第9話 顛末
外観から感じた敷居の高さとは違い、落ち着いた内装が心地よい。
案内は愛嬌ある笑顔が可愛らしい女性に代わった。二十代前半くらいだろうか。ふっくらとした頬に若さを感じる。
女性の後をついて歩きながら、百合子はジーンの耳元に出来るだけ顔を近づけ囁いた。
「彼女のワンピース。少し変わってるデザインだけど凄く可愛いわ。萌葱色っていうのかしら。素敵じゃない? やっぱり駅前の喫茶店とは違うわね」
ジーンはやれやれと言いたげな顔をして、小さく笑った。
「君も負けてないと思うけど。それに、素敵って言い過ぎ」
ほとんどジーンの戯言は、百合子の耳には入ってこなかった。彼女の好奇心を駆り立てたのは、前に行く萌黄色の服だけではなかったからだ。
「こちらへどうぞ」
カウンターの前を通り、三階まで天井が吹き抜けになったフロアに案内された。奥行きを感じる縦空間を目にして、二人は期待どおりの内観に、思わず顔を見合わせる。
海老茶色の革張りソファに、木目のシンプルな正方形のテーブル。壁際のソファの後ろに無造作に置かれた洋書も、洒落た空間演出に一役買っている。
フロアには打ち合わせ中らしき男女が二組と、奥にカップルが一組。
百合子たちが段差を降りていると、その場にいた何人かが二人に視線を送った。小声ながらフロアの雑音が、ジーンの耳にするすると入ってくる。
――おい、あれ。
――外人? ハーフ?
――ゴス? あーいうのなんていうの?
――男の方、モデル?
――可愛いぃ。私は着れないけど。
範囲を限定された空間の中では、二人は否応無しに目立ってしまう。
ジーンは周囲の野次馬たちの視線を気にする風もなく、むしろ優雅にほくそ笑み、目が合った商談中の若い男に微笑み返す余裕まであった。
浮ついたお供の方は、口をぽかんと開けて吹き抜けの天井を見上げたり、ショーケースに並んだケーキに目を走らせたり、色々と忙しそうだ。
「こちらのお席になります」
案内されたのはフロアの一番奥にある、よく陽のあたる窓際の席。しかも、壁側の席は広々とした四人掛けの大きなソファだ。
二人が考えることは同じだった。
「君にぴったりの席だね」
コートで若干抑え気味になっていたとはいえ、今日の落下傘スカートは人混みはもちろん、多くの場所で通行の妨げになっていた。
百合子は自覚があるのか、申し訳なさそうな顔をして苦笑いした。
「そうね。お言葉に甘えて、座らせていただくわ」
席の隣は、大学生くらいのカップル。通路側に座っている男は、真顔でスマートフォンの画面を指で叩いている。
男の向かい、壁側に座っている女は、スマートフォンの画面越しに、テーブルの上のフルーツと生クリームがのったパンケーキのアングルを決めかねているらしく、こちらも真剣そのものだ。
納得がいかないのか何枚も写真を撮っていたが、百合子たちの登場に視線をふと上げた。
あまり好意的とは言えない女の視線の中、百合子は裾に注意しながら狭いテーブルの間を横に歩き、四人掛けのソファに近づいていく。
僅かに百合子のスカートが自分たちのテーブルに触れていることに、女は怪訝な目つきをしたが、再びテーブルの上に集中し始めた時。
「ちょ、ちょっと!」
百合子がほんの少し向きを変えようとした際に、カップルのテーブルにあったコーヒーカップの持ち手に、ふわふわのスカートの裾が触れてしまったようだ。
思いの外ボリュームがあったスカートの厚みが、カップを見事に
カップの中のコーヒーは、ソーサーからテーブルの上で小さな水たまりとなり、液体はすぐに床へと滴り落ちている。女の白い細身のパンツに、飛んだコーヒーがシミを作るという悲劇まで招いてしまった。
しかも、女が怒声を上げたものだから、驚いた百合子が急に振り返ってしまった。スカートの裾で女の顔を撫でるという、二次被害をもたらしたことも不幸だった。
背後で起きた惨事に慌て
女は猫が柱で爪とぎをするがごとく、いや親の仇の勢いで、顔の前にある百合子のスカートを両手で叩きまくりながら、店内に響き渡るように叫んだ。
「どういうつもり? 超邪魔なんだけど!? は? コスプレですか? マジむかつくんだけど!」
立ち尽くす百合子にジーンは、スカートを抑えて席に座るように言うが、当事者がそのままソファに座るわけにもいかない。
連れの男は眺めていたスマートフォンを顔から少し離し、呆れた顔で百合子を見ながら、
「あーらら。どうすんの、これ」
連れの参戦で勢いが増したのか、女は遂に立ち上がり、百合子に顔を突き出して言った。
「弁償しなさいよ! それに何? その古臭いドレス。そんな派手な服どうしちゃったの? ねえ? 恥ずかしくないの?」
