第36話 前夜
「ラストは圧巻だったよね! まさか、あのタイミングで第三の男が! 粋な演出だったと思わない?」
興奮冷めやらぬ様子で、はしゃぐジーンを、百合子は横目で見ながら、溜息混じりに呟いた。
「そうかしら……第三の男こそ不要に思えたけど」
二人の間で、パラディが右へ左へと見上げて、映画談義を黙って聞いている。
もっと奥を見通せば、都会の空らしい、そこそこの星と遠くに見える三日月が、三人を控えめに照らしていた。
百合子はジーンの感動にわざと水を差したり、時折、微笑んだりした。映画の内容はともかく、誰かと時間を共有できる楽しさ、喜びの方が百合子には優っていたようだ。
和やかに一日の終焉を迎え、三人は赤煉瓦のマンションに戻ってきた。
百合子は郵便ポストを覗いてみる。役所からハガキやらなんやらが届くので、これは習慣みたいなものだ。
「やだわ、税務署かしら」
嫌そうにぼやきながら、ポストの小さな扉を開けると、真っ白な封筒が目に飛び込んできた。
百合子は思わず、小さく声を上げる。
宛名に、早乙女百合子様、と達筆な毛筆で書かれていた。
息を呑み固まる百合子の背後から、ジーンが声をした。少しだけ振り返ると、ジーンの手には、パラディが眠そうに目をこすっている。
「先に行ってるね」
百合子は苦笑し、肩越しに短く返事した。
「ええ」
ジーンはにっこりと笑い、寝落ちし掛けているパラディの手を取ったまま、静かに階段を上っていった。
昔は高級マンションだった名残なのだろう。住民の共有スペースには、シャンデリア風の照明が、百合子の頭上を照らしている。
遠ざかるジーンの足音を聴きながら、百合子は手にした封筒に視線を戻した。
そこに書かれた自分の名前を眺めていると、甘酸っぱい記憶と、苦い想いが同時に込み上げてきた。
ためらいがちに、封筒を裏返してみる。
一瞬で、百合子の顔が曇った。
手紙の主は早乙女三郎ではなく、早乙女誠。今は亡き、妹の八重子の一人息子の方だった。三郎は八重子の夫であり、誠の実父である。
戦後、三郎は娘しかいなかった早乙女の家に婿入りしたため、息子の誠もまた、百合子と同じ早乙女が苗字だ。
いっときの間、その場に立ちすくんだ。軽い緊張を覚えながら、甥からの手紙を開いてみる。
それは近しい者へ宛てた手紙というより、長きに渡る疎遠な関係が物語るような、距離を感じさせる文面だった。
まだ、家族なのか、と自問自答する。
実妹である八重子の死は、自分への諦めと呵責、そして最後に会わなかった後悔が、今だに胸中に並存しているのだ。
細い針で胸を刺されたように、小さな痛みがチクチクする。
手紙から顔を上げ、静かに瞑目すると、まだ赤ん坊だった甥っ子が百合子に見せた、ふくよかな笑い顔が頭に浮かんだ。
家を出る前に一度だけ、八重子にせがまれて仕方なく、赤ん坊を抱き上げたことがあった。その温かさ、柔らかさ、そしてミルクの匂いに引きずられ、自然と頬がゆるんだことも。
百合子が「馬鹿馬鹿しい」と小さく吐き捨てると、瞳に灯った光も消えてしまった。
少し口を尖らせながら、封筒をバッグにしまった。もの思いにふけった時間の分だけ、急いで階段を上がった。
扉の前まで来ると、百合子はバッグの中からゴールドの小さなコンパクトを取り出し、自分の顔を憂鬱そうに覗き込んでみる。
作り笑顔を携えて家に入ってみれば、ジーンが両手を広げて待っていた。
「おかえり」
家で誰かが迎えてくれることが、これほど嬉しいとは。
百合子は思わず破顔した。
顔を見せまいとうつむき、黒いバレエシューズに似たペタンコ靴を脱ぎながら、
「ただいま。パラディは?」
「テレビの前で寝てるよ。ドカっとね。疲れたんじゃないかな」
ジーンの話を聞きながらも、百合子はハンドバッグの中に仕舞い込んだ手紙のことを思い出していた。
「そう。最後はちょっと、はしゃいでいたものね」
