、匡先輩がツッコんだ。相変わらず普段は冷静な人だ。まあ、着ている衣装は薄桃色を基調にした女物の大正袴だけど。


「そうねえ。わたしは青い鳥のラストが引っかかるわねえ」


 まのか部長がマイペースに絡んでくる。


「もし自分の家に青い鳥がいたらあ、躊躇なく撃つべきでしょお? 本来い」

「は、はあ?」


 啓示は目をむいた。そうか、幸せの青い鳥は自分の家にいたんだ。では、撃ち方用意……うん、おかしい。


「なるほど、多幸症の予防ですね」

「はあい、その通りい」


 したり顔で頷く瀬奈に、まのか部長は笑顔で応えた。


「た、多幸症って……」


 啓示は絶句する。いいのか? 本当にそれでいいのか? 世界名作文学。


「『オツベルと象』だってそうだよ。象が怒ってグララアガアってのはつまり俺の怒張した股間がグララアガアってことで――」

「とら○あなの同人コーナーあたりで『おかあ、ヲタヲタ』『ああ、ヲタヲタ』と指を差してやることが現代の新感覚派だと僕は思っている」

「メロスもセリヌンティウスもお、お互いを疑った回数が一度きりだなんてそんなはずがないわあ。もっと疑ってるわよお。にんげんだものお」

「西遊記って、長く辛い旅から現実逃避した三蔵法師の妄想だと思うんです」


 四人の言いたい放題はなおも続いた。文学史、歪みまくりであります。


「あ、あの……」


 喧々諤々の中に、突如か細い声が混ざる。


「え?」


 啓示は声のした方向、入口のドアを振り返った。


「ど、どうも……」


 現れたのは、青白く痩せたきのこ頭の男性。落ちくぼんだ目とこけた頬が覇気のなさをいっそう際立たせている。


「あ、なんだ。エノキダケじゃん。いたの?」


 沙妃先輩が軽い調子で言った。


「ふむ、神野けーじは実質初対面だな。こちらは日替部顧問の榎木岳えのきがく先生。名前の岳を読み替えてエノキダケ先生というのがもっぱらの呼び名だ」

「そう呼んでくれ、とは一度も言ったことないんですけどね、はは……」


 匡先輩の説明に、ひょろりっとした教師は情けなく笑う。なるほど、エノキダケ先生とは言い得て妙なネーミングだ。


「三田村さんは先日、しりとり部の時にご挨拶しましたが、神野くんは……」

「あ」


 そうか、あの時の人か。


「じ、神野啓示です。よろしくお願いします。この前はありがとうございました」


 とりあえず頭を下げる。何となく、介抱されたような気がしないでもない。


「ああ、これはどうもご丁寧に。あの時はびっくりしましたが、身体の方は大丈夫そうですね。若いですね。それにひきかえぼくのような老害ときたらもう……」


 いきなり自虐されてしまった。


「でえ、今日はどうなさったんですかあ? 先生え」


 遮るように、まのか部長が尋ねる。


「あ、はい。先日のしりとりはこれならぼくも参加できると思ったのですが、突然顔を出していいものか迷って、結局あんな遅い時間になってしまいました。そこで今日はその轍を踏むまいと少し早めにスタートを切りまして――」

「どうなさったんですかああ?」


 一喝された。


「あ、ああ、はい。実はですね」


 エノキダケ先生は、懐からノートの紙片を取り出す。


「こんなぼくですが、一応国語教師を名乗っているものですから……実はその……少々思う所がありまして……」

「んあ? どれどれ」


 沙妃先輩がひったくるように奪い取り、中身に目を通した。



 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ



「……何だい、こりゃ?」

「石川啄木の歌だな」


 ぽかんとする沙妃先輩に、匡先輩が正解を教える。


「その通りです。さすが村雲くんですね」


 エノキダケ先生が相好を崩した。誉めているのに、呪っているみたいだ。


「それでえ、この歌が何だっていうんですかあ?」


 まのか部長が問い詰める。


「ええ、まあ……その……」


 エノキダケ先生は、血の気の薄い唇をふるふると動かした。


「妻はおろか、友達の一人もいないぼくのようなダメ人間は、一体何と親しめっていうんでしょうか、なんてね、はは、ははは……」


 食生活が心配になるげっそりとした頬に、哀しい自嘲の笑みが浮かぶ。


『……』


 部室全体がどんよりと濁った。二年生コンビも瀬奈も、まのか部長ですらかける言葉が見つからない様子で黙り込んでしまう。


「だったら……」


 のしかかる沈黙を打ち払うように、啓示が口を開いた。


「孤独と親しめば、いいんじゃないすかね」


 ぼそっと、一言。


「はうっ……!」


 エノキダケ先生がびくんっ、と大きく震えた。


「あ、あああ……」


 腐ったキノコのような目から、一筋の涙がこぼれる。


「こどく、こどく、こ、ど、く……」


 何度も繰り返すその姿は、もはやちょっとしたホラーの趣だ。


「こどく、いやーーーーーっ!」


 猛烈な絶叫とともに、しゅたたーっと走り去ってしまう。


「え? え?」


 啓示は周囲を見回した。何がどうした。事態を把握することができない。


「けーじ」


 瀬奈が、するりと近寄ってきた。


「見事な……かいしゃくだったよ」


 ぽつりと、耳元でささやく。


「……か、かいしゃく?」


 啓示の呟きが、虚しく空へ吸い込まれていった。

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