独り占めしたい依子さん

 テレビの電源を消すように映像が途切れ、次の瞬間には微笑を浮かべる鈴鹿御前が見えた。元の景色に戻っている。

 様々な光景が濁流のように流れていたからか、この静けさの方が嘘みたいだった。あまりにもリアルで、自分が今立っている場所も、自分が誰だったのかすらも忘れかけてしまう。

 頭が重たくて軋んでいる。俺は思わず額を押さえる。例えるなら高熱を出して倒れた後の寝起き、という感じだろうか? 数百年分の記憶を早回しで再生されて、脳が悲鳴を上げている。


 でもそれより、自分の感情の方がよっぽど酷い。

 胸の内で暴れ回るのが怒りなのか、悲しみなのか、納得なのか、困惑なのか、絶望なのか、歓喜なのか、まったくわからない。

 どれ一つとして合っていないようで、全部ごった煮にしたような感触もある。

 だから俺は何も言えなかった。目の前に居る女性をどう捉えて良いのかわからなかった。


「……つまりたーくんは、陰陽師の力を持っている。そう仰るのですか」


 依子さんが確認するように問う。その声は若干険しく、震えていた。

 彼女も眉根を寄せ、唇を噛みしめている。脳への負荷が堪えているから……ではないだろう。

 見せられた中身の大半は組織の歴史だ。生まれ育った場所の隠された真実と悲劇には、いつも冷静でいる依子さんでも感情を揺さぶられているようだった。


「ええ。実際に精査したわけではありませんが、ほぼ確実と言ってよいでしょう。彼は、当時最強と謳われた陰陽師――安倍晴明あべのせいめいの破魔の力と同等の力を有している」


 俺は、じっとりと汗の滲む自分の掌を見つめた。

 安倍晴明。歴史に疎い人間でも一度は耳にしたことのある名だ。アヤカシの世界でも同じで、京の都を守護し数多くのアヤカシを討ち倒した戦歴は伝説として残っている。

 そんな人間と同じ力を持っていると言われても、まるで他人事のように思えた。

 依子さんはため息を吐いて長い睫毛を伏せる。しかし、再び鈴鹿御前に向けた瞳に憂いはない。この一瞬で気持ちを切り替えていた。


「では更に問います。あなたが主導して陰陽師を作り上げたのなら、どうして彼を手放したのですか。私が見つけるまで、彼はずっと一人きりだった」

「……その点は順を追って説明しましょう」


 鈴鹿御前の声が少し低くなる。仄暗い情念が僅かに漂った。

 胸の中が、サンドペーパーで擦られたようにざらついた。目の前のアヤカシに対して抱く感情が、ぼんやりと輪郭を持ち始める。


「陰陽師創生のためにまず、阿久良王の因子を再構築することから始めました。妖狐の中に受け継がれている僅かな力をうまく吸い上げたのです」

「ですが、七十五匹の妖狐はとうの昔に死に絶えているはず」

「当然の疑問でしょう。先程は伏せていましたが、実は一匹だけ手の付けられない問題児、いえ問題狐がいましてね。彼女は平安の時代に我らに逆らい出奔しているのです。白面金毛九尾と呼ばれたその妖狐の血族は、僅かながらこの国に残っていました」

「まさか……玉藻の前?」


 依子さんの驚きを含む呟きが頭の隅に引っかかる。どこかで聞いたことのある名だ。

 鈴鹿御前は肯定も否定もせず話を続ける。


「我は元老院にも悟られぬよう極秘裏に事を進めました。賛同者を集め、彼らに九尾の血を引く妖狐を捜索してもらい協力を要請しました。多少手荒な真似はしましたが、最終的には賛同を得た」


 鈴鹿御前が微笑を携える。そのとき、俺の胸中が一層騒いだ。

 彼女の笑みは聞いている者を安心させるためだけに貼り付けた、仮面のような表情だった。手荒な真似とさらりと言ってのけたその声音や顔色にも、罪悪感や私憤といった感情は含まれていない。

 そこにあったはずの心は、とっくの昔に擦り切れている。

 薄らと抱く感情が形となって浮かび上がる。

 それは、共感だった。


「このとき協力してもらった妖狐のうちの一匹こそが貴方の母、桔梗です。我は桔梗を含めた数匹の妖狐の中から阿久良王の因子を抽出し、人間と混ぜ合わせる術式を試みました」


