第42話 月下氷人

 実家へ赴いてからというもの、棘が抜け落ちたというべきか、やさぐれた百合子が影を潜めている。根気よく百合子と付き合ってきた、ジーンの努力が報われたと言えるだろう。


 良い傾向ではあるが、二人に残された時間は恐らく二十日ほど。もし、余命一ヶ月足らず、と医者に宣告されたら、絶望の淵に突き落とされたも同然である。


 ところが、夕食の後にソファに並んで座り、のんびりとテレビドラマを見ながら、ジーンの淹れたコーヒーを飲み、二人はくつろいでいる。絶望どころか平穏そのものである。


 甘いロマンスを見終わったところで、ジーンは「ああ……切ないよねぇ」と呟いた。クッションを抱きしめたままソファに背を預け、深い溜息を天井に吐き出す。


 ドラマの終了を見計らったように、百合子はソファの上で胡座あぐらをかいているジーンの膝に、そっと手を伸ばした。


「ちょっといい?」


「いいよ。どうぞ」


 百合子は真剣な顔をして、コクリと頷いた。少し間を置いてから、上目遣いでゆっくりと話し始めた。


「私、考えたのだけど……」


 と、話し始めたものの、意図せずジーンの顔に息を飲んだ。


 切れ長の瞳に影を落とす長いまつ毛に、魅入ってしまい、一瞬だけ頭がぼおっとした。ジーンの瞳には、何か魔力でも宿っているのではないか、と時折、疑いたくなる。


「どうしたの?」


 乙女が戸惑うことを承知で、ジーンが微笑んでいるのだとしたら、これは罪深いことである。


――心頭滅却。


 吸い込まれるように、自然と前のめりになっていた半身を起こすと、百合子は頬を染めたまま、背筋を伸ばして座り直した。


 小さく咳払い。


「私、お式は、なくても構わないわ。もともと形だけなんだし。ジーンはどう思う? やる意味あるのかしら?」


 今度はジーンが百合子の手の上に手を重ね、直視できないほど優しい視線を向けてきた。


「あるよ」


「……どんな?」


「まず、僕は君の花嫁姿が見たい、という理由がある。そして、そうすることで君が笑ってくれるのなら、大いに意味がある。これでは不十分?」


 重なる手の重さと温かさが、百合子の首を横に振らせる。


 ジーンは重ねる手にギュッと力をこめると、百合子にウインクを投げた。


「良い子だね。これは決定事項、ってことで」


 このウインクだけは、百合子は今もって苦手らしく、せめてものお返しに苦笑するのが精一杯だ。


 それは良いとして、問題は他にもある。


 この世において、致命的なことに、二人は身元不明の怪しい人物だということ。


「式はどこであげるつもり? お仲人さんもいないのよ」


 ワケありの二人は、身分証の提示を求められると非常に困る。だが、ジーンは、その質問を待っていたかのように、したり顔で悠々と答えた。


「実はね、ある人にお願いしようと思っていたんだ。楽しんでばかりもいられないからね」


 ジーンの声が明るいから、百合子も同調するように笑顔を作ったが、風船がしぼんでいくように、輝きを失っていった。


 それでも百合子は「頼もしいわね」と微笑んだ。



 それは、翌日の夜のこと。


 時計の針は、ちょうど深夜を回ろうとしていた。


 向かった先は、以前、二人で花見に出かけた公園である。


 暗い夜の闇に閉ざされていると思いきや、百合子の目に映る公園は、ほんのりと明るく温かな光で包まれていた。


 人とは言い難い存在になった百合子には、妖の光も捉えることが出来るようになっていたらしい。


 うっとりとして光景に目を奪われている百合子は、ジーンの手に引かれ、公園の中をどんどん進んでいった。


 しばらく行くと、光源と思われる、一本の桜の木の下にやってきた。


 百合子はすぐに、そこがどこであるかを理解した。


 驚いた顔をジーンに向けると「覚えていたんだね」とジーンは嬉しそうに笑った。


 そして、生ぬるい風に前髪を弄ばれながら、ジーンは気を見上げる。

 

「こんばんわ。いらっしゃるのでしょう?」


 ジーンに応えるように、上から綿毛のような光の玉が、木々の枝葉を揺らしながら、ゆらゆらと降りてくる。


 背伸びをすれば手が届きそうな細い枝に、光る玉は弾むように乗っかった。玉は光の輪となり、その中心には目つきの悪い、着物を着た幼女が二人の前に現れた。


「このような夜夜中よるよなかに現れおって……しかも、屍人しびとの女連れとは、悪い予感しかせんわ」


 と、悪態をつき、ジーンを不機嫌そうに睨んだ。そして、隣で目を輝かせている百合子を見て、呆れたように溜息をついた。


「ご紹介します。こちらが百合子さん」


 好意的とは言えないいにしえの精霊に敬意を払い、百合子は丁寧な物腰で頭を下げる。


「……何しに来た」


 ジーンはカヤノツチが腰掛ける枝に向かって、百合子と繋いだ手を高く上げた。


「僕ら結婚することになりました!」

 

