死神と完全変態する私

第１章 ラブコール

第1話 いまわのきわのラブコール １

　東京。

　世界でも有数の大都市であり、国の人口、三分の一近くが集まる密集エリア。

　これだけ多くの男女が集まっていても、出会いがないと感嘆の吐息をもらす、もしくは絶望感に苛（さいな）まれている乙女たちは少なくない。

　ここにも高い鉄壁で自己を護り続け、当の昔に明るい未来など諦めたようで諦めていない乙女がいる。

　緑に囲まれ、落ち着いた風格を醸し出す重厚感ある低層マンションや、豪勢な一軒家が立ち並ぶ世田谷の一角にある、街に不似合いな赤煉瓦風のタイルで覆われた建物。

　誰もが羨（うらや）む幸せの中に埋没してしまいそうな、この古びたマンションに暮らす早乙女百合子の部屋は、消え入りつつある命同様に、すっかり暗闇と静寂が支配している。

　聖夜を楽しむ世間様を他所に、百合子は早々とベッドにもぐりこんでいた。

　彼女は瞼を閉じる前に、ベッドから窓に目を遣（や）るようにしている。これは習慣となっている儀式だった。

　何故なら、ちょうど良い具合に月が見えるからだ。

　今宵の空は、とりわけ美しい。

　金色の指輪を思わせる月が、漆黒の空にぽっかりと浮かんでいる。

　一人きりの寝室に、乾いた独り言が響く。

「そう、今夜は新月ですか」

　何処から来たのかも分からないし、貰った記憶もない、雑に置かれた窓の小さなクリスマスツリー。楽しい聖夜には程遠い、なんとも侘しい風景だ。

　ぷいっと目をそらし天を仰げば、暗い天井が見下ろしている。天井を半目でぼんやり見つめ、ふと思った。

　一人で生きて一人で死ぬ運命。

　そんな泣き言が浮かんでくる自分に少々驚いていた。

　やりきれない気持ちの重さを感じるには遅すぎる。

　人生最後の夜を、九十歳で迎えようとしていた。

　分岐点となった二十六歳、早春。

　断崖絶壁を背にして選んだ道は、一人で生きること。孤独を胸に抱きしめ、歩んだ六十年を超える歴史も終わろうとしている。

　今際の際に、仕舞い込んでいた記憶の欠片（かけら）が集合し始め、古ぼけた思い出となり、次から次へと脳裏をかすめていく。

「何を今更……くだらない」

　忌々しそうに、溜息をついた。

　先ほどから気になる隣の居間へ続く扉に、ゆっくりと視線を送る。と言っても、たるんだ上瞼から覗く視界の先は、モネの水彩画のようにぼやけていた。

――全部くだらない。鬼でもなんでも入ってくればいい。最初で最後の客人だもの。歓迎しようじゃないの。

　自虐的に口元に歪んだ笑みを浮かべながら、ベッドから半身を起こそうとすると、重力を感じないほど体が軽いことに気づいた。

――私、死んじゃったのかしら？

　ならば、すぐそこで百合子を待っているのは一人しかいない。

　見えるはずもない扉の向こう側に目を凝らしてみる。

　全身総毛立つとは、このこと。すうっと背中をなぞるような冷たい感覚が教えてくれた。人ならざる者の存在を。

「……お入りなさい」

　ドアノブがカチャっと控えめな音をたてる。

　優しげな笑みをたたえた青年の姿が、目に飛び込んできた。愛想の良い正体不明のセールスマンにしか見えず、どうにも疑わしい。

――これが死神？　あの出で立ちは何？　教会で結婚式でもあげるつもり？　なんなの？　バカなの？　嫌味なの？

　にこやかに行儀よく、扉の前に立つ青年は、まるで花嫁を迎えにきた花婿のようだ。仕立ての良い真っ白な燕尾服が似合っており、清々しいほどに穏やかな佇まいをしている。

　瞳はブラウンとグリーンのグラデーションが美しい榛色。瞳にかかる銀髪との相性はよく、派手さはなく、むしろ落ち着いた印象を受ける。

　生と死の両岸に立つ死神とは思えない、不思議と体温を感じる血色のよい白い肌も目を引いた。

　切れ長の瞳は、真っ直ぐと老婆に向けられている。

――眼鏡を掛けなくったって見えるってことは、まあ、そういうことなんだろうけど。こんなに若くて、きれいな人だなんて……私、聞いてないわ。

　もともと持ち合わせの少ない気力を、更に削り取られた気分に陥り、鬱屈とした顔つきで、首をゆっくりと横に振る。

　死神は軽く会釈し、

「お迎えにあがりました」

　この妙に明るい物言いも百合子の勘に触った。

　ドライブにでも誘いに来たような軽い口ぶりで、

「参りましょうか？　手ぶらで結構ですよ」

　眉目秀麗な男が自分の部屋にいる違和感。

　自身が招き入れたとは言え、百合子の瞳に困惑の色が浮かぶ。

――状況からして疑う余地もないのだけれど。私、もう死んでる、ってことでいいのよね？

　老婆の疑惑に満ちた視線を気にすることもなく、死神は朗々と語り始める。

「誰にでも等しく死は訪れるもの。僕の役割は、あなたをあちらまでエスコートすること。それだけです」

　最後に、にっこりと白い歯を見せる。

　警戒を解こうとしない老婆に、死神が靴音をたてながら、ゆっくりと近づいてくる。首をかしげて死神は言った。

「率直に申し上げても、よろしいですか？」

　百合子は青年の真顔に狼狽しながら、ええ、と短く返事した。

　死神は老婆の許可に小さく頷き、「まあ、そう固くならず」

　そして、明るく事もなげに言った。

「随分長いこと、お待ちいただいたようで。生きているのに死んだような人生、お疲れ様でした」

　丁寧で礼儀正しい態度に、尊大な青年の言葉。

　百合子は片眉をぴくっと上げた。

　顔に出ぬよう努力しながら、内心で激しく死神を罵倒した。

――慇懃無礼！　失礼千万！　嫌な奴！

　人間、歳を重ねていけば、角も棘も牙も抜けていくものだが、百合子の全身を覆っていた無数の棘だけは、執念深く残っている。

　身を守る棘でもなければ、前に進めなかったのかもしれない。

「ご丁寧にどうも。ええ、待ってましたとも。忘れられたんじゃないかって、心配してたくらいにね」

　死神は「それはどうも失礼いたしました」と軽く会釈。

　これがまた腹立たしい事この上ない。

　もうこれ以上、近づいて欲しくない、と恐れを感じている。

　百合子は億単位の人間が存在する世界の住人の一人でありながら、自身が作り出した無人島で暮らしてきたようなものである。

　その孤島に若い男が小舟で漕ぎ着け、片手を上げて笑顔で、やあ、と言いながら、砂浜をズカズカと歩み寄ってきたなら、百合子はジャングルの奥へと姿を隠してしまうだろう。

　今がまさにその時。

　同時に恐怖にも似た胸のトキメキ。

　心の奥底に沈んでいた、夢の残滓が浮上したせいだ。

　最後の最後に捨て切れなかったもの。

　長い間、見ぬふりしてきたもの。

　目を潤ませる老婆の耳元に顔を寄せ、死神は嬉しそうに囁く。

「心残りはなんです？　お嬢さん？」