「まあね。で、君は大丈夫?」
一瞬、手紙のことを聞かれたのか、と思って、百合子は驚いた顔になる。
「え? ええ、もちろん。私は平気よ」
声が少しうわずっていた。
「何て書いてあったの?」
ストレートに聞いてくれるのは、時として、考えすぎの人間にはありがたいこともある。
「いつでも取りに来てください、って」
それ以上のことは、口に出せなかった。確かめたいことがある、とも言えない。隠し事をするつもりはないのだが、言い出しづらい。
「良かったじゃないか」
ジーンが言うように、この手紙は朗報に違いない。
自分が生まれ育った家に帰ることも、これもまた、良いことに違いないのだ。しかし、あの家には八重子もいないし、茂木もいない。
今や見知らぬ家族が住む、知らない家でもある。
「――ええ、そうね」
暖房の効いた暖かい部屋に入り、百合子はホッと息をつく。コートを脱ぎながら、着替えるために寝室に足を向けた時、後ろからジーンの声がした。
「会うのが怖い?」
百合子は扉の前で足を止め、くるりとターンすると、ジーンの方へ不安そうな顔を向けた。
「そういうわけでは……」
「本当に?」
ジーンは何もかもお見通しじゃないのか、と感じることがある。常にゆとりある所作と、落ち着いた声音は、百合子にそう思わせるものがあった。
「いつでも来ていい、って書いてあったから……明日、取りに行こうと思うの」
「それ、僕も行っていい?」
百合子は少し驚いて、微笑むジーンを見る。
銀髪に榛色の瞳のジーンと、二十六歳に若返った百合子が、あの家に行くことを想像してみた。代理の者としては、少し目立ちすぎやしないか。
百合子は返答に困り、言葉に詰まってしまう。
「心配しないで。君が育った家というものを、ちょっと見てみたくってね」
「そう――ありがとう。近くにいてくれるだけで、心強いわ」
「百合子さんらしからぬ、弱気な発言だね」
茶化した言い方に、百合子は思わず眉を寄せて、頬をふくらませた。
「嫌なこと言うわね。自分で言うのはしゃくに触るけど、根っこは弱い人間なんですからね」
「そう思っているのは、君だけだよ」
百合子はプイッと横を向いた。
人生の大切な局面は極力、逃げ出してきた自分を知っているから、ジーンが見ている自分とのギャップに気後れする。
ジーンはゆっくりとソファに腰を下ろすと、自分の隣をポンポンと叩いて、座って、と目で訴えてくる。
「泣きたい時も背筋を伸ばして、顔を上げて、ここまで頑張ってきた。違う?」
百合子は素直に、ジーンの指定した隣の席に歩み寄りながら、うつむきがちに呟いた。
「そういうこと……言わないでよ」
百合子が控えめにソファに腰を下ろすと、ジーンは体の向きを百合子の方へ少し傾けた。
「都会でブティックのオーナーになるって簡単なことではないよ。そんな女性を弱いとは言えないでしょ」
不覚にも目頭が熱くなり、硬く縛っていた涙腺がゆるむのを感じる。
「――そうよ、私、これでも頑張ったんだから」
「知ってる。君は本当によく頑張った。それに、生き抜いた。もっと自分を誇っていいんだよ」
自分でもびっくりするくらい大粒の涙が、ポロポロとこぼれてくる。拭いきれないほど、次から次へと涙が湧いてくるのは、百合子のやわらかいところを刺激したからだ。
「明日はいつもどうりに。そして、笑って帰ってくること。それが大事だよ」
百合子はスンと鼻を鳴らして、コクリと頷いた。
すると、ジーンが顔を近づけてきたかと思うと、百合子の頬に伝う涙を、舌でぺろっと舐めた。
家訓のウインクも、当然おまけ付きだ。
「へえ、涙って結構甘いんだね。これは君が幸せ、って
真面目な顔でそんなことを聞かれても、もう泣けばいいのか、怒ればいいのか分からなくて、百合子は笑ってしまった。
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