愛も憎も入り乱れ
それは、映画デートから数日後のことだった。
湖夏くんは今まで通り、優しくてブレなくて、少し頼りなくて。変わったことと言えば、私がたまに江南ちゃん――湖夏くんの元カノと連絡を取るようになったことくらい。
湖夏くんの好きなものについては、江南ちゃんもよく知らないらしい。昔そういう話をした時、湖夏くんは毎回江南ちゃんに先に答えさせて、同じものを好きだと言ったそうだ。
できるだけ平和に、波風を立てずに。湖夏くんのスタンスは尊敬するけど、私と喋るときくらいは、もう少しリラックスしてくれてもいいのになーって思ったりもする。
「まーちゃん。ちょっとこっち来て」
まーちゃんの『ま』は万華鏡の『ま』。ママには私が物心ついたときからずっとそう呼ばれてる。
私は食後のゴールデンタイムに、リビングのソファで寝そべって歌番組を見てたところ。はしたないって注意される……くらいならいいんだけど、そうじゃないことはわかってる。
大事な話をする時は、ママは必ず食後のデザートをつける。今日は私の前にだけ、高そうなマンゴープリンが添えられていた。
「なーに、ママ。勉強ならやってるよ」
以前よりは。
湖夏くんのおかげで、テストの結果も良くなった。少しは。
「これ、どういうこと?」
ママにスマホで一本の映像を観せられて、喉奥に苦い味が広がった。
それはついこの前、江南ちゃんと初めて会った時の動画だ。
お洒落なカフェ、私たち三人が座るテーブル席。遠くからの映像で、顔はぼやけて誰かわからないし、声もほとんど入っていない。たまに金髪ツインテ美少女の大声が聞こえる以外には。
帰ってから冷静に思い返して、相当うるさかったし目立ってただろうなーくらいには考えてたけど、まさか撮られてるなんて。
「これ、まーちゃんよね?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「隣に座ってるのは誰?」
「彼氏かもしれないし、彼氏じゃないかも」
「まーちゃん」
いくらバカな私でも、次に何を言われるかなんてわかりきってる。
きっといつかこういう日がくると、漠然と思ってはいたけれど。まだ、心の準備ができてない。
「あまりこういうこと言いたくはないけど、まーちゃん。まーちゃんなら、もっといい人見つけられるわよ」
テレビの中で、高身長で高学歴な美声のイケメン達がパフォーマンスしている。
スマホの中では、私の彼氏が今カノと元カノの板挟みになって、泣いていた。
「誰を選ぶかなんて、私の勝手でしょ」
「ママはまーちゃんのことを思って言ってるの。まーちゃん、この人たちのファンだったでしょ? こういう人と結婚するんだーって、楽しそうに話してたじゃない」
ママは画面の中を指差している。
世の女の子たちの憧れの存在。ありえないとわかっていながら、誰もが一度は夢を見る。例え思いが届かなくたって、恋をすることはできるから。
でも、画面越しにどんな妄想を膨らませるかと、誰と手を繋いで歩くかは別の話だ。
「何年前の話を掘り返してんの。っていうかナナヤ様とどこぞのぽっと出アイドルを一緒にしないで。私の推しはエレエベのナナヤ様ただ一人なんだから」
「別に誰だっていいけどね、選ぶならもっと」
「うっせーな! 誰だっていいなら口出しすんな!」
「ちょっと……まーちゃん!」
テレビのリモコンをソファに叩きつけ、私は自分の部屋に逃げた。
イケメンが全部同じ顔にしか見えない女に、男を見る目がないなんて言われる筋合いはない。
ママは追ってはこなかった。
コン、コン、コンと、妙に間の空いたノックの音がした。
「入っていいよ、パパ」
「それじゃあお言葉に甘えて。お邪魔するよ、まー」
パパはスーツ姿のまま、私の部屋に足を踏み入れた。同級生の子はそういうのにデリケートだけど、我が家の大黒柱には帰ったらすぐ玄関で消臭スプレーをかける義務があるから、靴下で入られてもそこまで気にならない。
「ただいま。まー、ママと喧嘩したんだって?」
「なに? パパもお説教?」
「いいや。二人の問題は二人でよーく話し合わなきゃいけないよ」
パパは首を横に振った。一秒に一往復、二秒かけて。
パパは一言で言えば、マイペースだ。
ノックの間隔も首を振る所作も、ゆったりというかのんびりというか、とにかくスロー。パパ曰く、周りの人たちを嫌な気持ちにさせてしまわないためらしい。書類を整理するのも引き出しを閉めるのも、慌てずに、大きな音が出ないように。心と心は簡単に触れ合うから、いつも誰にも、優しく暖かく……と。
「ナナヤ様とその辺の雑魚が同じ顔に見えるんだって。パパも気を付けたほうがいーよ。別のオッサンが変装して帰ってきても気づかないかも」
「はっはっはっ、まー、強くなったなあ。でもね、ママに男の見分けがつかないのは、仕方がないんだよ」
「どういうこと?」
ただでさえ細い目をさらに細くして、パパはにっこり笑った。
