奇をもって貴しとなす日替部

山野 凌

序の口

 華雄かゆう学園の部室棟、二階の一番端っこ。


 カオス学園の通称にふさわしく騒がしい校内にあって、このエリアだけはまるで音が消えたようにひっそりとしている。


「えっと……ここでいいのか?」


 神野啓示じんのけいしは、確かめるようにそう呟いた。


「ひがわり、ぶ……」


 手にした紙きれと、目の前にある重厚な木の看板を見比べる。


「うーむ……」


 腕組みをしてうなった。「日替部」とは一体何をするのか。字面だけではまるで見当もつかない。


(とはいえ……)


 まずは飛び込んでみるしかないだろう。


 下駄箱に「あなたを指名しました」と書かれた紙が入っていたので、物は試しとやってきたのだ。うだうだ悩んでいても仕方がない。


「すいませ~ん……」


 ノックをして、そーっと中に入る。大丈夫、大丈夫マイセルフ。


「……」


 気配をひそめて、様子を窺ってみた。


 部屋の広さは十畳ほど。真ん中にはしゃれたテーブルが据えられ、その周りにはソファーと数脚のパイプ椅子がお行儀よく並んでいる。壁の本棚は中身びっしりで、上にはいくつかのダンボールが丁寧に積まれていた。


(へえ……)


 悪くないかも。


 ほっと一息つきながらそんなことを思った、次の瞬間。


「えっ……!」


 啓示の視線は、目の前の一点に釘付けになった。


 佇んでいたのは、一人の少女。


 春の風に散る桜の花びらをバックに、窓辺にもたれながら、どこか憂いを帯びた表情で遠くを見つめている。


(う、うわ……)


 何も言えないし、何もできない。一枚の絵を思わせる芸術的な美しさに、啓示は呆然と立ち尽くしてしまう。


「……ん?」


 少女の瞳が、ちらりと動いた。


「すわ」


 妙に時代錯誤な一言を口走ると、ずんずんこっちに近づいてくる。


「君も新入生でしょ? 私、三田村瀬奈みたむらせな。よろしく」


 いきなり名乗ると、くりっと大きなアーモンド型の目で啓示を見据えた。通った鼻筋にどこか不敵な口元。正面から見ると、好奇心の強い猫のような風貌だ。


「あ、ああ……え、えっと、俺、神野啓示。よ、よろしく」


 どぎまぎしながら、やっとのことで返す。


「ふーん。どんな字?」

「阪神の神に野球の野、啓蒙の啓に示す」

「ああ、なるほど。神立つ野にて啓示を受ける、ね」

「……」


 もしかしてこの子、人の話を聞かないタイプだろうか。


「うーん……よし」


 瀬奈は何か閃いたようにぽんと手を叩いた。合わせるように、しなやかな黒髪を束ねた左サイドテールがぴょいんと揺れる。


「じゃあ、君は今からけーじ」

「……え?」


 啓示はきょとんと聞き返した。


 繰り返しますが俺の名は「じんのけいし」です。その辺、お間違えのないようによろしく。


「あいにく先輩たちは留守だけど、もうすぐ来ると思うから」

「い、いや、あの、俺、けーじじゃなくて……」

「でもまあ、その前にとりあえず、ということで」

「けいし、なんだけど……」

「えーと、どこだったかしら」

「おーい……」


 絶望的なまでに噛み合わない会話をよそに、瀬奈は棚からダンボールを下ろしてごそごそとあさった。


「ああ、これこれ。はい、けーじ」

「……」


 心の中で、何かがぽっきりと折れる。


「えっと……な、何? これ」


 それでも、気を取り直して尋ねた。手渡されたのは、トーストを少し大きくしたサイズのざらざらした茶色い固体だ。


「何って見ての通り、くさび形文字の記された粘土板よ」


 常識でしょ、とでも言いたげに瀬奈が応じる。


「くさび形文字……ああ、インダス文明の」

「メソポタミア文明」

「あ、そ、そうだっけ……」


 なるほど、メソポタミアだったか。気をつけよう、知ったかぶりは恥の元。


 ……いや、じゃなくて。


「そ、それで、この板には何が書いてあるの?」

「何って、だから見ての通りじゃない」


 キリッと表情を決めると、瀬奈は人差し指で撃つように粘土板を指した。


「それ、入部案内」

「にゅ、入部案内!?」


 ががーん。啓示はまるで落雷にでもあったかのような衝撃を受けた。理由は? 必然性は? そもそも何の意味が? クエスチョンマークの嵐が頭に渦巻く。


「き、君、三田村さん、は……」

「瀬奈でいいよ」

「せ、瀬奈さん――」

「さんもいらない」

「そ、そう。じゃあ……瀬奈はこれ、読んだの?」

「もちろん。私も新入生なんだから」

「……読めたの?」

「うん」

「うんって、そんなあっさり……」

「だってもう高校生なんだし、くさび形文字の一つくらいは解読できるようにしておかないとね。まあ嗜みってやつよ、嗜み」

「い、いやいやいやいや!」


 啓示は全力で首を振った。古代文字の解読を嗜む高校生は超少数派だ、絶対。


「まあそういうことだから、けーじもちゃんと読んでね、それ」


 一方的に会話をまとめると、瀬奈は均整のとれた身体をソファーに預けて読書を始めた。タイトルは『バカラマーゾフの兄弟』。よく分からない。


「おーい……」


 残された啓示は、当然のごとく立ち往生。


(えー、つまり……)


 今起きたことを整理してみる。


 部活の見学で同じ新入生の女子にくさび形文字の彫られた粘土版を渡されそれを自力で解読するはめになりました。なお、歩く平々凡々、自称オール3.5の俺にそんなことはとうてい不可能です。おわり。


 ……うん、おかしい。これはおかしい。どこをどう考えてもおかしい。


 何度も頷きながら、啓示は自分にそう言い聞かせた。


 だが、いくらおかしいと分かっても、それで何かが変わるわけではない。


(でもやっぱり、おかしい……)


 乾いた心に、冷たい風がぴゅーっと吹き込んできた。

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