 淡々と話す声に、俺の感情がどんどん掻き乱されていく。

 なんてことはない言葉の裏に凄惨な実態と悲痛が隠されていると、確信できてしまう。


「ですが何度試してもうまくいきません。何度も何度も。それこそ多くの子を犠牲にしても、陰陽師は誕生しなかった」


 彼女の内に潜む虚ろが貌を出す。

 人とアヤカシが共生できる世界を作る、そんな理念に取り憑かれて狂ってしまった女の姿がそこにある。

 だけど俺は、その深淵を理解できる気がした。

 鈴鹿御前を突き動かしているのは、恐怖だ。

 千年もかけた所業が全て無駄だったと認めれば、本当に何も残らなくなる。その真っ暗な絶望は筆舌に尽くしがたい。

 だから鈴鹿御前は、止まることができなくなっていた。


「しかし月日を重ねることで、僅かながら力の顕現を起こす子が出てきました。淡い霞のようなほんの些細な力でしたが、我は成功に至ると確信し……そして、元老院に全てを奪われた」


 黙って聞いているだけの依子さんもピクリと頬を揺らした。細めた双眸には冷たく鋭い光が宿っている。

 鈴鹿御前は、瞳の奥に暗い炎を覗かせる。


「元老院はとうに我の目論見を看破していました。彼らはアヤカシとの融和を望む我を疎んじ、成果物をそのまま奪取する魂胆だったのです。結果的に進めていた計画は元老院の手に渡り、妖狐達は殺されました」

「……内紛めいた事態に陥ったことは、理解できます。腑に落ちないのは、あなたが長の位置に居続けていることです」


 依子さんが疑問、というより邪推したように問う。

 すると鈴鹿御前はふっと頬を緩め、自嘲的な笑みを浮かべる。ここにきてようやく感情めいたものが漏れ出ていた。


「先にも申し上げたように、我はもはやお飾りの身分ですから。力もなく、いつでも処分できる。生かされているのは単に結界を維持する役割と、組織の象徴として都合が良かったからに過ぎません。現に我はここに捨て置かれている。元老院が離脱するための時間稼ぎに利用された、滑稽なアヤカシなのですよ」


 鈴鹿御前に悲しみはなかった。ただ色濃い諦めが沈殿している。

 きっとずっと前から、彼女は強い孤独の中に閉じ込められていた。守るべき人間に邪険に扱われ、同類であるアヤカシに恨まれ、縋る理念は遠ざかるだけで。

 それでも、死ぬことはできなかった。愛するものを諦めることができなかった。

 だから、独りでここにいる。

 じわりと、何かが溢れ出してくる。


「……たーくん?」


 依子さんに呼ばれてハッとする。なぜか視界が滲んでいる。


「あれ……」


 袖で頬を拭うと濡れていた。涙が流れている。

 鈴鹿御前にとっても意外だったようで、彼女は暗い感情を引っ込めてただ目を丸くしていた。

 ごしごしと拭いても後からじわりと沸いてくる。自分で自分が制御できない。

 でも、不快じゃない。


 ――この人と俺は、同じなんだ。

 

 愛すべきものを守ろうとして失敗し、それでも諦めきれず狂っていった姿が、俺にもあり得た未来のように思えた。

 もしかすると俺も、依子さんを取り戻せずに苦しんで足掻いて、諦めきれず狂っていたかもしれない。

 文字通り、鈴鹿御前の慟哭と悲哀が我が事のように実感できる。その共感で心が痛い。頬も痛い。頬?


「い、いたひ! よひこはんいたたたた!」

「なんで他の女に泣き顔見せてるのかなたーくんは」


 なぜ俺は依子さんに頬をつねられているのだろう。

 彼女は笑みを携えているが、目が据わっている。


「あなたの全ては私のものよ。泣いていいのは私に対してだけ。わかった?」

「わかひまひた!」


 パッと指が離される。俺は赤く腫れてヒリヒリした頬を擦る。

 どうやら泣いたことで嫉妬心が生まれたらしい。この場面でそうなるか普通?

 あ、依子さんは普通じゃなかった。

 改めてとんでもない子を愛してしまったものだと痛感する。おかげで先ほどまでの神妙な気持ちが跡形もなく消えてしまっている。


「仲が良いのですね、あなた達は」


 鈴鹿御前がくすりと笑う。そう言われても割と複雑ではある。


「ふふ。あなた方の馴れ初めも是非聞かせていただきたいものです。それは話し終えてからにしましょうね」


 鈴鹿御前も、先ほどまでの険のある雰囲気が薄れていた。毒気を抜かれてしまったというべきか。依子さん半端ない。

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