第12話 パラディの夢 その2

 汽笛が聞こえる。

 吐き出す蒸気を二人の目が捉えた。


「見て、こちらに向かって来てる。どういう仕掛けなの?」


 はしゃぐ百合子の隣で、パラディがチッと舌打ちする。


 胸元にしまっていた懐中時計をもう一度取り出し、百合子に背中を向けて盤面を見ている。早る気持ちが苛立ちとなり、パラディの全身から悲壮感が漂ってきた。


 時折、噴煙を上げながら、ありえないスピードで近づいてくる列車。


 砂の上を滑り込むように、目の前に列車が現れた時、パラディは焦燥による緊張から解放され、両手と一緒に心からの歓声をあげた。


 初めて見るパラディの快活な姿に百合子は思わず、

「あなた、可愛い顔で笑うのね」


 とっておきの笑顔を見られたパラディは、それは悔しそうに「くそっ! くそっ!」と叫んだ。


 しかしながら、そんな瑣末さまつな問題に、いつまでも感情を動かされている場合ではない。パラディはすぐに頭を切り替え、次に自分のやるべきことを思い出す。


 それは一刻も早く列車に乗り込むこと。


 鼻息荒く百合子の手を乱暴に掴むと、無理やり列車に連れ込もうと試みるが、簡単ではなかった。


 目的地の不明な旅に出るほど、百合子は若くないのである。老齢なりの慎重さ、というものを持ち合わせていた。


 ただ、百合子は抵抗してみせるが、目の前にいる子供から「早く! 早く!」と急かされることを楽しんでいるようにも見えた。


 非力な子供の力で腕を引っ張られていると、不思議なことに母性がうずいたのだ。


「な、何がおかしいんです? もう! 笑ってないで、早く乗ってください!」


 なんとも嬉しそうな百合子の微笑み。

 パラディの理解の範疇を超えていた。


 その時、夜空にパンっ! と甲高い音が響く。

 音に呼応するように、二人はピタリと動きを止めた。

 

 空を見上げ、百合子がのんきそうに呟く。


「何事かしら?」


 さっきまで掴まれていた手から、フッと力が抜けた。

 百合子はパラディの方を見る。


 犯行現場を刑事に抑えられた犯人のように、パラディは膝をつき完全に崩れ落ちていた。両目をぎゅっと寄せ、いかにも無念そうに唸っている。


 実際のところ、この揶揄は間違っていない。


「どうしたの?」


 この状況を正しく理解しているのは、うずくまっているパラディだけであり、百合子は不思議そうに首をひねった。


 少年なのか少女なのかは未だ不明だが、確かなことは、この子供は意思をもって百合子の前に現れ、何かしら仕掛けようとしたこと。


 そして、今度は空から声が落ちてきた。


「はい、そこまで」


 この穏やかで心を溶かす声。


 瞼をゆっくりと開き、百合子はそこが見知った場所であることを認識した。自室の天井と、真剣な眼差しで覗いているジーンが目に映る。


 少し汗ばんだ額に、ジーンの額が近づく。顔が近すぎると百合子は思ったが、合わせた額は冷んやりとして気持ちがいい。


 百合子の目覚めを確認したジーンは体を起こし、


「どう、楽しかった? ずいぶん遠くまで行ってたようだけど」


 少し重い頭を抱えながら、百合子も起き上がる。


――遠くまで? 私が? 


 それは目が覚めた瞬間から始まっていた。


 美しく繊細に描かれた砂絵が、痕跡も残さず風に消されていくように、夢の中で見た夜の世界も、あの子も門のことも記憶からサラサラと消えていった。


――何か大切なことがあったような……誰かと一緒だったような。


 記憶の糸を辿ろうとするも、頭の中は真っ白だ。一方で、もう一人の冷静な自分が、思い出せと繰り返し言ってくる。


「話しかけても大丈夫?」


 ハッとしてジーンを見る。


「……ええ。なに?」


「動物は好き?」


「嫌いってわけではないけど、飼わないようにしてたの。死んだら悲しいでしょ?」


「君らしいね。つまり、嫌いではない、と」


 急な展開と質問に、百合子はジーンに疑いの目を向ける。


「あなたらしくない物言いね。何が言いたいの?」


「さっき……そこで拾ったんだよね」


 ますます、百合子の目は怪しいと言っている。


「拾った?……何を?」


「この子、うちで飼ってもいいかな?」


 隣の居間の方から大きな灰色の犬が、のっそりと歩いて寝室に入ってきた。少し白が混じったような灰色の毛は、光の加減で銀色にも見える。


「ねえ……こんなに大きな子が外を歩いてたって言うの?」


 動物というより獣の風格を持つ、その灰色の子は寝室に入ると、躾が行き届いた飼い犬のように扉の前で止まり、静かにその場に座って主人あるじの号令を待っていた。


「ね、大人しいだろ?」


「私には狼のように見えるのだけれど」


 大きさはゴールデンレトリバーの成犬くらいだが、額から鼻までが直線的で犬のような凹凸が少ない。より野生的な顔立ちが、狼に似ているとも言える。


「やだな……犬だよ」


「本当に?」


「でね、名前をつけたんだ」


「ジーン! 名前なんかつけたら捨てられないじゃない!」


「名前はパラディ。ラテン語の楽園が由来なんだ。どうかな?」


 名前を呼ぶと、パラディはゆっくりと立ち上がった。ベッドに座るジーンの足元にやってくると、鼻先を膝にこすりつけてくる。


「ずいぶん、あなたに慣れているのね……驚きだわ」


 野良犬だったとは疑わしいと感じながらも、ジーンがパラディを見つめる優しい瞳を見ると、きついことは言えそうにない。


「分かったわ。でも、私と約束してちょうだい」


 ジーンはパラディの頭を撫でながら、目を輝かせ身を乗り出す。


「いいんだね? ありがとう! 僕は何を約束すればいい?」


 百合子は腕組みをすると、ジーンと足元に大人しく座っているパラディの顔を交互に見比べ、威厳を演出するように低い声で呟いた。


「絶対に人様に迷惑をかけないこと」


 チラリとジーンを見遣ると、口元を綻ばせている。


「了解した」


 百合子は、反射的に体をらせた。


 逃げられることは、計算済みである。ジーンは体を一緒にスライドさせ、電光石火のごとく百合子の頬にキスをした。


 すると、それまで微動打びどうだにしなかったパラディがベッドの上にダイブしてきたのには、さすがに二人は驚きを隠せない。


 パラディは当たり前の権利を主張するかのように、二人の間に割って入ってきたのだ。ジーンと百合子との間に悠々と腹ばいになり、どうだ見たかと言わんばかりの顔で百合子を見上げている。


「この子、嫉妬してるの?」


「さあ、どうだろうね」


 はぐらかすように微笑んでいるジーンの返答に納得できないらしく、百合子は口を尖らせた。


 さっき拾ってきたとは思えない、ジーンとパラディの仲睦まじい間柄に少し嫉妬したのは、百合子の方だったかもしれない。

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