棗さんからは逃げられない

 しかめ面の棗は腕に貼り付けられた呪符を剥がし、ぐしゃりと握りつぶす。楠木美希から奪ったもので間違いなかった。

 アヤカシ喰いでなければ発動しない、頭ではそう理解しているつもりだった。しかし散々痛めつけられてきた記憶から本能的に腕を引っ込めてしまった。

 雨が降りしきる中、棗は首筋に張り付いた髪を手で払って屋上を進む。手すりから下を覗いても太一の姿はない。とっくに消え去っていた。


「逃げ足だけは早いんだよな、お前……」


 太一は弱い。だからこそ日頃から準備を怠らず、機転も利く。小瓶の中身をすり替えたとき呪符に気づかなかった棗の油断も、取り逃がした要因だった。

 とはいえ所詮は半妖の脚力だ。アヤカシである棗が全速力で追いかければ捕らえるのは容易い。しかし条件が良いともいえない。

 棗はスンと鼻を動かして周囲の匂いを嗅ぐ。雨に流されて、あの半妖独特の匂いが消えかかっていた。足取りを追うには心許ない。

 棗は短く息を吐くと、おもむろに着ていたシャツを脱いで放り投げる。ブラも外して上半身を外気と雨に晒した。


「でも、逃げられると思うなよ」


 妖力が膨れあがる。棗の身体から薄い煙が噴出され、身体を覆う。

 煙が晴れたとき、彼女の上半身は小麦色の体毛で覆われていた。首筋から胸元を通り脇腹まで豊かな毛が生え揃っている。露出しているのは腹部くらいだった。

 頭髪は腰に届くまで長く伸びている。毛量も増加して棗の頬を隠していた。その両頬からは猫の髭のような細長い毛が三本ほど生えている。


 棗は靴を脱ぎ、床に深くしゃがみ込む。屈伸運動の要領で勢いよく足を伸ばす。 

 跳躍した棗の身体は雨空高く上昇した。

 隣のビルの屋上に着地し、間髪入れず飛び上がる。そうしてビルからビルを飛び移っていく。眼下は確認しない。太一を探しているわけではなかった。


 ――あいつ運転とかできたんだっけ? まぁ全部潰しておけばいっか。


 半妖の脚力や持久力には限界がある。それは太一自身もよくわかっているだろう。だから彼が車に乗って逃走を図る、あるいは電車などの交通機関を使う可能性もあった。追跡できないことはないが、人混みに紛れたり偽装されると厄介だ。

 なら、この街に閉じ込めてしまえばいい。


 ビルを飛び移る棗が辿り着いたのは、街で一番高い建造物――電波塔だった。

 無骨な鉄塔を両手両足で駆け上った棗は、作業員が使う足場に立つ。

 地上から離れたおかげで風は強さを増し、横殴りにぶつかってきた。雨は散弾銃の如く肌に当たって弾けていく。

 その自然の猛威を、棗は心地よく感じていた。しばらく雨風の中で遊ぶことがなかったから、解放感に包まれる。

 目を閉じて存分に浸った棗は、胸一杯に息を吸う。

 瞼を上げ、大口を開けた。


「オオオオオ――――!!」


 獣の咆哮と共に棗の身体から雷光の束が放出される。雷電は周囲の空気をイオン化させてプラズマを生み出し拡散する。紫電が鉄塔に触れて火花が散る。甲高い音を立てて設備が破砕していく。

