お見通しな依子さん

 鬼が、そこに立っている。

 落ち窪んだ眼孔に鷲鼻、巨大な顎が無頼漢ぶらいかんな印象を与える。眼孔に収まる赤黒い瞳は俺と依子さんを無感動に捉えていた。

 突然の侵入者に頭が真っ白になる。だというのに本能は最大限の警報を鳴らしていた。根源的な恐怖を刺激され手が震える。

 この鬼は、まずい。今まで相手にしたどのアヤカシよりも強い。

 依子さんも険しい顔でナイフを構え、鬼を睨みつけていた。その額には、炎のせいではない汗が浮かび上がっている。


 鬼は俺たちを見つめながら、無造作に手を振った。何かを放り投げたのか、ごろごろと床を転がる物があった。

 それが停止して――灰色の瞳と目が合い、俺は絶句する。


「相も変わらず無礼な輩ですね、星熊童子」


 首一つになった鈴鹿御前が口を動かした。声は、幻聴じゃない。その状態でまだ喋っている。

 灰色の瞳がぐるりと動き、祭殿の前に立つ鬼――星熊童子を見る。鬼の傍らでは炎に包まれ崩れ行く物体があった。おそらくそれは、鈴鹿御前の肉体だ。


「なに、俺なりの感謝の証だと思えよ、鈴鹿姫。三度も殺され、その度に肉体を変える手間を取らせてくれたことへの礼だ」


 鬼が冷笑する。まるで俺達など眼中にないかのような態度だ。でも俺は癪に障るどころか、むしろこちらを見るなと考えるほどに神経質になっていた。

 今この場で戦えば、依子さん共々一瞬で消し炭にされる。そんな戦慄が身体を駆け巡っている。


「そのような些事に拘るとは、大江山四天王の名も地に落ちたものですね。亡き酒呑童子も呆れていますよ」

「安心しろ。これは俺の道楽だ」

「あら、そうですか。では無駄な余興でしたね」


 鈴鹿御前は軽口を続け、蛇のように笑う。恐慌も悲嘆もない。

 まるで、こうなることを予期していたかのような振る舞いだった。


「既にこの組織は人の手中にある。我を挫いたところで止まりはしない。人が存続する限り、貴方達を追い詰め食らうでしょう」

「だから言ったろう、俺の道楽だとな」


 鬼が侮蔑混じりに鼻を鳴らすと、鈴鹿御前は閉口する。


「貴様の死は分水嶺だ。人間共に肩入れする目障りなアヤカシが消えれば、人間に歩み寄る血迷った輩も現れはしまい」


 そこで星熊童子と呼ばれた鬼が俺達を見る。赤黒い瞳が向けられただけで金縛りにあったように身体が硬くなった。

 だが俺と違い、依子さんはナイフを構えて一歩踏み出していた。俺は咄嗟に彼女の手を握りしめて止める。一人では行かせられない。


「俺は殺しを愉しみたいんだよ、鈴鹿姫。人間共はただ俺を殺しに来れば良い。アヤカシを憎み恨み群れればいい。そうすれば何十年、何百年と飽きることのない戦いが続く。最高の道楽だ」


 星熊童子が口の端を吊り上げ陰惨に笑う。瞳孔は爛々と輝き狂喜を示している。

 俺達という獲物を前に興奮しているからだと思ったが、違った。背後から複数の足音が聞こえてきて、燃えさかる室内に足を踏み入れる者達が現れた。


「鈴鹿御前様! ご無事ですか!」「っ! やはり星熊童子……!」「おい、なんで三十六号がここにいる!?」「半妖も……どうなってるのよ」


 入り口の前には黒装束姿の女達と、狐面を被った法衣姿の人間達が十数人ほど立っていた。おそらくアヤカシ喰いとそれをサポートする人間達だ。彼女らは怒りと困惑をないまぜにした表情で俺たちを睨みつけてる。

