帳簿検査マニュアル
翌日の夕方、早くも新潟県庁の加賀から電話があった。
「検査の手法についてたいへん感銘を受けました。明日にも勉強に行きたいんですが」
「えっ明日ですか?」さすがの伊刈も昨日の今日のことで驚いた。
「環境事務所だけにお伺いするのは出張理由として難しいので、県庁と市庁にも寄りますが、主眼は伊刈さんにお会いすることです。これは知事命令なんです」
「知事に報告されたんですか」伊刈は県外調査をしたことを本課にすら報告していなかったので、新潟県の風通しのよさになおさら驚いた。
「今日ミハスかスローライフに寄るかい」電話を終えた伊刈は喜多に耳打ちした。
「スローライフは寄りにくいんです」
「彼女がいるからか」
「エリちゃんと付き合ってるの親父にばれちゃいまして」
「親は関係ないだろう」
「公務員が高校生と付き合うのはまずいって」
「援交じゃないだろう」
「スローライフには行かないって親父に約束しましたから」
「きっとおまえら結婚するよ」
「全然そんなのありえないですから」
「それじゃミハスで待ってるよ」
伊刈が先にミハスに着いた。五分遅れて喜多もやってきた。
「班長から誘うなんて珍しいですね」席に着くなり喜多が言った。
「明日新潟県庁が勉強に来るっていうから予行演習だよ」
「え、もしかして加賀さんですか」
「知事命令だってよ」
「あそこの知事ってタレントでしたよね」
「芥川賞か直木賞かもらった作家じゃなかったかな」
「こんな遠くの市のちっちゃな事務所まで知事命令で来るんですか。やっぱり違いますね」
「職員はたまんないだろうなあ。県職員には無能な知事のほうが御しやすいだろうね」
「何でも知事が決めてるんじゃないんですか」
「知事どころか県が主体的に決められる事業だってほとんどないんだ。なまじっか知事に介入されても面倒なだけでなんも変わらん。一つか二つ花を持たせるくらいのとこだ」
「加賀さん、よほど班長の帳簿検査に感動したんですね」
「ゴミは捨てても領収証は棄てない。つまり会計書類には不法投棄の証拠が残る。それだけのことだろう」
「コロンブスの卵ですよ。今まで誰も決算書で不法投棄がわかるなんて思ったこともありませんよ」
「そのうちみんなやるようになるよ。それがコロンブスの卵だろう」
「考えてみれば当然ですよね。不法投棄で儲けていれば決算書に不自然な収益が上がりますよね。マニフェストで不法投棄を防止するって国は言ってますけど、不法投棄のマニフェストなんてあるわけないです。マニフェストより決算書ですよ」
「マニフェストは大事だよ。あれがないと勝負にならない」
「どうしてですか」
「わかってると思ったのに。マニフェストの受託量と会計帳簿の受託量の違い、それが不法投棄の証拠だろう。マニフェストがないと比較するものがないじゃないか」
「つまり班長がいう嘘の中の一部のほんとですね」
「それはちょっと違うかなあ。何かをチェックするってことは、二つの何かを比較するってことなんだよ。二つないとチェックできない。計画と結果とか、理論と実験とか、占いと現実とかね」
「二つですか」
「1は独断論、2は弁証法、3は信仰を象徴する数字だよ。そんなことより帳簿検査の復習だ」
「不法投棄というとタダでゴミを棄てることだと思ってました。でもそうじゃないんですね。不法投棄だってタダじゃない。処分場は一発屋に一台十万円払っているから千台頼んだら一億円かかります。領収証をもらわなければ社長のポケットマネーから払うことになっちゃいます。そんなことはありえないですから領収証はちゃんともらってて、会社の経費で落として、確定申告では損金に算入しているはずですよね。だからどんな費目にせよ会計帳簿には不法投棄の証拠が残っている。お金は嘘をつかない。ゴミは捨てても領収書は捨てない。これが伊刈流帳簿検査の極意です」
「加賀さんの講義は喜多さんに任せようか」伊刈は頼もしそうに喜多を見た。さすが税理士の子だと思った。
「やめてくださいよ。全部班長の受け売りなんですから。しかし僕らがこんなことしてるなんて誰も知らないんでしょうね。こないだの撤去の報道だって、結局チームゼロの夜パトの成果だって説明になってました。でも夜パトなんて全然関係ないですよね」
「鎗田課長がそうコメントしたんだろう。夜パトは素人にもわかりやすいからな。会計帳簿検査で撤去させてますってテレビ的にはムリだろう」
「班長こそ税理士になられたらよかったですね。それとも公認会計士ですか。いや監査法人ですよね。とにかく公務員じゃもったいないですよ」
「公認会計士なんてやだな。毎日同じ仕事の繰り返しじゃ飽きちゃう」
「公務員だってそうじゃないですか」
「これで意外と役所は刺激的だよ」
「班長は特別ですよ。仕事の楽しみ方を知ってるんです」
