幕間 土御門宗吾の決断
アヤカシという脅威が去った陰陽寮総本山は、バケツの水をひっくり返したような騒ぎに包まれていた。ひとまずの危機を脱したことでシェルターに避難していた非戦闘員が施設に戻り、滅怪士を始めとする負傷者の救護と施設破損の応急処置を始めている。正院の機能は麻痺状態に陥り、しばらくは正規の活動が困難になった。
ただし、想定していた事態より遙かにマシな結果でもあった。それは一人の妖狐がアヤカシ、滅怪士双方の衝突を抑制して回っていたことが大きな影響を与えている。その事実を組織の人間たちが知るのは、後日のことだ。
「式務急げ!
滅怪士、式務官、法武官、監部官らが敷地内をかけずり回っている。顔を隠すべき仮面すらもつけず、誰もが必死の形相で目先の問題に対応していた。
だが一人だけ動かない者がいた。屋敷の縁側に座り込む男は、地面を眺めるだけで何もしようとしない。生気を失った顔は青白く、心ここにあらずという風体だった。
『私を救う、という結果に拘っている貴方は、私を見ていない』
土御門宗吾は、何度も何度も彼女の――御影依子の言葉を思い返していた。
突き放す声は楔のように心に突き刺さり、心身を衰弱させている。
否定できなかった。依子を引き止めることができなかった。
なぜかは、考えるまでもない。彼女に指摘されたとおりだからだ。
多少の好意はあったかもしれないが、あくまで彼女のことは庇護する対象として見ていた。今は愛情を持たなくても、接しているうちにいつしか育まれていくものだと楽観視していた。
それを、彼女に見透かされていた。
何より宗吾がショックなのは、滅怪士を救うという善業に固執していると、本人の口から告げられたことだった。
皆は間違っている。自分達のために戦ってくれた女性達を、捨て駒のように扱うことなどできない。そう考えていたからこそ、宗吾は自分が規範になろうとした。狂った少女にも手を差し伸べれば、その事実が皆の心に影響を与えるはずだと信じていた。
それはつまり、組織を内から変えようとした己の策に、依子を利用していたことになる。深く沈み込ませていた本音が、彼女の言葉によって返す刃となり宗吾を苦しめる。
――俺は、どうかしてる……。
この方法で彼女の心を救えると宗吾は信じていた。穏やかな環境に身を置けば精神も安定するはずだ、と。しかし手を差し伸べた事実に満足して肝心の依子に目を向けていなければ、どのみち関係は破綻していただろう。
では、自分は間違っていたのだろうか?
答えは出ない。思考が同じ所をぐるぐるとから回る。だから彼は、背後の足音にも気づかなかった。
「あら。こんなところでサボってるなんて珍しいわね。土御門高等法武官」
女言葉を使う男の低い声が宗吾にかけられる。
依子の専任式務官だった舞阪ロバート武虎――通称ボブという男は、治療器具の詰まったボックスを担いで彼に近づいた。しかし宗吾はうなだれるだけで振り向きもしない。
「まぁ気持ちもわからなくはないけど。でもケイちゃん、じゃなかった。依ちゃんはもう戻ってこない。ショックだろうと、あなたには早く立ち直って貰わないと」
言われずとも宗吾とて理解している。組織の一大事に落ち込んでいる暇はない。
しかし今は、職務に没頭して忘れようとする気持ちも沸かなかった。
「本当なら精神カウンセリングでもしてあげたいところだけど、あたしもかなり忙しくなりそうなのよね。総本山だけじゃなくて、半妖包囲作戦の生き残りや逃げ延びた人員もいるって報告があるし。片腕無くして集中治療室に担ぎ込まれた子とか、早く行って保護しないと」
声は宗吾の右耳から左耳へ通り抜けていく。
石になってしまったかのような宗吾に、ボブは肩を竦めた。
「失恋なんてとっとと忘れちゃいなさい。他にもいい子、たくさんいるわよ」
「……自分は、そういうつもりではなかった」
ほぼ無意識に、宗吾は口を滑らしていた。失恋という言葉に反応してしまったのかもしれない。
そして彼は、困惑する。なぜか胸の奥がキリキリと痛む。
「俺は……彼女に惚れていたわけじゃない。あんな少女を見捨てる男になりたくなくて、手を差し伸べた。でもそれは、俺の独善でしかない。一人の少女を救ったことに満足して、俺は他の男と違うんだと、そう思いたかっただけで」
胸の痛みは増していく。自分の正しい感情を吐き出しているだけなのに、叫びたい衝動に駆られる。まるで自分で自分を傷つけているようだ。
いや、もしかすると、本当にそうなのかもしれない。口にしている言葉達は、自分を誤魔化すための偽りかもしれない。だから心が軋んでいる。
本当は、依子を失った喪失感の本当の理由は。
宗吾は自嘲の笑みを浮かべる。どちらにせよ、気づいたところでもう遅い。
「いいんじゃない? そういう動機でも」
驚いた宗吾は振り返る。ボブは呆れ半分、親しみ半分の笑みを浮かべていた。
「経緯はともかく、誰かを救おうとした行為は立派でしょ。咎めるようなものじゃないわよ」
「だが、俺は彼女を傷つけようとしたわけで……」
「ま、やり方を間違えればそうなるでしょうねぇ」
「やり方?」
聞き返すと、ボブはやれやれと首を振る。
「あなた、捨てられそうな女の子を救いたかったんでしょ? その方法として夫婦になることを選んだけれど、彼女にとってそれは要らないお節介だった。今回はそういう単純な話じゃない。だったら、彼女の愛を壊さないように救ってあげることを考えるべきだったわね」
簡単に言ってくれる、と反感を持つ宗吾だったが、一方で妙に納得もしていた。結果論とはいえ、最初からその選択ができていれば間違いは起こらなかった。
結局、組織の都合の中で取り繕っていたことを宗吾は痛感する。示された手段だけが唯一解だと思い込んでいたに過ぎない。それに甘えて、自分の恋路も重ねていた愚かな男だ。
しかし宗吾は、手応えのようなものを感じていた。
傷つく女性達を見過ごすべきではないという信条は、きっと間違っていない。ボブが言うには、そのやり方が間違っていた。
不意に、依子の言葉が過ぎる。
『でも、貴方のような人を本当に必要としているのは、滅怪士の運命に打ちのめされた女性達だと思います』
アヤカシから人間社会を守るという理念の犠牲になった者達を、組織は切り捨て隠すだけだった。だから、誰かの手を待つ子は、きっと存在している。そうした子を、依子の二の舞にならないように救ってやりたいと強く思う。
もし方法が間違っているなら、別の手段を取るしかない。どうすれば滅怪士を救えるのか考えなければいけない。
ただ一つ、確実なことがある。この組織の規範や方針では、何も解決しないということだ。
「……ありがとうございます、舞阪式務官」
宗吾はゆっくりと立ち上がる。その表情には生気が戻っていた。
「カウンセリングとは別に、あなたとはゆっくり話をしてみたいところですが……止めておきましょう」
「あら、どうして?」
「俺はきっと、組織を抜けます。そういう人間と親しくしておけば、迷惑になる」
宗吾は軽く頭を下げた。今度こそ呆れや批難が来ると身構えた。
しかしボブはやはり、予想外のことを返す。
「安心なさ~い。あたし、いい男との縁は絶対に離さない主義だから。そんな男と秘密の悪巧みするってのも興奮するわぁ」
ボブは片目をつむってみせる。かなり凶悪なウインクだった。
宗吾は苦笑いしながら、予感めいた考えを抱く。
この式務官とは長い付き合いになりそうだな、と。
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