第38話 深窓の令嬢 その2

 モニターに真顔を近づけ、「演じるのだ」と繰り返し心の中で呟いた。


「初めまして。私は百合子さんの代理で伺いました」


「はい、聞いていますよ。今、開けますので、どうぞ中へお入りください」


 固く閉ざされていた正門が、重厚さを感じる鈍い音を立てながら、ゆっくりと開き始めた。車一台が優に通れる奥行きと幅に、車好きだった優しい祖父の幻が重なる。


 モニターから男は「そのまま奥へお進みください」と百合子を怪しむこともなく、容易に受け入れた。


 自分の家に帰るのに、他人のような顔で門をくぐるというのは変な気分だ。百合子は得意の澄ました顔で、かつて知ったる我が家の敷地に踏み込んだ。


 屋敷へ真っ直ぐに続く、石畳のアプローチは健在だ。


 アプローチの途中で、甘い香りに誘われ足が止まった。


 香ってくる方向へ鼻を向けると、野趣ある可憐で小さな白い花が咲き乱れている。クレマチスの白万重しろまんえが、そこら中を甘く芳香していた。


 時の流れを感じる景色に、目尻が潤む。


 戦後、自給自足のために、仕方なく百合子が畑にした場所だった。


 白い花に囲まれた子供用の小さなブランコと、緑の芝によく映える白いラタンの椅子とテーブルが、幸せそうに家人かじんを待っているように見えた。


「遠くから、よくいらっしゃいました」


 ふいに話しかけられ、ビクッとしながらも、百合子は笑顔で振り返る。


「ええっと、あなたは百合子さんの……」


 昨夜から、代理人の設定を考えておいて正解だった。


「はい、佐藤……葵と申します。以前、百合子さんのお店に勤めておりました」


 経営していたブティックを閉める一年前だったか、入社してきた若い店員の名前を使わせてもらった。


 甥も百合子が婦人服のブティックを経営していたことくらいは、茂木から聞いているはずだ。


 嘘と真実を織り交ぜることで、百合子の下手な演技にも真実味がでてくる。


 年齢を感じさせない、すらっとした中年の男は納得できたのか、柔らかい物腰で百合子に会釈した。昔は精悍な美男子だったことを彷彿させる笑顔に、百合子は一瞬、胸を貫かれるような感覚を覚えた。


「そうでしたか。私は百合子さんの甥にあたる、誠です。初めまして」


 挨拶もそこそこに、終始にこやかな誠に案内され、甥と並んでアプローチを進む。


「素敵なお家ですね」


 と百合子の方から、甥に話しかける。


「いやあ、古いだけですよ」


 声を上げて笑う甥の誠を見ながら、百合子はできる限りの笑顔を作った。誠のよく通る明るい笑い声は、陽の当たる場所にいる人種のものだと感じた。


「さあ、どうぞ」


 誠が開けてくれた扉には、祖母が選んだというステンドグラスが、まだその優美さを誇っていた。


 腹の底から込み上げてくる熱いものが喉を通ってくるのを感じたが、頬にこぼれるのを許さず、百合子は目を細めながら顔を歪めた。


「どうされました?」


 百合子の動揺が誠に伝わり、不思議そうな顔で見ている。


「……あまりに見事なので、感動してしまいました」


 震える百合子の声に、誠は軽く頭を下げる。


「ありがとうございます。こんな若いお嬢さんにも通じるのだから、やはり良いものなんでしょうね。どうも、私はその辺のセンスがなくって」


 家に入る前からこの調子では、この先、懐かしい調度品を目にするたびに、瞬間湯沸かし器のごとく、号泣する羽目になる。


 こらえてもこらえても、どこもかしこも思い出がつまっているものだから、「感動してしまって」を合言葉のように、百合子は歩きながら、涙の理由を言い続けた。


 最初は、誠も賛辞として喜んでいたが、徐々に対応に困り果て、最終的には見ないふりを始める始末。きっと、可笑しな人だ、と誠は思っているに違いない。


 夢の中を歩くように、誠の後ろをふわふわとした気持ちで進んでいると、障子に桜の模様が入った和室の前で、誠の足は止まった。


「こちらの部屋でお待ちください。すぐに、母の部屋から持ってきます」


 横を通り過ぎる誠には目もくれず、百合子は開け放たれた障子の向こう側に目を張った。


 ここは、かつての百合子の部屋だった。今は、家族の写真や代々受け継がれた調度品を飾った、ちょっとした早乙女家の博物館のようになっている。


 その中でも、可愛らしい姫鏡が百合子の目に留まった。


――まだこんなものを。捨ててくれても良かったのに。


 そう思いながら、手に取らずにはいられない。


 ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。棚の上に並べられた調度品から、その小さな鏡台を両手で持ち上げた。


 手の中にある姫鏡はあの日のままで、そっと抱きしめると、蓋をしていた想いがあふれてくる。この鏡は可愛い自分も、情けない自分も全てを写してきた。


 あまり触れていると、取り返しがつかないほど心が乱れそうだったので、元の場所に丁寧に戻した。


 そこで、誠が予め用意してあったお茶と小さな和菓子をのせた盆を持って現れた。


「お待たせしました。私が淹れたので美味しいかは分かりませんけど、どうぞ」


 泣き崩れる前で良かった、と百合子は胸を撫で下ろし、誠に振り返ると、にっこり笑った。


「いただきます」


 十畳ほどの部屋の真ん中に、誠は座布団を一つ置くと、百合子に座るように勧め、お盆を畳の上に置きながら言った。


「いやはや、娘の牡丹がいれば良かったんですけどね。勤めに出てまして」


 百合子も軽く会釈し、遠慮がちに勧められた座布団に座った。


「娘さん、ということは、八重子さんのお孫さんですね?」


「ええ、出戻りですよ。あと、娘の息子で、れんというちっこいのも一緒に住んでいます」


「お孫さんも」


「はい、可愛いですよ。隔世遺伝というやつでしょうか。蓮はおじいちゃんに似てるようで」


「――誠さんのお父様に」


「そうなんです。私は母に似ているようですが、れんは父の血を濃く受け継いでいるんでしょうね。若い頃にそっくりだそうです」


 百合子は両手で抱えていた、口をつけていない湯のみを、そっと茶托に戻しながら聞いた。


「お父様は……ご健在ですか?」


 強張った笑顔で尋ねる百合子を、誠は少し困った顔をしながら、数秒ほど沈黙した。そして、それまでの柔和な表情は消え、探るような視線を百合子に送る。


「会って、いかれますか?」


 期待していた誠の言葉に、百合子は二十六歳の姿であることを忘れた。頬に伝う涙も止めないまま、小さく何度も頷きながら、それは嬉しそうに答えた。


「はい。是非お会いしたいです」

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