「な、何故そんなことに……」


 カヤノツチは、くっつきそうなほど眉を寄せた。


「あなたが、嫁にもらえ、と言ったんじゃないですか」


 カヤノツチは「言っておらん!」と憤慨し、両足をバタバタさせながら、ジーンに向かって金切り声を上げた。


「阿呆! もらうのか? と皮肉で聞いただけじゃ! わしを勝手に巻き込むな!」


 ジーンはすっとぼけた顔で、肩をすくめてみせた。


「そうでしたっけ? 僕の勘違いでしたか」


 暖簾のれんに腕押し、という言葉が百合子の頭に浮んで、口から笑いが漏れた。


 カヤノツチは、呑気に笑っている百合子をチラリと睨んだ。


「相変わらず、口の減らん死神じゃのう……して、わしに何の用じゃ」


「僕らの仲人をお願いできないかと思いまして」


 カヤノツチは絶句し、目を大きく見開いた。


 あれだけ忠告してやったのに、結果がこれか、と。世のことわりを逸脱した二人を叱責することはあっても、仲を取り持ち、ましてや祝福するなど言語道断。そう思ったのだ。


 ジーンの朗らかな笑みに、戦慄を覚えるカヤノツチ。


 頬を膨らませ、口を尖らせたカヤノツチに、ジーンは「言葉が足りませんでした」と続ける。


「つまりは、月下氷人になっていただきたい、ということです」


 ジーンは、にっこりと笑った。


「ちがーう! そのようなことは聞いておらん! 他に頼め! わしは、死神と屍人の間を取り持ってやるほど、暇でも寛容でもなーい!」


 的外れなジーンの態度に、カヤノツチはあらん限り叫んだ。


「おい……」


 ジーンと百合子の背後で何かが動いた。


 敏感に察知したカヤノツチは、着物の両袖を震えながら、口元に持ってくると、怯えながら黒い影を目で追った。


「お、お主らの背後におるのは……魔獣ではないのか? まさか……わしを食わせるつもりなのか? 脅すつもりなのか?!」


 なんのことやら、と振り返ってみると、パラディがゆったりとした足取りで、二人の間に入ってきた。


 甘えて額をすり寄せてくるパラディを、ジーンは撫でながら、


「何をおしゃっているのやら。ご覧のとおり、パラディは優しい魔獣ですよ。今夜は、散歩がてら連れて参りました」


 二人に撫でられるパラディを見て、カヤノツチは警戒態勢を解除した。


 そして、急に威勢良く罵倒し始めるという。


「かあぁ! 冥府の魔獣も地に落ちたものよな! 散歩なんぞで尻尾を振っておるとは、その辺の犬っころと変わらんわ!」


 カヤオノツチは仁王立ちとなり、見開いた目だけでパラディを見下ろしている。パラディは面倒だと感じたのか、ジーンの後ろに隠れてしまった。


 勝ち誇ったように高笑いするカヤノツチに、ジーンはクスっと笑った。


「そんなに踏ん反り返っていると、枝から落ちてしまいますよ」


 すると、カヤノツチは枝から綿毛のように、軽やかに音もなく、ふわりと地に降り立った。ジーンを見上げると、囁くように言った。

 

「宣告の申し出じゃが、いいだろう。受けてやる」


 ジーンは百合子とアイコンタクトし、嬉しそうに頷いた。


 しかし、話はそう簡単なことでもなかった。


「ただし――」


「お代ですね」


 と言って、ジーンが羽織っていたロングコートのポケットに手を突っ込むと、カヤノツチは言った。


「お代は、そこの犬っころを貰い受けよう」


「――パラディ、をですか?」


 ジーンは目を細めた。


 横から百合子が、ジーンの肩を弱々しく揺する。


「それは駄目。パラディは大切な家族でしょ?」


「では、この話は終わりじゃ。さっさと帰れ」


 カヤノツチは、鼻を鳴らした。


 さすがのジーンの顔からも笑顔は消え、幼女と百合子が見守る中、しばらく目を閉じて考え始めた。


 しきりと百合子は「駄目よ」と訴えている。


 ジーンは思いつめた表情で深い溜息を吐き出すと、カヤノツチに決心を口にした。


「――分かりました。ただし、式を無事に終えてから、ということでお願いできますか?」


「ならん。今、置いていけ」


「ジーン! 待って! 考え直して!」


 百合子は我が子を手放す母のような心境で、泣きながらジーンを止めようとするが、ジーンはうつむいたまま、それに応えようとはしない。


 悲しそうな瞳でジーンと百合子を見つめるパラディは、この成り行きと、その意味を理解しているのか、主人あるじの言葉をじっと待っている。


「承知しました。ここで、あなたにお譲りします――」


「盟約成立じゃな」

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