第41話 罪過と歓喜の間

 三郎に受け入れられなかったことへの悲しみは、自己肯定感の喪失を招いた。故に、他人を寄せ付けなくなった。


 本当は寂しくてたまらなかった。


 それが、百合子の本音である。


 厄介な矛盾を抱えたまま棘を増殖させ、悲しみは時間と共に怒りへと形を変えてゆく。幸いなことに、没頭できる仕事が百合子にはあった。


 仕事以外のことには見向きもせず、自分の殻に閉じこもり、成熟した女性への成長を自ら閉ざし、大人になれなかった大人こそが百合子である。

 

 ずいぶんと年上で、人智を超えた世界の住人と出会えたのは、奇跡的なハプニングだ。


 今は、ジーンの胸に引き寄せられ、震える心ごと抱きしめられていた。悠久の時の中で、ようやく安息の場所を得たようで血が湧いてくる。


 露わになった罪過の前では、表面的な笑顔も言葉もゴミ同然。それでも、まだ隠したいのは、小さくて弱い自分。


「そういうのは、大丈夫だとは言えないんだよ」


 百合子はジーンの胸に両手を押し当て、顔をそむける。穏やかに葉を揺らす風が流れてきて、眉間を寄せる百合子の頬をなでながら、もつれた髪の後れ毛をふわりと持ち上げた。


 全身で感じる心地よさに、心にも頭にも、かつてない静謐せいひつが満ちてくる。どうしようもなく込み上げてくる喜びが、過去の悲しみを追い越していった。


 そこに罪悪感が生まれ、どこまでも追いかけてくる。


「大丈夫だってば」


「僕は聞きたい」


「あなたに関係のない話だわ」


「そうかな?」


「そうよ」


「本当に?」


 淡々と続くジーンとの会話に、百合子の頭の中に警告のサイレンが鳴り響く。


「しつこいわね!」


 誰も自分に触れて欲しくない、と懇願しているようにも聞こえた。


 ジーンが築いた強固な檻に抱きすくめられ、望んでもいない逃亡に想いを巡らせながら、ずっとここにいたい、という混沌の渦に巻き込まれる。


「じゃあ、どうして泣いてるの?」


 百合子はジーンの腕の中に、泣き顔を隠した。


「だから……そういうこと、言わないでよ」


 ドアをノックするように、百合子は小さな拳でジーンの胸を、二度叩いた。頭上から聞こえる優しい声は、百合子を覆っていたよろいをゆっくりと壊していく。


「泣いてる女の子が目の前にいるのに、無視できないでしょ」


 脳裏に浮かぶは、別人のように年老いた三郎と、クリスマスの夜、全てを諦めたことへの後悔に顔を歪ませ、ベッドから月を眺める九十歳の自分。


「違うわ……私は、お婆さんだもの」


「同じだよ。泣いているのは、他の誰でもない君自身だ」


「だから……優しくしないで」


 拒絶しながら、ジーンの腕を振りほどくことはしない。そして、隠したいのに、悔いる気持ちが言葉になって、口から漏れていくのを止められない。


「――今日という日ほど、自分を呪ったことはないわ」


「呪っちゃ駄目だろ。昨日、約束したよね? 今日は笑って帰るんだ、って」


「笑えないわ……全くもって」


「何故?」


 百合子は嗚咽しながら、自分への怒りを吐き出した。


「死ぬべきは八重子ではなく、私の方だったのよ。私のせいで、長い間、あの子には辛い思いをさせてしまった。私は、一人だもの……あなたが早く迎えに来ないからよ……職務怠慢だわ!」


「八重子さんは天命だから、君の寿命とは別の話だ。それに、職務怠慢とは、ひどい言いがかりじゃないか?」


 ジーンは腕を緩めると、片手をほどき、百合子の頬に手を添えた。顎を少し持ち上げ、視線を合わせる。


「いい? もし、百合子が自分の命を粗末に考えて、自殺でもしていたら、僕は君に会えなかったよ」


 涙で満タンになった百合子の両目は、微笑するジーンを弱々しく睨んだ。


「私がどういう死に方をしても、あなたは来たでしょ?」


「それが天命ならね。でも、そうじゃなければ、もっとおぞましいやからが君を迎えに来たはずだよ。僕ら死神は、天寿を全うした人間しか迎えに行かないんだ」


 百合子のまつ毛が、涙で濡れていた。瞬きと同時に最後の一滴が、百合子の頬に流れる。


 ジーンは人差し指で、優しくそっとぬぐってやった。


「君は一人ぼっちだったかもしれないけど、頑張って最後まで生きたことを誇るべきだよ」


 簡単には忘れられない罪悪に、百合子は胸の内を吐露とろする。


「そりゃ頑張ったけど……私は後悔ばかりで、でも取り戻せないことばかりで……こんなに苦しいなら――」


「それでも、僕は君を褒めてあげたい」


「私は……笑ってもいいの?」


 ジーンはくしゃくしゃになった百合子の髪を撫でながら、


「もちろん。僕はずっとそう言ってる」


 懺悔と後悔、歓喜する百合子の思いが交差し、幾度となく二人の間で繰り返される会話。


 最後の時を迎えつつある今やっと、胸をえぐられるような悲しみも全て、百合子は受け入れられそうな気がした。


 死神と迎えるハッピーエンドは、現世での未練を断ち切り、新しい一歩を歩み始めることでしか叶わないのだから。

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