「それは自分の工夫だろう。仕事が面白くないってぼやくやつは仕事を面白くする努力が足らないんだよ」
「それって班長が言うと説得力ありますね。不法投棄やった会社に行って、いきなり決算書を見せろって班長が言うとき、僕はなんだかゾクゾクしちゃいます」
「どうせならもらいにくい書類から先にもらっといた方がいいからね。後から出し渋られるとめんどうだから」
「確かにそうですね」
「帳簿検査の手順を標準化しておきたいんだ。それで喜多さんに手伝ってもらいたい」
「ほんとはもうマニュアルを完成されてますよね。いつもミハスで原稿打ってるじゃないですか。あれって会計書類検査マニュアルじゃないんですか」
「加賀さんに渡す程度の原稿ならあるよ」
「もしかして僕は実験台ですか」
「とにかく検査の手順を復習してみようよ」
「わかりました」喜多は気合を入れるようにコーヒーの残りをぐいと飲み干した。
「決算書を持って来たら最初に見るのは何?」伊刈が喜多の実力を試すように問いかけた。
「売上高です。それを処理単価で割れば年間受注量が出ます。それを年間稼働日数で割れば一日の受注量になります。それと許可証に記載された処理能力を比較します。受託量が処理能力の二倍以上ならオーバーフロー受注分が未処理のまま流出している可能性が高くなります」
「すごい、百点だ」
「だって班長がいつも言ってることじゃないですか」
「今度は実際の計算をやってもらえるかな。一日の処理能力十トン、年間稼働日数三百日、処理単価三万円で標準化すると売上高はいくらかな」
「九千万円です」
「すごい、天才だ」
「茶化さないでください」
「九千万円は半端だから、おおむね一億円でいいと思うよ。処理能力一日十トンで年間一億円だね」
「十トン一億円ですね。これなら簡単だ。これが頭にあれば売上高を見た瞬間に受注が二倍以上かどうかわかりますね」
「一秒でわかるよ」
「秒殺ですね」
「今度検査に行ったら喜多さんが売上高を見てブロックサインを送るってのはどうかな。オーバーフロー受注が二倍以上なら徹底的に検査する五時間コース、オーバーフローがなさそうならそこそこで引き上げる二時間コース」
「そんな大役が僕でいいんですか」
「理屈がわかってれば誰だってできる」
「これこそコロンブスの卵ですね」
「だけどそこからが難しいよ。売上高を見たあとはどうする」
「実際にオーバーフローがあるかどうかを調べるため総勘定元帳を提示させ、売掛帳などの補助簿も出させ、最後には領収証綴りを一枚一枚めくっていくんです。つまり税務検査です。それからマニフェストの数量の積み上げもやっておきます。マニフェストが千枚あればその合計を計算して、マニフェスト上の受注量と売上高から推定した受注量を比較するんです。そうするとマニフェストのない受注量がわかります。残渣の処分量についても会計帳簿の外注費と二次マニフェストの外注量を照合します」
「できたじゃないか。明日はこれで行こう」
「ほんとに僕は必要だったんですか」
「喜多さんがわかるんなら加賀さんでもわかるってことだよ。それを確かめたかったんだ」
「やっぱり実験台だと思いましたよ」喜多はまんざらでもなさそうに笑った。
翌日の午後一番、加賀が同僚を伴って環境事務所を来訪した。
「教えていただきたいのは帳簿検査なんです」挨拶もそこそこに加賀が言った。
「そう思ったのでマニュアルを作っておきましたよ」
「ほんとですか」
「まだ誰にも見せたことがない原稿です。書きかけだったんで急いでまとめました。お時間はどれくらいありますか」
「今夜は新潟には帰りませんからいくらでも大丈夫です」
「それじゃ朝まででも」
「ええお付き合いします」加賀はまんざら冗談でもないように答えた。
喜多を同席させての帳簿検査手法の講義は午後いっぱい続いた。昨日ミハスで喜多が聞いた内容とは話の深さも広がりも全然別格だった。どうして四時間も話し続けるネタがあるのか喜多は改めて伊刈の会計の知識の深さに驚くばかりだった。
「犬咬市が入手した証拠を流用して新潟県が行政処分をされるのは困ります。新潟県庁で改めて検査をされて同じ証拠を集めてもらえますか」講義が終わった後で伊刈は大和環境から入手した資料や現場調査資料のコピーを渡しながら言った。書類の厚さは十センチあった。
「ご事情はわかりました。ご迷惑はかけません」加賀は満足そうに頷いて立ち上がった。
新潟県に帰った加賀は伊刈直伝の手法を駆使して大和環境に対して二日がかりの再検査を実施した。その直後、新潟県警も強制捜査に着手し大和環境の関係者が検挙された。新潟県内では県産協理事長逮捕という衝撃的なニュースとして伝えられた。犬咬市で関心を寄せるメディアはなかった。大藪は梨のつぶてだった。
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