ジーンと百合子が口を挟む間も無く、繰り出される暴言と降り注ぐ大声に百合子は、居た
早口でまくし立てられたせいか、百合子は女が言い放った言葉の半分くらいしか耳に入らなかったのは不幸中の幸いか。
そのおかげか、こんなの修羅場でもなんでもないわ、と百合子は冷静さを取り戻していた。
あたふたと店員が、数枚の白いタオルを手にして戻ってきた。店員が女にタオルを差し出すと、女はひったくるようにもぎ取った。
女は自分の席に座り直し、腿の上に広がったコーヒーのシミを叩きながら、ブツブツと口ごもりながら文句を言っている。
百合子は抑揚をつけずに、謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません」
女はシミを叩く手を止め、百合子を見上げ睨みつける。
それから百合子は一呼吸置いてから、ゆっくりと頭を下げた。しばらくの間、腰から背筋を一直線の姿勢のままで静止。
仲裁に入ろうとしていたジーンは中腰になったが、百合子の毅然とした態度を見て、ゆっくりと席に腰を下ろす。
百合子はゆっくりと頭を上げ、もう一度、一呼吸してから続ける。
「差し支えなければ、同じものを私に縫わせていただけませんか?」
模範的で美しい動作と、感情を抑えた声音から紡がれる言葉が合わさった時、一種の迫力と強い説得力を伴い、相手に口を挟ませない威嚇にも似た力を発揮することがある。
良くも悪くも意図的ではないにしろ、百合子は女を抑えることができたようだ。
女は暴言を吐き散らすのを止め、代わりに露骨に嫌な顔を向けた。
その間に、テーブルと床の清掃と片付けが終わったことを確認した女は、わざとらしく溜息をついて、今度は呟くように言った。
「なにそれ……そういうことじゃないでしょ……。コーヒーだって……こぼれちゃったし」
百合子は細心の注意を払いスカートを押さえながら、女が座るソファの足元に座り込んだ。
「あなたのテーブルのお会計は私が払います」
「――あ、あのさ、全然分かってないよね! っていうか、あー! めんどくさっ!」
女は憤慨した様子で荷物を手早くまとめると、席を立って足早にフロアから立ち去った。
「おい! 待てったら!」
連れの男も女を追うようにして、やはり席を後にした。カップルの退出により、フロアは静けさを取り戻し、二階のオーディオから流れるBGMが響いた。
ジーンは、聞き耳を立てていた野次馬に顔を向け軽く会釈。すると、客たちは慌てて商談を再開した。
女性スタッフが申し訳なさそうにやってきたので、ソファの間にいた百合子が立ち上がり深く一礼した。
「お騒がせして申し訳ありません。私の不注意で、お隣の方や他の皆様にご迷惑をお掛けしてしまいました」
百合子は顔を上げると「あのお二人の払いはこちらにつけておいてください」と伝えた。
「よ、よろしいのですか?」
「構いません。どうぞお気になさらずに」
店員は「ありがとうございます」と頭を下げた後、気まずそうにメニューを二人のテーブルに置いていった。
ジーンは店員の背中を見送ってから、テーブルに置かれたメニューを取り上げ、「どうぞ」と百合子に差し出した。
百合子は「ありがとう」と言ってメニューを受け取ると、ジーンの含み笑いにつられて、恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり若いお嬢さんには、このワンピースは古臭く見えるのね」
「五周くらい回って、むしろ新しいんじゃない?」
「それも失礼な気がするけど? まあでも……彼女には悪いことをしたわ」
百合子は小さく息を吐き、メニューをめくる手を止めた。目だけでジーンを見上げると、小声で言った。
「私のこと、馬鹿なお婆さんだな、と思ったのでしょう?」
「そんなこと」
「嘘……そのニヤけた顔にそう書いてあるわ」
「思うわけないでしょ」
「嘘だわ」
「怒られている君は可愛かったよ」
百合子はジーンのふざけた言い様に、演技かもしれないが、ムッとした顔を見せた。
「ひどいこと言うのね」
「でも、本当のことだよ」
百合子は眉根を寄せて、メニューに視線を落とす。
裏路地に面した大きな窓から、夕方の赤味を帯びた光が差し込んでいた。
外気の冷たさを感じない、今日という一日最後の陽だまりを浴びながら、ジーンは背中をソファにあずけ、気持ち良さそうに瞼をゆっくり閉じた。
百合子の目に映るジーンは、恐ろしいはずの死神とは程遠く、彼を形どる造形の全てに、乙女の嘆息を胸中に漏らすのだった。
「素敵だわ」と。
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