依子さんの非常食事情
「……わからない」
陶酔じみた感覚のまま答える。依子さんは微かに眉をひそめた。
「自分でもはっきりしてるわけじゃなくて……俺は確かに、君に食い殺されるのが嫌で必死に逃げた。でもこれから先のことを考えると、依子さんの辛そうな姿を思うと……気付いたら、来た道を引き返してた」
「それは、私に食べられるために戻ったということ?」
「そうじゃなくてですね……喰われるのはやっぱり、ちょっと御免、というか」
「じゃあどういうことなの」
依子さんの語気が荒くなる。はっきり告げるのが恥ずかしくて黙り込んだが、彼女は無言で俺の首筋にナイフを押し当ててきた。
「心配だったから……放っておけなかった」
仕方なく答えた。途端に頬が熱くなる。恥ずかしさのあまり俺は腕で口を覆った。
対する依子さんの反応は鈍い。
「よく、わからない」
言葉通りの困惑が、眉をひそめた彼女の顔にも現れている。
「食べられるのは嫌だけど、心配だから戻ってきた? 矛盾してる。それは食べられに来るのと同じじゃない」
「……だよね」
俺はまた愛想笑いを浮かべていた。正直なところ、自分でも馬鹿なことをしていると思ってる。でも理屈ではなく感情が、嫌な予感が俺を突き動かした。
そのときの俺は自分の身よりも、依子さんのことばかり考えていた。
何も行き当たりばったりで動いたわけじゃない。精神はともかく身体に異常がないなら、依子さんは必ず俺を追いかけて家を出る。散策中ならむしろ住処に行くほうが安全だった。
以前の依子さんから変質していても、無事ならそれでいい。留守を確認したらすぐに身を隠すつもりでいた。
しかし嫌な予感は的中して、依子さんは室内で倒れていた。だから俺は彼女を助けた。
介抱するだけして起きない内に退散しようという目論見は、水の泡と消えてしまったけれど。
「……どうしても、私のことが心配だったの」
「まぁ、うん」
再確認されると照れも増す。面と向かうのが恥ずかしくて顔を逸らそうとしたが、そもそもナイフを押し付けられていて首を回せない。
だから彼女の顔色の変化をまざまざと確認できた。
「……私のことが、好きだから?」
予期せぬものを見た。依子さんの頬が紅葉の如く真っ赤になっている。高揚を表すように目は見開かれ、瞳は潤んでいた。
見間違えでなければ、照れている?
「たーくん、私が襲ってびっくりした? 怖かったよね?」
「……はい」
「でも私のために戻ってきてくれたんだよね?」
なぜそう何回も聞くのだろうか。そろそろ恥ずかしさの許容値も超えそうだ。
しかし俺が頷いた次の瞬間。
「ごめんねぇたーくん!」
依子さんがいきなり俺の顔面に抱きついた。
息苦しさと柔らかさの狭間で俺は混乱する。なぜか謝られている。
「ごめん、ごめんなさい……本当はもっと違うときに食べるつもりだったんだけど、今は薬が切れてて衝動が制御できなかったの。怖かったよね、ごめんね」
結局食べられるようなので慰めの意味がなくなってます依子さん。
とりあえず話を合わせるために「薬?」と問い返す。
「うん。私たち滅怪士は体内に妖力変換機能を担う臓器を持ってる。
その名称は確か、留守電の中に入っていた。
「アヤカシと身体構造の違う人間にとって妖気は毒にも等しいの。魔臓宮はそれを身体に順化させて、肉体改造とかエネルギー源に利用するために作られた。けどその臓器は本来、人間の身体に存在しなかった異物だから。滅怪士がある程度成長して妖力摂取を始めると、魔臓宮は純粋な人間の細胞を浸食し始める」
それも留守電の話で言及していた。つまり定期接種というのは……。
「生体浸食を抑えるには専用の薬が必要になる。滅怪士は定期的にその薬剤投与を義務づけられてるんだけど……ここ最近の私は、それを怠ってた」
