墓医者

蟹井克巳




 『明日も僕は眠れなかった』


 ふと頭に浮かんだのはそんな言葉だった。


 いくら僕がまだ中学生だからとはいえ、これが文章としておかしいということはわかっている。明日という未来の出来事に過去形を使っているわけだから。しかしそれは絶対的に決定された未来なのだから間違いでもないような気がする。起こることがわかっている未来など、なんら過去と変わらないのだから。


 昨日も、今日も、つまり今現在も眠ることが出来ないのだから明日だってきっと同じなのだ。時折襲ってくる不眠の時期からはどうやっても逃れられない。それにどっちにしろ僕は未来なんて無い人間だ。目の前に現れる「現在」をよじ登るのが精一杯で先の心配などする余裕は無い。


 僕は上半身を起こすと大きな溜息を吐いた。ゆっくりと音が立たないように気をつけながらベッドから降りる。着ていたパジャマを脱ぎジャージに着替え、勉強机の下に隠しているスニーカーを取り出しそれを片手に窓をゆっくり開けた。


 まず机の上に腰掛けて靴を履いた。そこから窓枠に足を掛け静かに外に飛び出した。ここが二階なら命のないところだが、幸いにも僕の家は今時近所でも珍しい平屋だった。おかげで大した衝撃もなく地面に着地出来た。無事、窓を閉めれば完了だ。実にスムーズに脱出は成功した。もう慣れたものだ。こうやって夜中に家を抜け出すのが何度目のことなのか、自分でもわからないほどになっていた。


 夜中に当てもなく歩く。


 僕がこんなことを始めたのはいつからだったろう? 今となってはよく覚えていない。毎日出掛けることもあれば数カ月止めていた時期もあったから結構昔からやっているのだろう。


 自分でもなぜこんな衝動に駆られるのかはわからない。何か切っ掛けがあってやり出したことだったのかもしれないし、眠れない時に気まぐれにやったことが習慣化しただけのことかもしれない。なぜかはっきりとした始まりを覚えていない、そのことが僕に言い様のない不安を与えていた。


 ひょっとしたら精神科のカウンセリングでも受けてみれば何かわかるのかもしれないが、彼らは恐らくこれを「あれ」と結びつけて解決しようと考えるに違いない。それだけは絶対に嫌だった。


『いじめを受けているのですか? なるほど、そのことがあなたの不眠や奇行の原因ですね』


 したり顔で医者はそう言うだろう。だがおそらく「言う」以上のことを彼らが出来るとは思えない。原因を取り除けない単なる分析なら僕には必要ない。幸いにも今は夏休みだ。それなら倒れるまでこうして夜歩きを続けた方がまだましというものだった。


 家を出て五分ほど歩くといつもの県道に出た。昼間は車で賑やかなため必然的に事故も多い道なのだが、今の時間通るものは全くいなかった。


 立ち止まり考える。


 左に行けば山、右に行けば川、川の向こうにようやく街灯りが見える、僕の住んでいるところはそんな田舎だった。今日行くべきところはどこだろうか? 街の方を見るときらきらと宝石のような光が手招きして誘っているような気分になる。僕の足は右に踏み出しかけた。しかしふと後ろから誰かに呼ばれたような気がして、ふと山の方を見るとその上には大きな満月が出ていた。街の灯と比べて控えめな月光は何も語りはしない。逆にそれに惹かれた僕は思い直して左へと歩き始めた。


 このように僕の夜歩きには明確なルールなど存在しなかった。時間もルートも決まっていない。気まぐれだ。唯一守っているのは家族を起こさないように気をつけて家を出る、そのくらいのことだった。後はその日の気分に合わせ足の向くままに歩く。ここが都会なら職務質問やら補導など面倒事ばかりだったろうが周りに田んぼが広がっているようなこの田舎ではいつも誰に会うこともなくのんびり夜道を闊歩できた。


 歩いている途中にふと気づくと少し息が上がっていた。山の方に向かうということは若干上り坂ということだ。目に見えるほどの傾斜ではないが着実に僕の体力は奪われていた。静まり返った闇に自分の息遣いだけが纏わり付く。あんなに夕方うるさかった蛙たちでさえ眠りについているようだ。この世界で自分だけが起きているような感覚に襲われる。もちろんそんなわけはないのだが。


 それから田んぼを見ながらだいぶ歩いた。どのくらい経ったか気になり時計を見てみたが思ったよりまだ早い時間だった。いつもなら引き返す位の場所だが、今日はもう少し山の近くまで行ってみたいという気になった。夏という季節のせいもあったのだろう。僕が急に思い付いた目的の場所、そこには霊園があった。


 山沿いの霊園。大昔には寺自体も近くにあったらしい。しかし戦国時代に僕が住んでいる土地の辺りでひどい戦いがあって多くの人間が無残な死を遂げ野ざらしになり、その後、飢饉や災害など祟りとも思える不幸が続いたため寺はその祟りを封じるという目的で山の近くから現在の住宅地のど真ん中という場所に移築されたのだという。寺と一緒に里の方へ付いて行った墓も多いそうだが、頑なに、この昔ながらの山の地に残った墓も少なくない。もちろんそれは物を語らぬ墓自身というより生きている子孫たちの考えではあったわけだが。


 いつだったか死んだ祖父が話してくれた霊園の歴史話を思い出しながら歩いているとその場所が見えてきた。山をぐるりと取り囲んでいるアスファルトの道路、そのガードレールが途切れた場所から山頂方向に伸びている細い砂利道。そこを登った先に見える斜面に切り込みを入れたような不自然な平地。そこが霊園だった。


