依子さんを守るケモノ 上
凝然とする依子さんを、そっと鉄筋の上に下ろす。それから俺は、指をゆっくりと開閉させてみた。うん、よく動く。はっきり見えているので目も復元しているようだ。
次に頭の上を触る。頭髪の中に異物があった。ピクピクと細かく動く感触が指先から伝わると同時に、くすぐったさも感じている。
ふさふさと毛の生えた耳が、頭部の左右に鎮座していた。人間のものではなく、獣のように大きく尖った耳だ。神経はちゃんと繋がっていてクリアな音を拾っている。
それともう一つ、以前の身体にはなかった異物がある。腰の後ろに生えた尻尾だ。
毛に覆われたそれに意識を向ければ、ゆらゆらと動かすことができた。かなり大きいが邪魔には感じない。むしろ今まで尻尾が付いていなかったのが不思議なほどに馴染んでいた。
「……本当に、たーくんなの?」
隣に立つ依子さんが猜疑心と、そして少しの警戒を混ぜて聞いてくる。
俺は振り向いて小さく頷いてみせた。
「アヤカシの姿になれること……私に、隠していたの」
「違うんだ、依子さん。確かに変怪はできたけど、それは不完全だった。でも依子さんのおかげで成功したんだ」
「私のおかげ?」
依子さんが訝しむ。俺は曖昧に笑ってそれ以上は答えなかった。少し恥ずかしかったからだ。
最初、変怪が成功した要因は死にかけたことによる防衛本能のせいかと考えた。でもそれならもっと前に発動していなければいけない。大切な人を守ろうとする感情の昂ぶり、あるいは気合……なんてフィクションにありがちな精神的なものも、多分違う。
もっと物理的に、変怪を成功に導く何かがあった。それは俺自身のものではなく外部からの影響だ。
直前を思い返せば要因は浮かび上がってくる。
原因はおそらく、依子さんの体液。
それを口から体内に取り込んだ直後に異変は始まっている。こじつけのようではあるけど、それが鍵だという奇妙な納得感もあった。
俺は昔、変怪が成功しないことに苛立ち、自分の努力不足以外にも原因があるんじゃないかと考えたことがある。被害妄想でしかなかったが、自分の中のアヤカシを呼び起こすには、それこそアヤカシと同じことをしなければいけないのではないか、と思案していた。
叔父達と死に別れた後、孤独と焦りに急かされた俺は、アヤカシの姿になるべく色々とアヤカシらしいことを試した。その中で、少量ながら人間の血を飲んだこともある。でもまずいと思うだけで身体に異変は起こらなかった。
何も変わらなかったのも無理はない話だ。発想がまるきり逆だったのだから。
アヤカシの血の覚醒に必要なのは、妖力を含む血肉だった。
変怪を訓練させていた叔父がこの事実を隠していたのでは辻褄が合わない。俺の身体のことは何も知らなかったか、理由があって自分の力だけで達成させようとしたのか……。
真実は闇の中で、憶測するしかない。成功に辿り着けたのはほとんど奇跡みたいなものだ。
けれど、その奇跡は依子さんのおかげで呼び寄せられた。
「また珍しいものに出会ったな。妖狐、それも人間体からの変異か。反魂の術式、あるいはキマイラ神の眷属……いずれにせよ、常と違うものを感じた勘は外れていなかったようだ」
ゆっくりと視線を向ければ、ユーエルが黒鎌を浮遊させながらこちらを見据えていた。驚愕はもう通り過ぎたようだ。
声に反応した依子さんがナイフを構える。ボロボロの姿でも彼女はまだ戦うつもりだった。この場で戦えるのが自分だけと考えているから。
だから俺は、依子さんの前に腕を掲げて彼女を引き止めた。
「……たーくん?」
「あの人の相手は俺がする。依子さんは休んでて」
目を見張ったのは依子さんだけでなくユーエルも同じだった。