「ママはパパに惚れてるからね。パパ以外の男はみんなジャガイモに見えてるんだ」
「この流れでのろけてんじゃねー! ちっとは空気読め!!」
「はっはっはっはっ」
パパの大切な人同士が争ってるというのに、パパは普段通りだ。
大切な人同士――ふと、湖夏くんの顔が浮かんだ。湖夏くんがパパの立場だったら、どうするだろう。あの時みたいに、苦しくて泣いてしまうんだろうか。
「まーはどうなんだい? 彼氏、できたんだろう?」
「湖夏くんは湖夏くんだし、ナナヤ様はナナヤ様だもん」
「ファビュラスクール系演歌ユニット、
あの時のことは私も覚えてる。エレエベの特徴はなんといっても、平均年齢18歳の若くて軽やかなハスキーボイスで奏でる、和風で力強い演歌。斬新な組み合わせが注目を浴びて、デビュー当時から街行く人々の誰もがエレエベの話題で持ち切りだった。その勢いは最初に出したCDがいきなりミリオンを記録するほどで。
CD買ったことないけど買ってみようかな、でも今月ピンチだしな、って私が悩んでる間に、限定版はどこもとっくに売り切れてた。あの日私は、新譜が欲しいときは予約開始日にスマホの前でスタンバる、ってことを学んだんだ。
「おっとっと、話が逸れたね。他の人、例えばさっき言ってたその辺の雑魚さんの顔、まーは思い出せる?」
「雑魚さんって。……顔はパッと浮かばないけど、見れば誰かはわかる」
「そうだろうねえ。パパもまーとママの顔はわかるけど、上司の顔は見なきゃ思い出せないからねえ」
「それはまずいでしょ、仕事に支障出たらどうすんの。クビになられたら困るんだけど」
「はっはっはっはっ」
「笑い事じゃない!」
パパはいっつもこんな調子だ。
私やママがどれだけ急いでも、決して隣を一緒に走ろうとはしない。それどころか、肩を叩いて、足を止めさせて。苦しい時も、はらわた煮えくりかえってるときも、ニコニコしながら熱い湯呑みを薦めてくる。
けれど不思議なもので、パパと一緒に立ち止まって一息つくと、なんか、どうにかなる気がするんだ。
「ほら、恋は盲目、ってよく言うだろう? 自分以外の人から意見が貰えるのは、決して悪いことじゃないよ。見ている景色は人によって違うからね。もちろん、言いなりになれってことでもない。まーには見えていて、ママには見えていないことだってあるんだから。もちろん、逆もね」
ナナヤ様の存在を知る前は、と言っても小学生くらいの時だけど、大きくなったらパパと結婚するんだーって、口癖のように言ってた気がする。
「パパは止めないの?」
さすがに今は、結婚したいとまでは思わないけど……でも、パパは頼りになる人だ。
だから、できることなら、パパに背中を押してほしい。湖夏くんを選んだのは間違いじゃないって、その口から聞きたい。
「まーが悲しい顔をしていて、鏡を見る余裕もないなら、止めるかもね」
「なにそれ。そうなる前になんとかしてよ」
「ママはなんとかしようとしてるよ?」
なんでそこでママが出てくるんだ。思わぬところから反論が来て、思わず口を閉じだ。
「CDが買えなかった日、まーは悔しくて、たくさん泣いたろう? でもそこから、予約して買うって方法を身に着けた」
私はCDラックを見た。4枚の限定版と5枚の通常版が、交互に発売日順に並んでいる。友達にはいつも珍しがられる。スマホで買ってスマホで聞くのがイマドキだし、私も他の曲はそうしてるから。
「失敗は悪いことじゃないと、パパは思ってる。それに、すぐに結果が出るわけでもないからね。ママとパパも、やんちゃな頃はしょっちゅう喧嘩したもんだよ。でも今は、ママと結婚して良かった、って思ってる。かわいい娘もできたことだし」
パパは愛おしそうに、私の頭を、そして金髪ツインテを撫でた。湖夏くんを選んだこと、正解とも間違いとも言わないまま。
「まーがいいママになれるかは、ママになってみないとわからない。でも、いいママになろうとすることは、きっといいことだと思うよ」
私の金髪は、遺伝だ。
パパはいわゆるクォーターで、ちょっとだけドイツの血が流れてる。私にもちょっとの半分だけ海外の血が流れてることになる。なんか呼び方があったはずだけど、忘れた。そういうの、全部まとめてミックスって言うらしい。
ドイツ人のパパのおばあちゃん、私のひいおばあちゃんはお人形さんみたいに細くてしなやかな金髪で、当時の日本ではとても珍しかったそうだ。
「パパも早く孫の出産に立ち会いたいなあ」
「すっ飛ばしすぎでしょ。彼氏を紹介するとか式挙げるとか、間にもっといろいろあるでしょ」
「そうかい? 今時の男の子はあんまりガツガツしてないのかな? パパがまーと同じくらいの歳だった頃は――」
「いい! 生々しいからいい! 自分仕込まれた話とか聞きたくないから別に!!」
「はっはっはっはっ」
私がいくら呆れても、パパはまた、呑気に笑うんだ。
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