第4話

 濃霧の中を男は走っていた。追われていたからだった。男の後を追うのは死肉を漁る犬の化け物で、男を殺して食おうというのだ。

 湖畔の森を男は巧みな足捌きで駆け抜けて行く、しかし怪物はそれ以上だ。男は運が無いと、しかしそうは思わない。追い付かれ殺されるならば別にそれでも構わなかった。だが何も死にたいわけでもなく、故に男は走る。

 霧は一寸先すら白い闇で覆っている。目の前に何が迫ってるのかも分からずに、しかし男は走り続ける。

 走り続けて、走り続けて、漸く何かに追われる気配から解放されたと感じた男は足を止めて呼吸を整える。霧が喉へと入り込み咳き込みそうになるのを堪えて男は歩いた。

 やがて一本の木が男の目の前に現れる。まだ生命力に溢れた緑の葉を揺らすその木に男は背中を預けて腰を下ろした。湖の水を蓄えた水筒を取り出し、一口それを飲んで渇きを潤す。

 あらゆる音が霧に遮られて、男は静かな空間でゆっくりと瞼を下ろす。すると聴こえてくる声があった。男が目を開けると彼の目の前には一人の女性が立っていた。

 女性は男に微笑みかけると、一言断ってから男の隣へと座る。どうしたのかと男が訊ねると、女性は何でもないと笑う。男と女性は暫く木の根元で静かに休み続ける。男が行かなくてはと立ち上がると、女性も同じくして立ち上がり、こっちだと男を案内する。男は頷いて女性の後を着いて、晴れない霧の中を長いこと歩いた。時々女性の背中を見失いながらも、男が少し進むとまた現れて彼を呼ぶ。

 歩いて歩いて、歩き続けて、男は霧が晴れて行くのに気付く。まだ森の中ではあったが、男には進むべき方向が何となく分かり、木々を掻き分けて進んで行く。すると男の視界の先、少し離れたところに女性の背中を見つけた。僅かに速足で歩いて行くと、男の目の前では森が拓け、そこには到底不釣り合いとしか思えない恐ろし気な石造りの扉、門、兎も角その様なものが置かれていた。

 男の背よりもずっと高く、開けば馬車も三台は並んで通れることだろう。巨大な扉があり、その扉は鎖が何重にも巻き付けられ封印されている。そしてその扉の前に黒い鳥の羽で作られた外套を纏った人の後ろ姿があり、男は寒気を覚えながらゆっくりとその人物へと近寄ろうとする。その時だった、獣の唸り声の様なものが聴こえ、男の身が思わず竦む。森が音を立てて揺れ、木々をなぎ倒し現れたのはこの世のどの怪物よりも醜く大きな身体をした二体の怪物であった。一匹は二本の逞しくうねった角を頭から生やし、もう一匹は片方の角が折れている。

 男が見つめる先でその怪物二匹はしかし子犬の様な甘えた声を出して黒い外套の人物に擦り寄って行く、外套の人物も少しの間はその二匹を撫でたりして可愛がっていたが、気付くとその人物は片手に黒い諸刃の剣を持っていて、それを振るい扉を封印していた鎖を事も無げに断ち切って見せた。男の目にはその瞬間、黒い剣が銀色に輝いたように見えて、目を更に見張る。

 しかし問題はこれからだった、開封された扉から垂れ下がる鎖を怪物がそれぞれ手に握り引っ張り出したのだ。ゆっくりと開かれて行く扉、溢れ出す明るく毒々しい緑色をした煙が霧の様な何かが一帯に広がり、それに触れた木々は瞬く間に枯れて朽ちて崩れて行く。男の足元にもそれは纏わりつくが、不思議と何ということは無く、しかし男はその光景から目を離せずにいた。

 やがて扉が完全に開かれると、その先に広がるのは夜の闇すら明るく思える程の漆黒、そしてその中で蠢く無数の気配と眼光。そして巨体の怪物二匹が吼えるのと同時に堰を切ったかのように扉の向こう側から数多の化け物たちが雪崩のように飛び出して来る。

 得体の知れない怪物から、死者のようなもの、骸骨。それらは一気に広がり男を飲み込んだ。男は混乱し動けずにいて、しかしまだ無事だった。如何にもな化け物たちが雪崩れて行ったその後に続くのは肉が腐り骨すら見える馬に跨った兵士や騎士。だがいずれも亡者のような顔つきをしていて、到底生者とは思えない。それは際限なく扉の向こうから溢れ続ける。

 男はその場に立ち尽くしたまま、この世のものとは思えないこの光景を眺めていた。だがその時、彼の隣には女性が居た。男がその女性に気が付いてそちらに顔を向けると女性は笑って男の頬を撫でて、蓄えた髭を指先で弄ぶ。懐かしい間隔に男の頬が緩んだ。男は悟った、辿り着いたのだと。

 そして一人微笑みを浮かべる男の前に、黒い外套の人物が現れる。全身を前後関係無く外套で包み隠したそれは、唯一露出した顔すらも歪な、人のものとも形が違うような骸骨の仮面、あるいは本当にそうなのかもしれないが、それで覆い隠されていて、それの眼孔からは赤い光が覗いていた。

 黒い外套を纏ったそれは、手にした黒い剣を持ち上げる。男はそれを眺め、漸く終わりが訪れたのだと安堵の溜め息を吐いた。そして目を閉じる。

 最期の瞬間、女性との幸福だったひと時が、男の前に甦っていた。

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