第2話 いまわのきわのラブコール 2
吐息に耳をくすぐられ、全身を緊張の糸で縛り上げられたように、痩せた体を硬直させる。判を押したような笑顔の死神を一瞥すると、百合子は吐き捨てるように言った。
「心残り? 特筆すべきことは何もないわ。それに、この老婆にお嬢さんだなんて。正気の沙汰じゃありませんね」
死神は少し驚いた顔をして、老婆から体を離すと苦笑いした。
「いやぁ、僕の方が年上なんですけどね」
喉の奥から込み上げてくる慟哭を抑えようと、百合子は震える両手で口元を弱々しく覆う。
「泣いているんですか?」
死神は肩をすくめた。
続けて「意外と泣き虫なお嬢さんですね」と言って、くすっと笑った。
百合子が睨みつける。
「あなたに……老いた私の気持ちなど、分かるはずもないわ」
ベッドから立ち上がった死神は、優雅に靴音を響かせ窓へ歩み寄った。窓を背にリラックスした様子で、老婆を見つめる。
視線に気づいた百合子は棘を隠すように、体を小さく丸めながら、今にも消え入りそうに呟く。
「――私を見ないで、お願い」
死神は眉根を寄せ、うつむく老婆に尋ねる。
「なぜ?」
老婆の閉じた目の端に、薄っすらと涙が滲んでいる。
死神は今にも消え入りそうな老婆から目をそらし、唇を噛んだ。
「前言撤回。つまらないことを聞いてしまいました――」
百合子は平静を装った。
次の言葉を聞くまでは。
「ずっと一人で、寂しかったのではないですか?」
その声は哀れみでもなく、
死神が口元を緩め、次の言葉を口にしようとした時、老婆が右手を上げた。
「そこまでよ。あなたが言おうとしていることは、だいたい想像がつくから」
そう言うと、百合子は力なく腕を下げた。
老婆の憂鬱に揺れることなく、死神はにこりともせずに言った。
「あなたは処女ですね」と。
月の光が届かない夜を背にして、死神は胸の前で組んでいた腕をほどくと、泣き出しそうな老婆に右手を差し出した。
「僕なら――あなたの孤独を癒すことが出来ますよ」
恥ずかしさと憤りの感情が混ざり合い、今にも発狂しそうになりながら、説明できない奇妙な温かさを感じている自分を呪った。
「静まれ、静まれ」と呪文を唱えるように、心の中で何度も呟いてみるが、内に点った種火は消えそうにない。
古い壁時計の秒針は、その存在感を示さんとばかりに、静寂の中で音を響かせ時を刻んでいる。
上目遣いに覗き込み、うらめしそうな声で尋ねる。
「――私を救える、と言いましたね?」
「救うとまでは、言ってないはずなんですが」
苦笑する死神を見て、百合子は先走った自分の妄想に頬を上気させ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ともかく……今の私には、あなたに差し上げるものは何もないの。何がお望み?」
目の前に立っている死神は優美な笑みを含ませて、「そうですね」と呟きながら顔を窓に向けた。
星を探すように夜空を見つめている、ローアングルから見る死神の彫刻のような横顔に、百合子は惚けた顔で見入ってしまう。
しばらくの沈黙の後、死神は老婆に視線を戻した。
ふいに目が合った百合子は、見つめ過ぎていたことに気づき、恥じ入るように目を伏せる。
心中で手を合わせる老婆の気持ちを知ってか、死神は笑みをこぼした。
「あなたとの時間をください」
「――じ、時間?」
「ご心配なく。僕は優しいですよ」
「や、やめてちょうだい! そんな冗談は!」
「冗談なものか。僕は本気です」
飄々とした死神に、百合子はうつむき呟いた。
「私は死んでいるのでしょう? それに……女としての自分も、とうの昔に忘れました」
最後の方は尻すぼみになり、聞こえないくらい小声になった。
死神は優しく微笑み「忘れているはずがありません」と言い切り、老婆と向き合うように、掛け布団の上にそっと腰掛けた。
「とっておきの媚薬をあなたにプレゼントしましょう」
百合子は顔を上げた。
「そんな
「まあまあ」
死神は
「今夜は、くしくも新月だ。長年、
穏やかで温かいのに、どこか冷たい声は、ゆっくりと百合子の耳の中に流れこんでくる。その心地よさは体全体にまわりだした。
溺れてしまいそうで恐くなる感覚。
なんで今更、という声が聞こえる。
涙を
「私は……何もかも終わらせたいだけなのに……。この後に及んで、どうしてあなたは私に選ばせようとするの?」
死神は老婆の冷たい頬を手で包みこみ、百合子の揺れる心に
「僕を選べばいい。二人で手をつないで出かけよう。アイスクリームを一緒に食べたり、映画を見て意見交換もしよう。そして僕は、あなたを何度でも抱くよ」
眼前にある奇跡は見惚れるほど美しく、百合子は忘れていた感覚が細胞の一つ一つに染み渡り、再起してゆくのを感じずにはいられなかった。
白い燕尾服の内ポケットから取り出されたガラスの小瓶。中で生き物のように揺れ動く七色に光る液体が、百合子の目を釘付けにする。
差し出された媚薬を両手で受け取ると、無表情で「選ぶわ」と、ただそうポツリと言った。
申し出を拒む理由が、見つからなかった。
小瓶の蓋には小さなリボンが装飾されているように見えたが、手のひらに小瓶をのせ、ゆっくりと自分の目の位置まで掲げてみると。
――二匹の龍が8の字を描いているわ。これは……とても。
「美しいでしょう?」
老婆の心の声に、死神が言葉を繋げた。
見ず知らずの男の視線に見守れながら、震える指先で小瓶の蓋を抜き取る。百合子は躊躇なく、液体を一気に喉に流し込んだ。
「お見事」
死神は百合子の潔い飲みっぷりに、白い歯を見せた。
ものの数秒で意識は遠のき始め、静かにゆっくりと前のめりに体が傾いていく。枯れ葉のように軽い百合子の体は死神の両手で受け止められ、しっかりと抱きしめられた。
男の胸に顔をうずめていると、深海に体が沈んでいくように心地よく、徐々に穏やかな眠りに落ちていくのを感じた。
死神は、腕の中で次第に重みと柔らかさを取り戻していく百合子の肢体を確認すると、ゆっくりと瞼を閉じ、満足気に天を仰いだ。
そして、百合子の髪にそっと唇を近づけ、眠りについたばかりの子供に語りかけるように、声をひそめて言った。
「また明日」
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