今でこそ理解が追いついたが、先日の俺はまったく推測できなかった。自分の洞察力のなさに虚しくなる。
しかし身体に異変が起こる事態を、依子さんはなぜ今まで放置したのだろう。俺のことを報告しなかったこととも繋がっているんだろうか。
疑問符を浮かべる俺の頭部を依子さんが優しく抱きしめ、髪を撫で始める。
「それで生体浸食が強くなって、理性が吹き飛ぶくらい食欲に支配されて。たーくんを見たら……食べたくなっちゃった」
軽めの告白でも声には反省の色が滲んでいる。胸に抱かれているので見えないけれど、依子さんは暗い表情を浮かべているのかもしれない。
そして、本意ではないことに安堵している自分がいた。
「あの、依子さん。生体浸食が始まると食欲が増すってところが、よくわからないんだけど」
「んー、これは私たちにも説明しきれなくて。魔臓宮はアヤカシの肉の模造品だから、生体侵食が進むことで人体に歪な影響を与えるみたい。それが極度の飢餓感を生む。なってみないとわからない感覚だね」
まるで力を得るための代償だ。
肉体を侵され精神を蝕まれても、人間たちは戦う術を欲する。数なら圧倒的多数なのに、なぜそこまでアヤカシと戦おうとするのか、俺には理解できない。
「……今も薬を飲んでないけど、平気なの?」
「これはね、たーくんのおかげよ。一時的だけど妖力を摂取したことで飢餓感も薄れたし、魔臓宮も妖力変換のために動いてるから生体浸食が停止してる。これ、あなたはわかってやったの?」
「いや、何となくで……」
ものは試しにやってみるものだ。墓穴を掘ったという事実は忘れたい。
「私のことが好きだから、わかったんだよ」
嬉しげに囁いた依子さんがすっと上半身を起こす。両腕の間に俺を挟みながら艶めかしい視線を送ってくる。大事な宝物を箱に入れて眺め楽しむ少女の顔だった。
そのとき唐突に理解できた気がした。
「非常食っていうのは、魔臓宮の浸食を抑えるため?」
「え、理由なんて知りたいの?」
当たり前だぁ!
叫びたい衝動に駆られたけどぐっと堪えた。でも不十分で頬がひくついてしまう。
依子さんは「しょうがないにゃー」と若干面倒そうにしながらも語り始める。
「何らかの障害で定期接種ができなくなったとき、私は正常な判断能力を失ってしまう。そこで強敵と遭遇する最悪のパターンだってあるかもしれない。だからたーくんの血肉を使って調整しようと思って」
「それなら最初に――」
「それに、全部必要になるときもある」
俺の声を遮った依子さんがぺろりと舌なめずりした。
「私たちは妖力を摂取すればするほど強くなる。半妖とはいえあなたの血肉は私を強くさせる。いずれ訪れる上位種や長命種との戦いで足りない分を補うために、たーくんの命を使うの。何を犠牲にしてもアヤカシを屠る、それが私の使命だから」
何を言おうとしたか忘れてしまうほどに、依子さんの声と眼力に圧倒された。
彼女の瞳の奥には、壮絶な覚悟と悲壮が垣間見える。
恐怖を感じるよりもまず、見惚れてしまった。
同時に俺は、一つの矛盾に気付いた。血を飲むだけで生体侵食を抑えられるなら、依子さんは俺にそう説明すればよかったんだ。いくら飢餓状態にあるとはいえ、俺を喰ってしまえばここぞという場面での役割が失われる。
途中で動きを止めたのは理性が勝ったからだと思うけど、妙な胸騒ぎがあった。
まだ彼女には、俺に伝えていない本心があるんじゃないか?
疑心暗鬼に陥っていると、腕立て伏せ状態の依子さんが首を傾げた。垂れた黒髪が揺れて俺の頬をくすぐる。
「そういえばたーくん、さっき言ってたのが引っかかってるんだけど」
「ん?」
「私に食べられるのって嫌なの?」
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