怒れる依子さん

 俺を見つめる依子さんは呆然としていた。意識が戻ったばかりで、まだ状況が飲み込めていないのかもしれない。けれど悠長に説明している時間はない。

 俺は屈み込んで、仰向けになった依子さんの肩を軽く揺する。


「まだ、敵がいる、から。早く逃げ――」


 喉から熱いものがこみあげて声が詰まった。たまらず吐き出したものは胃液に混じった大量の血だ。依子さんの服を汚してしまったが、片腕だけでは防ぎきれなかった。

 視界がぐにゃりと歪む。失血と酸欠の影響なのか、意識が遠のいた。波に揺られているかのように身体がふらつく。

 胸元に、柔らかく優しい感触が当たった。


「たーくん!?」


 耳元で依子さんの声が聞こえる。血の匂いに甘い体臭が混ざる。どうやら彼女に抱き留められたらしい。動くのにも問題なさそうだ。

 安堵して、俺は依子さんに語り続けた。


「依子、さん……逃げて」

「私よりもたーくんの方でしょ!」

「俺、なら……大丈夫。半、妖……だからさ」


 笑ってみせようとしたが、頬の筋肉がうまく動かず、引き攣ったように口角が上がるだけだった。

 依子さんが俺の服をぎゅっと握りしめる。きっと強がりだと気づいている。

 俺自身も、自分の死が間近に迫っていることはわかっていた。アヤカシの血によって延命しているだけで、人間ならとっくに死んでいる大怪我だ。

 それでも依子さんが起きるまで時間稼ぎできたのだから、半妖という中途半端な身体も少しは役に立った。


「真摯に耳を傾けることだな、祓魔師の娘よ。我を相手に十分もの間、命を保ち続けたのだ。賞賛に値する」


 後方から男の声が響く。依子さんが弾かれたように顔を上げた。俺も、依子さんに抱きしめられた形でのろのろと振り返る。

 片目のみで視界が悪いが、鉄骨の上に立つ白スーツの男がシニカルな笑みを向けているのはわかった。吸血鬼ユーエルは出会った頃とまったく変わらない姿をしている。俺の力量では傷どころか染み一つつけることはできなかった。


「その男は直に死ぬ。であれば、貴様の盾となり続けた功労に報いてやるのがせめてもの手向けではないか? 無駄死という滑稽な顛末で我を笑わせるつもりなら止めはしないが」

「お前が、たーくんを……」


 依子さんの瞳の奥に苛烈な意思が宿った。彼女は俺を資材置き場に置くと、立ち上がって太もものホルスターからナイフを抜く。

 戦う気だ。慌てて立ち上がろうとしたが、身体がふらついてうまくいかない。


「殺す」


 引き留める間もなく依子さんが突貫した。鉄骨を飛び跳ねて吸血鬼の元へと肉薄する。

 ユーエルが肩を竦めると、男の周囲で揺蕩っていた四本の黒鎌が彼女へと奔った。

 依子さんは上下左右から襲い来る鎌をナイフでもって弾きつつ鉄骨の上に着地し、再度跳躍する。直後、彼女の立っていた場所は鎌に切り裂かれて崩壊した。鉄骨がバターみたく細切れになって落下し、眼下の傀儡達へ降り注ぐ。

 上空から再度ユーエルに接近する依子さんだが、引き返した漆黒の凶器に進路を阻まれる。斬りかかっては押し戻されてを繰り返す内に、彼女の肢体には細かな裂傷が刻まれ始める。どちらが優勢かは歴然としていた。


 俺は這いつくばる格好から、片腕だけで何とか身体を起こす。力むとそれだけ目眩がした。でも痛みはほとんどない。むしろ物凄い眠気に襲われている。

 多分、ここで目を閉じれば意識は二度と戻らない。だから奥歯を噛みしめて依子さんの姿を必死に追い続ける。

 依子さんは凄まじい勢いでナイフを振るっていた。把握できないほどの無数の刃の軌跡は、その一つ一つが必殺の威力を持っている。

 だというのに黒鎌はいとも容易く受け止め、捌き切っていた。ユーエルに至ってはその場を一歩も動かず彼女を観察するばかりだ。

 いくら依子さんが強いといっても、数百年を生きる正真正銘の化け物とは実力がかけ離れている。

 それでも彼女は折れない。何度攻撃を止められ傷つけられようとも、憎悪の念を刃に込めてアヤカシへと立ち向かう。


「依子、さん……!」


 叫んでみたが喉が掠れてうまく声が出せない。戦闘の擦過音にかき消される。今の俺では依子さんを振り向かせることすらできない。

 自分と、そして彼女への苛立ちで焦りが生じた。


 ――なんで、逃げないんだ……!