 昔はちゃんとした道さえ無く山の中に墓が点々としていたらしい。砂利とはいえ道があるだけマシというものだ。僕はゆっくり足元に気をつけながらそこへ向かって登り始めた。周りの木が月明かりさえ遮りとても暗い。振り返ってみても少し離れた場所の電信柱に付けられた街灯の灯りが幽かに目に入るだけだった。それでも何度も来ている場所だ。転ぶこともなく上まで辿り着いた。


 ところが登り切ってすぐ僕の動きは止まった。自然と口が開いていた。ひょっとしたら自分でも気づかないまま何か声を出していたかも知れない。僕は一瞬にして驚きと恐怖で思考が出来ない状態に追い込まれていた。


 道から少し奥に入った仁藤家、つまり僕の家の墓の前に人影が見えたのだ。


 そこにいた少し猫背な背中が恨めしそうに見えたのは恐怖に駆られた僕の思い過ごしだろうか? あまりに驚いたせいか僕は金縛りのように動けなくなっていた。するとその人影は何の前触れもなしにくるりとこちらを振り返った。木々の間から漏れた月明かりがその顔を照らし出した。


 ……あれ?


 恐る恐る顔を見るとそれは髭面のどこにでも居そうな普通のおじさんだった。透けてもいない。どうやら生きた人間のようだ。少しだけほっとしていると彼は訝しそうに僕へ話し掛けてきた。


「こんな夜中に、こんな所へ君は何をしに来たんだ?」


 それはこっちのセリフだ。不審者にそんな事を言われる筋合いはない、と一瞬思ったが、彼の立場から見ると僕も充分不審者に違いない。


「えっと、あ、あの、そこ、うちの墓なんですけど……」


 質問の答えになっていないことはわかっていたが咄嗟のことでそんなことしか言えなかった。それでも会話が出来たことで先程よりは少し落ち着いて彼を観察出来るようになった。なぜか彼はうちの墓の上に右手を置いていた。それはまるで子どもの頭でも撫でているかのようだった。


「仁藤、なお……、と……、なるほど、直人君か」


 僕は最初の時以上に驚いた。今度は間違いなく「えっ!」という声がはっきりと口から出ていた。


「あれ、えーと、どこかでお会いしたことがありますか? どうして僕の名前を?」


 間違いなく初めて見る顔の男だったが念のために僕はそう聞いた。ひょっとしたら親戚なのかもしれない。


「……聞いたのさ、墓に」


 はあ? 墓に聞いた?


 全く意味がわからなかった。一瞬聞き間違えかと思った。しかし男は子供を愛でる父親のような眼差しで墓を撫でていた。まずい。こいつは幽霊なんかよりずっとやばい奴なのかもしれない。僕の頭の中の警告音が少しずつ音量を上げ始めていた。


「あ、あの、僕、これで失礼します。えーと、眠くなくて、ちょっと家を抜け出してきちゃっただけだから」


 言ってから「しまった!」と思った。


「……じゃあ親御さんは君が出てきたことを知らないのか? 心配するよ?」


 一番知られてはいけないことが男にばれた。誘拐されるかもしれない。最悪の状況だった。


「い、いや、親には、そう、自由研究で夏休み中に夜の墓に行くって言ってあるんです。だから大丈夫、遅くならなければ大丈夫です」


 自分でも無理があると思う妙な言い訳をしながらゆっくり後退りを始めた僕に男は続けてこう言った。


「……心配しているようだよ。君がいじめられていることを」


 思わず足が止まった。なぜそれを知っているのか。依然として頭の中では警告音が鳴り続けていたが、なぜか僕の口は勝手に動いた。


「誰が、ですか?」


「お祖父さんだよ、君の」


 ぞくっと寒気がした。夏の夜の空気は生暖かいというのに。


「……あなたは何者なんですか? どうしてそんなことを知っているんだ?」


「私は『ハカイシャ』だ」


 男は確かにそう言った。


 ハカイ、シャ? 


 僕の脳裏に「破壊者」という漢字がすぐに頭に浮かんだ。それを見透かしたように男はふっと笑った。


「何も壊しはしないよ。逆に私は救うのだ、墓を」


 男はぽんぽんと我が家の墓を叩いた。


「はか、いしゃ、だ。墓の医者。私は墓の治療をしている」


「治療? 医者って……、ああ、お墓を造る人ですか?」


「君が想像しているのは石材屋だろう? 彼らが直すのは墓石そのものだ。私が治しているのは物体としての墓ではない。存在としての『墓』だ」


 やはり意味がわからなかった。


「君が『墓』と呼んでいるのは石だ。石という物質は墓の表面でしかない。私が『墓』と認識しているは石ではなく遺志、まあ、意思とも言えるし、意志であるとも言えるものだ」


「え、えーと……」


 僕は混乱してきていた。やはりこの人は本格的に危ない人なのか。僕の顔は引き攣った笑顔を浮かべていたことだろう。彼はそんな僕を見て再びふっと笑った。


「理解出来ないのも無理はない。私がそれを初めて目撃した時も『いったいこれは何なんだ?』と混乱したものだ。師匠の治療の様子を別の墓石に隠れて震えながら見た記憶があるよ」


 そう言った彼の表情がふと緩んだ。男は子供に戻ったかのような笑顔を浮かべていた。嬉しそうな、それでいて悲しそうな彼の笑顔を見て僕の恐怖心は少しだけ消えた。









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