 鈴鹿御前の肉体が滅んだことで入り口を塞いでいた結界が崩れ、彼女の危機を察知したのかもしれない。


「ご、御前様っ!?」


 アヤカシ喰いの一人が悲痛な叫びを上げる。その声で全員の視線が生首へと注がれた。彼女らの目が大きく見開かれ、口元がわななく。

 絶望が波及していくのが手に取るようにわかった。誰もが鈴鹿御前の死を直感していた。まだ、鈴鹿御前を人間の長だと信じていたから。

 しかし、まだ意識のあるアヤカシは真摯に告げる。


「お逃げなさい。あなた達では勝てない」

「馬鹿が。そういうのが興ざめなんだよ」


 星熊童子の身体が炎に変化した。入り口めがけて飛翔する。

 何人かは反応できたが、動けなかった数人は炎の塊をまともに食らった。絶叫すらもかき消す熱量で数人が一瞬のうちに燃え尽きる。


「カカッ、鈴鹿姫の仇を討ちたいなら付いてこい」


 言い残した星熊童子は炎のまま屋敷の外へと飛翔していく。

 残されたアヤカシ喰い達は狼狽える。迷子のように呆然としながら、生首だけの鈴鹿御前を凝視している。

「……い、生きておいでなのですか」アヤカシ喰いの一人が恐る恐る聞くと、灰色の瞳が動く。誰かが喉を鳴らした。


「いいえ。アヤカシですから、僅かばかり意識を保っているだけです。程なくしてこの肉は朽ちるでしょう」


 明朗な発言だけが流れていく。衝撃の事実に誰もが凍りつき、反応できなかった。

 そんな彼女らへ鈴鹿御前は微笑む。子孫への慈しみと、憂いを込めながら。


「貴女達は己の成すべきことを優先なさい。一人でも多くの子を助けてあげて」


 穏やかな声音には、決別と叱咤が含まれていた。それがアヤカシ喰い達の信念を揺さぶる。

「……行くぞ」リーダー格らしきアヤカシ喰いが唸るように呟き、歩き出す。


「彼奴等はよろしいので!?」

「今は星熊童子の討伐が先だ! 放置すれば総本山は落ちる!」


 的確な判断に、他の者達は何か言いたげにしつつも追随していった。

 残されたのは俺と依子さん、そして鈴鹿御前のみ。俺はその場に立ち尽くしながら、ついさっき耳朶を振るわせた声を思い返していた。


『さっさと妖狐になっておけ』


 炎が通り過ぎる際、星熊童子の声が俺だけに降りかかった。

 殺し合いを愉しむ鬼は、俺との対決も望んでいる。逃げることはできないらしい。

 それに俺の勘が合っているなら、棗さんの裏で暗躍していたのはあの星熊童子だ。

 あの鬼が俺を騙した張本人。

 僅かながら、恐怖を怒りが塗り替えていく。


「御前様」


 凛とした声で我に返る。依子さんは鈴鹿御前の前で跪いていた。


「――貴女ならこの意味がわかるはず……押し付けて、本当に御免なさい」


 なぜか鈴鹿御前が、謝罪している。依子さんは深刻そうに眉を寄せていた。

 何を言ったのか聞こうとすると、鈴鹿御前が俺を見つめる。その灰色の瞳が涙で濡れていたから、声が詰まってしまう。


「貴方にも、翻弄したことを詫びます。そして、こんな我のために涙を流してくれたこと……感謝します」


 静かに告げた鈴鹿御前の瞳から徐々に光が失せていく。

 彼女は天井を見上げて、安らかに微笑んだ。


「田村麻呂様……義経様……鈴鹿はようやく、おそばに」


 言葉が途切れる。鈴鹿御前の頭部は砂場の山が崩れるようにサラサラと崩壊していく。後に残されたのは白い砂塵だけだった。

 千年を生きたアヤカシは、その生命を密やかに終えた。


「鈴鹿、御――」


 そのとき火に包まれた破片が落下し、鈴鹿御前であった砂塵に降り注ぐ。室内の炎はもはや手がつけられず、黒煙が天井付近に渦巻いている。

「たーくん!」俺は依子さんに手を引かれ、その場を離れた。


 外に出た俺たちは、奥の院が炎上していくのを遠巻きに眺めた。洞窟の中だからか黒煙は頭上に停滞している。早く出なければ酸欠に陥るかもしれない。

 わかってはいても、足が動かない。胸に穴が空いたようだった。今日知り合ったばかりのアヤカシなのに、その死に打ちひしがれる自分がいる。

 ……もっと早く出会って、たくさん喋ってみたかった。

 頬にひんやりとした感触が伝わる。依子さんの手が俺の頬を撫でていた。彼女は何も言わず、黒瞳は炎を受けて淡く揺らいでいた。


「……大丈夫。泣いたりしないから」


 依子さんの頭を撫でる。「そう」長いまつ毛を伏せた依子さんは、崩壊する屋敷を寂しげに一瞥する。しかし振り返った彼女はもう真剣な表情に戻っていた。


「あの鬼は私達の逃亡の障害になる。だから」

「倒すしかない」


 引き継いで言うと依子さんは首肯する。俺たちの決意は一緒だった。


「それにあいつ、たーくんを利用したアヤカシでしょ。だったらその落とし前はつける」


 驚いて振り向くと、依子さんは得意げに微笑していた。


「気づいてたの……?」

「あなたがしてきたことも、何に巻き込まれたのかもお見通しよ。変怪についても」


 ぐいと後ろに引っ張られた。「わっ」襟首を掴んだ依子さんの仕業だと気づいたとき、俺は彼女の腕の中に抱きかかえられていた。

 俺たちはまるで、背中を反らしたパートナーと、それを支えるダンサーみたいな格好になっている。ただし男女が反対だけど。


「御前の言葉で、予想が当たってたのはわかった。変怪の条件は滅怪士の体液、そうだよね」


 背を反らしたまま頷くと、依子さんの黒瞳がぐっと近づいてくる。


「ここに来るまで変怪してきたはず。何を飲んだの」

「え、あ、それは――」


 嫌な予感がした。まさか他の女の血を飲んだことに機嫌を損ねているとか。

 しかし依子さんに不満げな気配ない。彼女は艶かしく唇を舐めると「血だよね?」念を押すように言って、反対の手で俺の顎を押さえた。


「不可抗力だと思うから、特別に怒らないであげる。でも他の女と一緒は嫌」


 唇が塞がれる。彼女の舌が口腔に入り込み、俺の中を優しく愛撫する。

 溶けてしまいそうなほど甘い感触なのに、依子さんは更に入ってくる。俺は彼女の舌と自分の舌を絡め、満たされる何もかもを受け止め、飲み込む。

 ひとしきり堪能した依子さんはそっと唇を離した。


「私で変怪するときはキス限定。たとえ死にかけてても破っちゃダメ。誓いなさい」


 俺は苦笑した。彼女のヤンデレ具合に、ではなく、その言葉にドキドキしている自分自身に対して。


「……誓います」


 程なくして心臓が高鳴り、俺は銀狐へと変怪する。

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