第2章 リコール
第10話 死と乙女
ここは渋谷、円山町のラブホ街の奥まった一角。
とある平日の夜十時過ぎ。
夜の道玄坂は、車のヘッドライトに酒の入った男女、そしてギラついたネオンがぎっしりと詰まった猥雑な通りとなる。
ちょっと足を踏み入れると、クラブに出入りする若者やらラブホの空室を探す大人たちが行き交う、そこは青少年立入禁止区域。
今夜の舞台は、円山町の
百年近くも同じ場所に有り続けた洋館には、なんとも形容しがたい独特な雰囲気が漂っていた。小さなアーチ型の扉を開ければ、外の喧騒と完全に遮断された空間はちょっとした異世界だ。
一階から二階の吹き抜けには、教会の荘厳なパイプオルガンを思わす、パイオニアの特注品という巨大な3Dスピーカー。二階の吹き抜けには、クラシカルなシャンデリアが存在感を示している。
閉店間際のせいか、店内に客は
二階はスピーカーの正面に、弦楽四十奏曲に耳を傾ける、黒いスーツを着た国籍不明の男二人組。
正確には、聴き入っているのは一人だった。
黒髪の若い男は、自分の瞳と同じ色のソーダを飲んでいた。人間社会で言えば世界の2%しかいないという、貴重な美しいグリーンの瞳だ。
この眠そうな半目をした男は、目の前にあるシャンデリアをぼんやり見ていた。
沈黙に飽きた男は、額にかかる長めの前髪を指に絡めたり
「死と乙女かぁ。シューベルトも上手いこと言うよな。でもさあ、病床の乙女を迎えに行った死神が『苦しみではなく永遠の安息を』なんて言うかね、普通。業界的にどうなの? ああ……あいつは言っちゃうタイプかもね。恥ずかしげもなく。ま、そういうところが可愛いんだけど」
この軽口を叩く男を
「今は黙れ」
「ほーい」
生返事をした後、おもむろにストローに口を近づけた。聴き入っているオールバックの男に視線を送り、グラスに残ったソーダの最後の一滴まで飲み干すかのように、わざと音をたてて吸い込んだ。
「…………」
弦楽四十奏は切迫した緊張感をもって、最高に盛り上がろうとしているというのに、全くもって無粋である。
音に浸っていたいオールバックの男は目を閉じると、大きな溜息を吐き出し、隣のノリが軽い男に顔を向ける。見た目の優雅さと繊細さそのままに、女のような細く長い人差し指を薄い唇にそっと当てた。
ソーダを飲み干した男は目尻に涙を浮かべ、
いくぶん年上に見えるオールバックの男は再び目を閉じ、疾走感と優美が入り乱れる名曲に聴き入っていたが、終わると同時にスクっと席を立ち上がった。
半目の男は居眠りしかけていたが、咄嗟に体を起こしてオールバックの男に眉を寄せて見上げた。
オールバックの男が、前に習えをして立ち上がったからだ。当の本人は表情一つ変えずに、その身を震わせスピーカーへ惜しみない拍手を送り始めるという。
「ちょっとちょっと、拍手は止めようよ。ドン引きなんですけど」
オールバックの男は切れ長の目を潤ませ、充足した笑み浮かべている。そうかと思うと、背もたれに無造作に掛けていたジャケットを取り上げ、帰り支度を始めた。
余韻もへったくれもない。
そそくさとジャケットの袖に腕を通しながら、若い男に冷ややかな視線を投げる。
「お前には情緒というものが足りない」
「えぇ……」
「行くぞ」
オールバックの男は無表情のまま、テーブルの上に置かれた伝票を掴むと、階段の方へスタスタと歩き始めた。
半目の男も「へえへえ、分かりましたよ」と面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
首を回しながら階下へ行くと、オールバックの男が会計を済ませ、釣りを受け取っているところだった。仕事も会計も迅速にスマートに、というのが彼の信条である。
二人の男は最後に紳士らしく、マスターに会釈してから名曲喫茶を後にした。
細身の黒いスーツをこなれた感じで着こなす二人は、夜の街によく馴染んでいる。ネクタイで個性を出しているのか、オールバックの方は黒。ちゃらんぽらんに見える方は黒に白の水玉。
通りすがりの女に、ニヤけた視線を送っているのが水玉の方。黒ネクタイの方は女にもネオンに目もくれず、百軒店をどんどん歩いていく。
半目の男が黒ネクタイの男の肩に、馴れ馴れしく腕を回した。
「ねえ、呑みに行こうよお。ホント、一杯だけ。だめ?」
「…………」
黒いネクタイをゆるく引っ張りながら、半目の男は飲み屋へ誘導を図ろうと笑顔を作る。その様子はホストクラブのキャッチに見えなくもない。
「考えるなら行った方がいいって、絶対。ね、ちょっとだけえ」
「お前、自分の役目を理解しているのか?」
オールバックの男に、捕んだ黒ネクタイの手を強引に引き剥がされ、半目の男は体を離して、肩をすくめて笑ってみせた。
「わーってるって。リアのことだろ? 大丈夫、手は打っておいた。だーかーら、心置きなく二人で飲みに行こうぜ! な、兄弟!」
少しの沈黙の後、不敵なグリーンの瞳と、不信を浮かべる榛色の瞳が交差した。
オールバックの男は「何をした?」と苦々しい顔に変わった。
半目から覗くグリーンの瞳が鈍く光る。
「そりゃあ、知りたいよね」
続けて、ネクタイの結び目を緩めながら、少し自信ありげに目を細めて言った。
「ま、上手くいけば、なんだけど。今晩あたり、パラディが決着つけてくれるかもしんないよ」
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