図星をつかれた依子さん

「初めて……? こういうこと、が?」


 全ての動きを止めて、俺は依子さんにそう聞いた。

 頬を赤らめ緊張に身体を強ばらせた依子さんはコクリと頷く。


「そう、だけど……それがどうしたの?」


 若干不審げにしながらも依子さんは素直に認めた。

 俺はすぐさま身体を起こす。もちろん肌に触れかかっていた手も引っ込めた。

 初体験。その事実は、警鐘のように俺の頭の中でぐわんぐわんと響いた。


 ――あんなに大胆なのに一度も経験がない? 裸で俺を抱きしめたり寝袋に入ったりしたのに?


 困惑が波濤のように押し寄せる。けれどその狭間で過去を振り返ると、随所でその傾向があったことに気づかされた。

 経験豊富であれば性技の本に頼る必要はないし、男が喜び興奮する仕草や行動も熟知しているはずだ。間違っても頭巾を巻いてナイフを括り付けたりしない。

 手探りのような言動からしても、彼女にはその経験がないことが伺える。依子さんのキャラクターと大胆さに惑わされて、すっかり誤解していた。


 冷や水を浴びせられたかのように、急激に理性が戻る。そのおかげで俺は、自分の現状をしっかりと認識することができた。

 目の前には、着崩れして鎖骨やへそが露出した少女が倒れている。髪は乱れ、頬は朱に染まり、潤んだ瞳は俺にピタリと焦点を合わせている。


「どうしたの?」


 きょとんとする彼女の言葉には、始めないの? という確認も含まれていた。

 物凄く、死にたくなった。

 俺は震える両手で、そっと自分の顔面を覆う。


「ごめん」

「え?」

「今のなし。なしで」


 一瞬の空白があった。まるで時が止まってしまったかのような沈黙の後。


「ふええええええええええええ!?」


 依子さんが素っ頓狂な声を上げる。


「どうして!? なんでそこで止まるの!?」

「……ごめん」

「ごめんじゃなくてっ!」


 意味がわからないと依子さんは騒ぎ立てるが、俺は顔を隠したまま膝を畳んで廊下に横向きで転がった。

 本当は叫び声を上げながらそこら中を七転八倒したかったが依子さんがいる手前こうするのが精一杯だ。しかし直近の記憶がなくなるはずもなく、初心な子をひんむいて言葉にはできないことをしようとした自分の言動がフラッシュバックする。その度に心の中で「あんぎゃあああああっ」と絶叫した。


「なんなの一体!? ちゃんと説明して!」


 依子さんが俺を揺さぶってくるが全力で顔は隠す。なんなら変怪して抵抗してやる。


「私が初めてだったのがいけないの?」


 声に若干の不安が滲んだ。俺は指の端からちらりと彼女を盗み見る。さしもの依子さんも戸惑いを隠せていない。一応彼女の沽券に関わるので誤解は解いておかなければ。


「いえ、いけないというわけではなくて。なんていうか、ごめんとしか」

「なんなのよもう!!」


 依子さんが強引に俺の手を引き剥がした。彼女の両手が俺の頬を思いっきりつねる。


「ひででででで!」

「答えなさいたーくん!」

「よひこはんひぎれまふ!」

「喋らない口なんていらないでしょ!」


 更に引っ張り強さが増加する。まずい、このままだと両頬が消失する。


「いふ! いふから!」


 観念した俺が叫ぶと依子さんがぱっと手を離した。俺は即座に自分の頬を確認する。良かったまだある。

 頬を擦っていると、依子さんは廊下に正座してジト目を向けてきた。凄まじい圧力が放出されている。命の危険を察知した俺は、彼女の前で座り直して深呼吸した。


「……さっきはその、ストレスが限界を迎えたというか、頭がぐちゃぐちゃになって我を忘れたというか。それで、歯止めが効かなくなりまして」

「別にいいじゃない。そのまま私を抱けばいいでしょ」

「でも、依子さんが初めてと知って、びっくりした瞬間に元に戻りまして」

「なんでそこでびっくりするの」


 依子さんが頬を膨らます。本気で理解できていないようだ。そういえば依子さんはこういう子だった。


「今までの依子さんとのギャップが凄かった、って言ったほうがいいかな……平気なんだろうと思ってたけど、実は違ったのが意外すぎて」

「私から誘ってるんだから平気に決まってる」

「震えてた、けど」


 小声で指摘すると、依子さんの柳眉がピクリと動く。


「一般的な人間の女性は、神経質になるものだって聞くから。依子さんも同じなのかなって、思った」

「それは……」


 依子さんの視線がせわしなく宙を泳ぐ。図星のようだ。


「さすがに、不安そうな女の子に強引なことは……したくない」


 つい先ほどまで痴態を繰り広げようとしていた男が何を格好つけているんだ、と自己嫌悪にも陥ったが、後で大いに反省することにして今は頭の片隅に追いやる。

 正座していた依子さんはうつむいた。その唇が微かに言葉を紡ぐ。


「……じゃない」

「え?」

「不安なんかじゃない!!」


 依子さんは歯を剥き声を荒げた。そして俺の右手を鷲掴みにするとそのまま床に叩きつける。掌を廊下に押しつけた状態でその隣にナイフを突き刺し、刃面を小指に向けてゆっくりと下ろしていく。


「いいから勃たせて。じゃないと指を切るから」

「ちょっ!?」

「私はなにも問題ない。たーくんとせっくすしたい。気持ちとかどうでもいいの!」


 俺は必死に右手を引っ張ったが、依子さんも全力を出していてビクともしない。鋭利な刃が俺の指を断ち切ろうと迫ってくる。ていうかこんな状態で興奮できるか!

 効果なんて微塵もないのはわかりきっているのに、依子さんは止めようとしない。なぜかムキになっている。

 そこでふと、さっきの台詞が過ぎった。気持ちとかどうでもいい、というけれど、気持ちがあるから行為に及ぶわけで、順序が逆になっている。しなければいけない理由が他にあるとしか思えない。

 つまり依子さんは抵抗感があるのを隠して、あるいは薄っすら自覚しながらも何らかの理由から大胆な行動に出ていた。それを俺が指摘したように聞こえて、慌てている?


 右手に鋭い痛みが走った。既に刃先が小指に到達して皮膚の表面を切り、血が垂れている。まずい、早く説得しないと。


「依子さん、なんで? ……前は待つって、言ってくれたのに」


 依子さんの肩が震え手が止まる。ナイフは肉まで入り込んでいた。小指から血が溢れ激痛で脂汗が出る。それでも俺は平静を装うために笑顔を浮かべて、話し続けた。


「どうして、かな」

「……たーくんから私を抱こうとしたんじゃない。ここまで焚き付けたんだからもういいでしょ」

「あ、あれは我を見失っていたからで――」


 ナイフが押し込まれブシュっと耳障りな音が出る。激痛の最中で俺は必死に訴えた。


「待って、話を聞いて依子さん」

「やだ」

「待ってって!」


 ナイフが骨に食い込んだところで彼女の腕を掴む。神経をぶち切られる痛みで意識が飛びそうだった。奥歯を噛み締めて耐えたものの、痛みにつられて思考が散漫になる。

 気がつけば口が勝手に動いていた。


「……嬉しかったんだよ、俺」

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