 雷が塔全体を侵食した瞬間――闇が産まれた。

 電波塔周辺の街灯が消える。暗闇が伝播していくように周辺の家屋やビル、信号機やネオンといった全ての人工光が次々に消えていく。

 棗の位置からは、街全域が暗闇に包まれていく様がはっきりと確認できた。


 送電網に過負荷が掛かった影響で一時的な停電が起きている。電車はもちろん信号も止まっているので車移動は不可能だ。後はじっくりと追い詰めればいい。

 が、探し回るのは面倒だなと生来の面倒臭さが顔を覗かせる。こんなときに上空から観察できる奴がいればなと考えていた棗は、近づいてくる羽音に気づいた。


「失敗したのか棗」


 ライダースジャケットを羽織り、背中から翼を生やした禿頭の男が欄干の上に降り立った。

 棗は男――鴉のアヤカシを一瞥して鼻を鳴らす。


「うっさい。見りゃわかるでしょ」

「ならば殺すしかあるまい」


 その一言が、胸の奥にズシンと響いた。

 思っている以上に神経質になっている。気づいた棗は忌々しげに口の端を歪めた。あるいは躊躇っている部分がまだ残っているのかもしれない。

 だが、自覚したところでもう手遅れだ。

 棗は迷いを吹っ切るように軽快に笑う。


「それしかなくなっちまったな。あーあ、しばらく楽しめると思ったのにさ」


 鴉は何も言わなかった。棗が振り返っても、男は腰の後ろで手を組んで彼女を見つめるだけだった。


「んなことより、あんたの方はちゃんとやったんでしょうね。逃がしたアヤカシ喰いは殺した?」


 また返事はなかった。「おい」訝しんだ棗が促すと、鴉はついっと視線を逸らす。


「……すまぬ。逃がした」

「はぁ!? なんでだよ!」

「逃亡用の呪符を使われてな。認識を阻害する効果があったらしい」


 棗が呆れて言葉を失っていると、鴉は腰の後ろに置いていた手を前に出す。彼は何か握っていた。

 それは少女の右腕だった。


「とはいえこの通り戦力は削いでおいた。仲間の元に辿り着く前に失血死するだろう」


 ぶらりと垂れ下がった腕を眺めた棗は片眉を上げる。成果としては不十分だが、鴉を半殺しにするのは止めてやることにした。


「喰うならやるぞ」鴉は腕を放り投げる。「いらねぇよ」ぶっきらぼうに断った棗は三叉の尻尾で腕を弾く。

 アヤカシ喰い――楠木の腕は、地上へと落下していった。


「ったくもう、しょうがないからそっちは後回しでいいわ。今はあいつを探すのが先決。空から見つけて知らせな」

「やれやれ、人使い、いやアヤカシ使いの荒い女だ」


 棗は帯電した尻尾を鴉めがけて振り放つ。が、鴉は既に飛び上がっていたので難を逃れた。

 飛び立っていく腐れ縁のアヤカシを眺めた棗は、苛立たしげに舌打ちして自分も跳躍した。


 △▼△


 街中は混乱の坩堝るつぼと化していた。

 突然の大規模停電であらゆる建物が暗闇に包まれ、慌てた人々が建物の軒先に集っている。信号機も停止したせいで車が立ち往生し、衝突事故が起きていた。

 人々が携帯電話を見つめる中、俺は雨の中をひたすらに走った。停電が起こった瞬間は驚愕したが、その原因が天災でないことはすぐに悟った。


 ――棗さんはきっと、俺をこの街から出さないつもりだ……。


 彼女の力なら広範囲の電子機器に影響を与えるくらいお手の物だろう。狙いはおそらく俺の逃亡阻止だ。

 予想外の方法ではあった。でもまだ絶望的な状況じゃない。移動手段を封じられたといっても、俺のには直接関係ない。

 棗さんは俺が隠れて準備を進めていたことは知らないはずだ。きっと目的地に気づかれる前に辿り着ける。

 そうなれば俺は、棗さんにも負けない。彼女をこの手で――。


『あたしじゃ物足りない? お前の救いになれない? 抱けもしないのか?』


 声が鮮明に蘇って胸を締め付ける。

 どうしてこうなってしまったんだろう。俺をからかったり玩具にする行為は単なる馴れ合いの一種で、特別な感情が潜んでいるとは思わなかった。彼女の軽口を真に受けて、男として見られていたことに気づかなかった。

 この状況に至った経緯はまるで把握できないけれど、原因の一端が俺にあることは間違いない。

 俺が彼女の気持ちに少しでも気づいていれば、こんな展開は回避できたんだろうか?


 ――……無理だ。


 俺は依子さんを諦めることができない。たとえ棗さんの気持ちに気づいても、応えることなんてできない。

 手に入らないと理解した棗さんは同じ行動を取るだろう。遅いか早いかの違いしかなかった。

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