#6
受付で部屋の鍵を預けて、立夢は旅館の外に出る。
周囲は月明かりがあるとはいえ、かなり暗い。旅館からこぼれる光がなければ、この辺りを見渡すことにも難儀しそうだった。
立夢は旅館の壁に沿うようにして、反時計回りに歩く。一応、送迎バスを降りたときに横手の道の位置は確認済みだったため、旅館裏までは特に何の問題もなく行くことができた。
部屋で見ていたときより月が傾いてしまったのか、この川原も暗闇で視界が悪い。足元を照らすものがなければ、陸と川の境目をうっかり越えてしまいそうだ。
立夢はスマホを取り出し、照明機能をオンにする。すると、数歩先の小石の形くらいまでは肉眼でも見えるようになった。明かりとしては少し心もとないが、ないよりは幾分マシだ。
片手でスマホを構えながら、立夢は足を滑らせないよう慎重に歩を進める。ある程度進んでは立ち止まり、目や耳を研ぎ澄まさせて周りに誰かいないか探ってみたりもした。大した収穫はなかったが。
そうして進むうちに川幅はだんだんと広くなっていき、ついには人の歩ける足場が途絶えてしまった。行き止まりだ。
(結局、誰とも出会わなかったな。行き違いになったか、そもそも見間違いだったか。とりあえずこれ以上は何もなさそうだし、部屋に戻ろう)
安堵したような落胆したような何とも言えない気分になりながら、来た道を戻ろうとして立夢は踵を返す。
(……ん?)
立夢は突如、立ち止まる。一瞬、何かを見つけた気がしたのだ。
違和感を覚えた方向へ、立夢は明かりを向ける。
その先にあるのは、鬱蒼と茂る草木だけ。しかしよくよく観察してみるとその自然の柵の中に、何かが分け入ってできたような道が存在していた。近づいて調べてみると、地面には幾つもの人間の足跡が散在している。
立夢は浴衣を極力汚さないように心がけながら、足跡を辿っていく。するとそう歩かないうちに、大きな岩壁が前方に見えてきた。
岩壁には人が通れそうなくらいの縦長の穴が空いていた。空洞はかなり奥まで広がっているようで、スマホの照明ではとても全てを照らしきれない。この穴が自然に空いたのか人為的に空けられたのかは立夢にはわからなかったが、足跡が全部ここで途絶えていることから、あの道がここへ来るためにできたものであるということは間違いなさそうだ。
立夢が洞穴の入口に立っていると、穴の奥から風が吹いてきた。同時に、立夢は口元を手で覆う。
――臭い。なんだこの吐き気を催す悪臭は。
食道を駆け上がってくるものを立夢はなんとか抑える。
風はすぐに止んだ。まるで誰かが嫌がらせのために起こしたかのような風だった。もし本当に意図的なものだったなら、本人の顔に一発お見舞いしてやりたいところだ。
立夢は何度か深呼吸し、再び視界の中心に洞穴を見据える。さっきの悪臭から、この先に何かろくでもないものがある可能性は高まってきた。ここは一度引き返して応援を頼むのが賢い選択だろう、と立夢は思う。
しかしそれ以上に立夢は、この先にあるものを早く知りたい、という好奇心に駆られていた。行きすぎた好奇心は身を滅ぼす、とは世間でもよく言われている教訓であり、立夢もその言葉には賛成の立場だ。だが、落ちるとわかっていても深淵を覗き込んでしまうのが人間というものだ。
胸の内に潜む衝動を抑えきれず、立夢は洞穴の中に向かって一歩踏み出す。
「お待ちください」
背後からかけられた声に、立夢の心臓はひときわ大きく鼓動を打った。
立夢が振り返ると、人影が一つ。
「その先は危険ですので申し訳ありませんが、お立ち入りなさらないようお願いできますでしょうか?」
丁寧な口調で立夢に語りかけてくるのは、旅館の案内や夕食の準備をしていたあの仲居だった。
「……すみません。実はこの中に入っていく人影が見えたので、何をしているのかと思って後を追ってて」
立夢は言葉に少し嘘を混ぜて、ここにいる理由を仲居に説明する。仲居が出てくるタイミングがあまりにも良すぎるような気がしたからだ。
「それはそうと、仲居さんはどうしてここに?」
「いえ、受付の者からお客様が外に出てからしばらくしてもお戻りになられないと聞きまして、もしかしたら危ない場所へお入りになってしまったのかと思い、探しに参りました次第です」
立夢の問いかけに対して、仲居はにこやかにそう答えた。言われてみれば確かに、旅館を出てからそれなりの時間は経過している。
「お客様がご無事なようで安心しました」
「それはどうも、心配をおかけしてしまったようで……ところで、この穴は何なんですか?」
立夢は怪しまれないように、なるべく自然な会話の流れを装って情報の引き出しを試みる。
「……かなり昔からある洞穴らしいです。私は入ったことはないのですが、中を調べた人によると奥には大きな渓谷が横たわっているそうですよ」
「…………」
立夢は静かに洞穴を見つめる。果たして仲居の言っていることは真実だろうか。
立夢からしてみると正直、かなり疑わしい。渓谷のある洞穴から、あんな濃厚な悪臭が流れてくるだろうか。奥で下水が流れているというのならありえなくもないが、ここより上流にそんなものを垂れ流す施設はないはずだ。
立夢はこの洞穴はそこまで深くはないと考えていた。おそらく一時間もあれば最奥まで行って帰ってこれる程度の広さだろう。そして道中か最奥に、先ほどの悪臭の発生源となるものが蓋をされた空間がある。さっきは何かの拍子にその空間が開かれ、悪臭が漏れ出たのだ。風は空間の内外の気圧差によって生じたものだろう。
ただし確証はない。仮説が正しいかどうかは実際に中に入ってみなければ判明しないだろう。
(さて、どうしようか……)
立夢はそばに立つ仲居を横目で見る。言っていることが真実にせよ嘘にせよ、仲居はわたしをこの奥には進ませたがらないはずだ。しかし、今調べなければきっとこの中を知る機会は永遠に失われてしまうだろう。このまま中を探る、何か良い方法はないだろうか。
なんとか洞穴に入る手段を得ようと頭を働かせる立夢。
「……肉味噌、美味しかったですか?」
沈黙に満ちた空気を破る、仲居の突拍子もない一言。
立夢は一瞬、何を言われたのか理解できず、反応が遅れた。
「……はい?」
なぜ、今、肉味噌の話?
「お客様にお出しした肉味噌の肉。あれは大変質の良い肉でした」
困惑する立夢を置き去りにして、仲居は言葉を続ける。
「あまりに活きが良くて、捕らえるのにもとても難儀しました」
この仲居は一体、何を言おうとしている?
「やはり良い食材を手に入れるには、それ相応の手間がかかるものですね」
とても、嫌な、予感がする。
「そういった意味では、今日捕まえた食材は」
ひぃぎアアアアァァァァッッ――!!
洞穴の奥から轟く、男のものと思われる痛ましい絶叫。
「なっ……」
「――とても期待できそうだと、思いませんか?」
叫び声を聞いても仲居は笑顔を崩さず、立夢にそう尋ねた。
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