第39話 初恋にさようなら
百合子は誠の後ろをついて長い廊下を歩きながら、追憶にふけっていた。誠は不安そうな顔をして、遠い目をした百合子の方を何度か振り返った。
そうこうする内に、正面玄関のある本館とは別館、つまり、屋敷の一番端っこまでやってきた。
百合子は思わず、「あっ」と声をもらした。縁側で背中を丸めた老人が、瞑想でもしているように、身動き一つせずに座っていたからだ。
誠は老人から少し離れた場所で足を止めると、唇を噛みしめるように固く閉じた。話すべきかどうか悩んでいるのが、百合子にも分かる。
「あれが父の三郎です。認知症でして……家族の顔も言葉も、どこまで理解できているか疑問です」
老いとは残酷だ。
今の三郎は、他者と言葉を交換することも出来ないという。百合子の知っている三郎は、二十四歳の快活で穏やかな青年のままだというのに。
「――ご挨拶しても、よろしいですか?」
「ええ、まあ……それは構いませんが……先に、一つお尋ねしても?」
「どうぞ」
「あの方もご病気なんですか? もう長くないと手紙にありました。今も独身でいらっしゃるようで……少し心配しています」
一瞬、誰の話をしているのか分からず、眉をひそめて少しの間、考えてしまった。すぐに、手紙に自分が書いたことを思い出した。
「いえ、入院はしていませんので、ご安心を。体調は良いとは言えませんが、まあ、もう九十ですから」
誠はホッとしたのか、胸に手を当て「そうか、入院はされていないのか……良かった」と呟いた。
「一度、お会いしたいのですが、なかなか会ってくださらなくて……私は母のアルバムにあった写真でしか、百合子さんを見たことがありません」
そこで、誠は息をついた。
「母がいつも自慢していましたよ。それに……」
誠は悲しそうに笑うと、物言わぬ三郎を振り返った。
「母はお姉さんに、何かを謝りたかったようです」
謝る? とは何を?
不意をつかれた話に、百合子は息を飲んだ。
「ご覧になったかな……ほら、そこの棚にあるでしょう? 小さな鏡台」
百合子は実の背後に見える棚に顔を傾け、姫鏡を一瞥してから、さし当りのない返答を返す。
「とても趣味のいい姫鏡ですね」
「ええ。母はその鏡台に向かって、ごめんなさい、ごめんなさい、と泣いて謝っていたものです。子供の頃になんとなくですが、ああ、見てはいけないものを見ちゃったな、と私も廊下で泣いてしまいました」
誠は苦笑いし、話を続けた。
「謝りながら泣く母を見るたびに、やるせなくってね……大人になってからです。お姉さんの百合子さんが家を出ていった理由が、何か関係しているんだろう、って気づいたのは」
「そう、でしたか」
しんみりと百合子が頷くのを見て、誠は思い出したように、急に明るくなった。
「でもね、母は泣いてばかりだったわけじゃありませんよ? どちらかというと、いつも幸せそうでした。父とは、つがいの鳥のように仲が良くって」
「つがい?」
「はい。母がまだ元気だった頃は、月に一度かな。父の仕事帰りに、二人は駅前で待ち合わせをして、隣町の映画館まで行って、デートしてましたね。デートの日の晩御飯は、決まってカレーでした」
誠の温かな記憶に頷きながら、百合子は曖昧に微笑んだ。
「そうそう、百合子さんにも、この話をしてもらえますか? なんならウチに来ちゃどうでしょうかね。もうお歳だし、そろそろ家族一緒になってもいいと思うんですよ」
「――必ずお伝えします」
百合子はそう言って、誠に軽く頭を下げると、縁側で居眠りしかけている三郎のところに歩み寄った。百合子が近づいても、三郎はただ空を見上げている。
誠は「大丈夫かな」と独り言を言いながら、後ろ髪を引かれるように、百合子たちを残して、その場を立ち去った。
百合子は誠の姿が見えなくなったのを確認すると、年老いた初恋の相手に寄り添うように、隣に腰を下ろした。
三郎は何も感じていない虚ろな目で、百合子をじっと見ている。
間近で見るシワとシミに愕然としながらも、心の底に残っていた三郎への愛おしさが湧いてくるのを感じた。
「三郎さん」
老人は百合子の目の奥を覗きこむように、百合子の顔を穴が開きそうなほど見ている。
「私のこと、分かりますか?」
不謹慎だと思ったが、百合子は思わず苦笑した。自分が今、二十六歳の姿で良かった、と。
枝のように細くなった三郎の肩に腕を回し、そっと抱き寄せる。
「こんなに細くなって……」
痩せ衰えた三郎の体に触れて、百合子は無性に悲しくなった。自分を鼓舞しながら、努めて明るい声で話しかける。
「知っていましたか? 私はあなたのことがずっと――」
言葉に詰まった。
腕の中で、うんともすんとも言わない人形のような三郎が切なくて、そして愛おしくてたまらない。
あの頃、三郎が仕事で家にやってくる日を、どれだけ楽しみにしていたことか。目を閉じると、何もかもが鮮明に脳裏に浮かんでくる。
「ずっと好きでした。わがままを言えば、あなたに私の気持ち……本当は気づいて欲しかったな――」
伝えられなかった想いが言葉となり、口から出て行くと、不思議なもので、体の中に渦巻いていた薄暗い何かが浄化されていくように感じた。
「そして、ごめんなさい。私が二人を祝福していたら、私たち……良い家族になれたかもしれませんね?」
ほろ苦さを抱きしめたまま、百合子はありったけの笑顔を作ると、初恋と一緒に、ペンキで塗ったような青空を見上げて泣いた。
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