「ほう……面白い台詞だ。しかし、野狐が一匹現れたところで何が変わるというのかな」
俺は無言で一歩踏み出す。後ろで依子さんが「たーくん!」と叫ぶ。安心させるために笑いかけてから、そのままユーエルに近づいた。
ユーエルが呆れたように鼻を鳴らす。瞬間、黒鎌の一団が俺へと突撃する。その数は十をゆうに超えている。
宵闇よりも更に黒い刃が前方の空間を埋め尽くした。逃げられるような隙間はない。
俺は、手を掲げる。
激突の瞬間、闇は俺の手前で全て崩壊した。
「……なに?」
ユーエルが初めて戸惑いの声を上げた。夜に溶けていく自身の影と俺を見比べている。
数秒後、男は何も言わず指を弾く。黒鎌が再び俺へと突撃する。今度は四方を埋め尽くし徹底的にすり潰すつもりだった。
俺は両手を広げ、発達した聴覚と視覚でもって着撃するタイミングを割り出し、矛先へと掌を向けていく。空気が歪み、波のようなゆらぎが鎌の刃先から内部へと伝播していく。
鎌は俺に一ミリも触れることができず、まるで霧のように粒子状となって霧散した。
鉄骨を蹴り前方へ跳ねる。俺の接近に気づいたユーエルはすぐに動いたが、遅い。男の懐に飛び込み鳩尾に右の貫手を突き刺す。鈎爪で肉を裂き、更に脇腹方向へ一気に薙ぎ払った。
胴体を半分千切られたユーエルは臓物を飛び散らせながら吹き飛んでいく。遠くから依子さんが息を飲む気配が伝わった。
だが吸血鬼は、空中で態勢を整えると優雅に着地してみせる。身体が半分千切れているにも関わらず真顔で俺を凝視していた。
「……弾いた、のではないな。消失させたように見えた。なんだその力は」
「妖力の遮断。そういうものだと思います」
ユーエルの様子を伺いながら、俺は答えた。男は冷や汗一つかいていない。不死身の吸血鬼にとってこれくらいは怪我のうちに入らないのだろう。
「俺に備わった妖術――あなた達の種族では
ユーエルはしばし俺を睨み付けていた。先ほどよりも剣呑さと真剣味が増している。
「通りで先ほどから復元がうまく進まぬわけだ……それが真実であれば、さて貴様は何者なのであろうな。我が知る限り、妖力を断ち切る権能など聞いたこともない」
問いの答えを、俺は持ち合わせていない。俺だって自分の正体を知らないのだから。ただ妖力の遮断については、実績があったから気づくことができた。
座敷牢の呪符を解いたのがそれだ。おそらく俺の力によって、呪符に込められた妖力が打ち消された。肉体破壊の効果のみを打ち消すという中途半端な結果は、半妖の状態だったからうまくいかなかったと推測できる。だけどこのアヤカシの姿ならば能力は完全に制御できている。
本の中の隠し文章も同じ理屈だ。俺はずっと違うページが挟まっていたと思い込んでいた。でも実はちゃんと、普通の文章が読めるようになっていたのだろう。
組織が作った文章の上にはページ通りの文章がカモフラージュのように貼り付けてあって、限られた対象が触れたときに消える仕組みだったとすれば。俺の能力でカモフラージュの文章が丸ごと消えてしまったわけだ。
この二つの現象がきっかけとなって、俺は自身の能力を把握できた。
「だが、我を殺すには至らぬな」
途端、ユーエルの身体がぐずりと動く。切断されたままだった胴体が、ゆっくりとだが確実に復元していく。
破れたスーツの内側には傷一つない真っ白な胴体が現れていた。
「妖力の循環を遮断されようと、その肉を覆うように復元すれば事足りる。我が不死性の前には無意味」
「なら細切れにするまで」
俺は吸血鬼に向けて疾走する。
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