 ユーエルの言葉を借りるのは癪だが、逃げてくれないと今までの抵抗が無駄に終わる。依子さんさえ生きていてくれれば、俺はそれでいいのに。

 アヤカシ喰いとしての矜持が、使命感が彼女を突き動かすのか? それにしたってダメージの蓄積した身体では勝ち目なんてない。いつも理解不能な行動を取る依子さんだけど、冷静な判断力は持っていたはずだ。普段どおりの彼女なら、粘るより撤退を選ぶ。

 ではなぜ戦い続けるのか。


 ――……もしかして、俺のため?


 その考えが過ぎった途端、胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。

 それこそ意味なんてない。俺はもうすぐ死ぬ。情が移ったところで自分の命を賭けるような男じゃない。俺のことなんて見捨てていいんだ、依子さん。


 死闘を繰り広げる二人のうち、一方は明らかに動きが鈍り始めていた。

 依子さんは常にはない脂汗を浮かべながらナイフを振るう。速度の低下をユーエルが見逃すはずもなく、黒鎌は矢の如く彼女へと突き進んだ。

 依子さんは三つ目までは防ぎきったが、腕を振り切った状態で四つ目の攻撃が襲いかかる。腹部を狙った一撃に、彼女は即座に右足を叩きつけた。黒鎌の先端は靴底に突き刺さり彼女の足の甲までを穿つ。

 しかし、勢いはそこで止まった。


 依子さんは空中でナイフを振るい、強制停止させられた黒鎌を切断する。妖力を絶たれたせいか影が霧散した。拘束が解けて依子さんは自由落下する。身動ぎして、近場の鉄骨を掴もうと手を伸ばす。

 そこへ三つの黒鎌が襲撃した。舌打ちした依子さんはナイフを使って防御する。が、勢いまでは止められない。

 後方へ吹き飛ばされた小さな身体が、鉄骨にぶち当たって大きく跳ね上がった。


「っ……!」


 錐揉みする依子さんがこちらへ飛んでくる。態勢を変える様子はない。

 俺は動かない身体に鞭打って立ち上がり、落下地点へと駆けた。

 床に衝突する寸前、彼女を抱き止める。

 衝撃が忘れかけていた痛みを呼び起こし脚が崩れた。派手な音を撒き散らし左腕の切断面も容赦なく叩きつけながら激しく転がる。

 幸いなことに床面がある部分で勢いは止まった。軋む身体を起こすと、胸の中に依子さんがいた。彼女は軽くむせ込んでいたが意識ははっきりしている。

 しかし俺と目が合うと、急に人相を変えて吠えた。


「何してるの!? 無茶してると死ぬよ!」

「依子さん、だって……何で、逃げない……!」

「その言葉はたーくんに返す。どうせ逃げる体力ないだろうけど」


 ぶっきらぼうに言い返した依子さんは、俺に預けていた体を起こすと背後へ振り返った。鉄骨の上を歩く靴音が徐々に近づいてきている。月光を受ける白い吸血鬼を睨みつけながら、依子さんはナイフを強く握りしめた。


「だから待ってて。あいつを仕留めたら治療もできる」

「っ……! 俺のことなんて、どうでもいい!」


 右手で依子さんの手首を掴む。けれど彼女は振り返ろうともしない。


「逃げて……! 依子さん!」

「やだ」


 断言する声が耳朶を打った。


「あいつはたーくんを傷つけた。だから殺す。それが彼女の役目よ」

「今更、そんなこと……!」

「あなただって、そうなんでしょ。私を殺されたくなかった。だから命を賭けて、ボロボロになっても守ろうとした。私たちの気持ちは同じ。相思相愛なの。だから……たーくんを置いてくなんて、しない」


 なんで。

 なんで君は、この場面でそんなことを言うんだよ。

 胸の奥から言葉にならない感情が溢れ出た。片目だけの視界がぼやける。

 同時に、心底から憎んだ。自分の力のなさを。現実を変えられない弱さを。

 俺だって依子さんと生き残りたい。でもそれはもう、不可能だから。

 できることは、一つだけ。


「……なら、俺を喰って」

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