人が恋に落ちるのは、万有引力のせいではない。Ⅳ

***


 暗い部屋。軋むベッド。漏れる吐息。


 時間は日もまだ落ちない午後四時半を少し回った頃。締め切ったカーテンの隙間からオレンジ色が微かに漏れる。


「はぁ……はぁ……」


 頭の中の彼女が、顔を紅潮させて僕を見ている。その顔は穏やかで、肌色のその姿はとても綺麗だった。


「っぐっ!」


 僕の言いなりで思うがままの、そんな彼女を僕色に染め上げて、意識が飛びそうな程の絶頂エクスタシーを感じると、水面が揺れる様に彼女は消失した。


「……ふぅ」


 全てがどうでも良くなる感覚に陥って、閉じていた目を開けて僕は天上を見た。


「毒ヶ杜さん……ごめんなさい」


 自分以外誰もいない部屋で、小さく呟くと寝そべった身体の上体を起こした。

 脱力したまま身なりを整えると、部屋を出て洗面所で手と顔を洗う。


「……」


 正面の鏡に映った自分は酷く醜い顔をしていて、自分である事を忘れて嫌悪感を抱く。


「ただいま~」


 そこで玄関から母さんの声が聞こえてきた。きっと夕飯の買い物から帰ってきたんだ。

 タオルで顔を拭いて洗面所を出ると、母さんが両手に袋を持ってこちらに歩いてくる。


「ただいま」

「おかえり、母さん」

「今から夕飯作るから、待ってて」

「うん。出来たら呼んで」


 何でもないありふれた親子の会話。


 階段を上って自分の部屋に戻ると、パソコンデスクに着く。

 パソコンの電源を入れて、リクライニングチェアにどっしりと背中を預けた。


***


 それから数時間、適当にネットサーフィンをした僕は、母さんに呼ばれて夕飯の卓に着いた。


「いただきます」


 今日の夕飯はコロッケだ。外はカリカリ中はホクホク。メンチよりコロッケ派の僕は、その美味しさに箸が進む。

 もちろん母さんも、僕がコロッケの方が好きなのを知っていて、作ってくれたんだ。


「美味しい?」


 僕の正面に座る母さんは、両手で頬杖をついてそれにあごを乗せて聞いてきた。


「うん。美味しいよ」


 素直に返事をする。


「よかった。おかわりあるからいっぱい食べな」


 茶碗の中のご飯を口の中にかっ込んで、勢いよく茶碗を前に差し出した。

 母さんは茶碗を受け取ると、おかわりのご飯をキッチンによそいに行く。


「あーそういえば」


 数秒後、キッチンから母さんの声が聞こえた。


すなお。お弁当箱洗いに出しておきなさいよ」


 おかわりのご飯をもりもりに盛って戻ってきた母さんがそう言った。


「今日忘れて持っててないよ」


 受け取った茶碗にもりもりに盛られたご飯を口に運んで言った。


「何言ってんのよ。ちゃんと母さんがカバンに入れたよ」

「入ってなかったけど。だから今日は学食で済ました」

「今日朝、顔洗いに洗面所に行った時、入れたって」

「入ってなかったって。そのおかげでお小遣いが少し飛んだんだから」

「じゃあ、お弁当箱は?」

「知らないって! 本当になかったんだから」


 それを聞いた母さんは、わざとらしく溜息をついて、高校生にもなってお弁当箱なくすとはと、頭を抱えた。


「だから僕は知らないって! 家のどこかに置いてあるんじゃないの?」


 最後にごちそうさまと声高らかに言うと、立ち上がって食器を流しに置いた。

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