「君の心臓が僕に小説を書かせる」★★★★★

 今回読んだのはキキョウ文庫第17回ライトノベル新人賞受賞作、七藤しちふじもず先生の「君の心臓が僕に小説を書かせる」です。ラブコメとしての糖度もかなりのものでありながら、高いメッセージ性、小説を書くその行為の意味についても深く描かれている素晴らしい作品でした。

 以下あらすじ。


 ――――――


 心臓の病気で余命宣告を受けていた少年・後藤春也は、急遽現れたドナーからの臓器提供により、無事にその命を長らえることになる。数ヶ月後、無事に退院して久しぶりの自室に戻った春也の頭の中に声が響く。『へぇ、ここが君の部屋か。閑散としている』春也の意思と関係無く聞こえてくるその声は、自身を移植された心臓の持ち主・夏川麻里奈を名乗った。そして麻里奈は、春也に一つの要求を突きつける。

『君の命を救った礼として、私の代わりに小説を書いてくれないかい?』


 ――――――


 ざっくりと言えば、主人公・春也が心臓の移植手術を受けたらそこにドナーの魂がくっついてきて、小説を書くことを頼まれる話です。臓器提供を受けた患者の好みが提供したドナーのものに近づく……的な話は聞いたりしますが、心臓と一緒に本人の魂まで来るのはとてもスピリチュアル。

 主人公の春也も最初幻聴なんじゃないかと疑います。そりゃそうだ。しかし自分の知りようもないIDとパスワードで、麻里奈まりなの利用していたSNSや小説投稿サイトのアカウントに入れてしまい、春也もひとまず彼女の存在を認めることにします。


 麻里奈が最初に春也に頼むのが、もう使わないSNSやらネットサービスのアカウント整理なのが良いですよね。自分が死んだ後の有料サービスの解約は、誰にでも考えられる問題なわけですし。ドナーの霊というフィクションと、死後のアカウントという二つのリアリティの乖離がまた不思議な没入感を生み出します。


 麻里奈の一番未練としているのが、書きかけだった小説を完成させて新人賞に応募すること。その未練を果たすために、春也に続きを書く手助けをしてほしいというわけです。命の恩人の言うこと聞けないのかと散々言われ、春也は麻里奈に協力することになります。

 しかし麻里奈は最初からネットで書くのではなく、初稿をまず原稿用紙に書くタイプの人間。ひとまずは麻里奈の原稿を手に入れるため、春也は彼女の自宅のある東京に向かうことになるわけです。


 初稿をまず紙で書く作家となると、ラノベだと石川博品先生が挙げられますね。確かに紙で書くことの良さ、みたいなのも分からなくないです。

 もう二年近く前の話ですけど、僕も原稿用紙を買ったりなどしましたねぇ……あれはお遊びでしたけど。リコーダーを舐めることに人生をかけた男と蠱惑的な旋律を奏でるゴスロリ少女のホラー、『前戯曲・魔笛』というネタが当時頭の中に浮かんでいたりなどしたわけです。んで、その時にコンビニで原稿用紙が置いてあるのを見かけたから、じゃあ原稿用紙で書いてみるかー! と勢いでレジに持っていきましたね。


 閑話休題。


 かくして東京の麻里奈宅に向かった春也。その道中は、胸の中をひたすらに様々な感情が駆け巡ります。そりゃあ、自分にしか聞こえない声に頼まれて、存在しているのかも分からない家に向かっているわけですからね。免疫抑制剤を使っているため公共機関を控え、社会人の姉の車で向かいます。

 このお姉さんも良いキャラしているんですよね。ずっと病院で生活していた弟が行きたいところがあると言いだしたわけだし……とあまり理由を深く聞かず、行動にある程度の制限を設けただけで了承してくれる優しさ。そのまま「心臓の持ち主の魂から頼まれたから」などと言われても信じるのが難しいでしょうし、春也もそのままは言えませんでした。理由を聞かれて困る、という場面って以外とありますよね。


「あの、一つお聞きしたいのですが」


 件の原稿用紙をレジに持っていった時、会計をしてくれた店員さんが僕にそう話しかけてきたときもそうでした。会計が終わり話しかけられるとは微塵も思ってもいなかった僕は、「え、あ、はい」と返事になっていないような言葉を返します。


「この原稿用紙は、何に使うんでしょうか?」


 何故そんな質問を……?と僕が呆気に取られていると、その僕と同い年――二十歳くらいの女性店員さんは捕捉を付け加えます。


「いやその、今どき原稿用紙が必要な場面ってどんな時なのか、前々から疑問に思ってたんです私。高校生とかなら学校の読書感想文とかで使うかもしれないですけど、そうでもなければ使いようがないんじゃないかって。だから決めてたんです。もし私がバイトしている間に原稿用紙を買う人がいたら、何に使うつもりなのか聞いてみようって」


 彼女の言葉を聞きながら、なるほどそれは確かにと僕も思いました。事実、僕も変な気さえ起こさなければ原稿用紙を買う機会なんて皆無といっていいでしょう。

 では、僕が原稿用紙を買った理由は何か。


『リコーダーを舐めることに人生をかけた男と蠱惑的な旋律を奏でるゴスロリ少女の、官能小説風ホラー短篇を書こうと思ったので』


 ――言えるわけあるか!!!!!

 しかし気の利いた嘘も思い付くわけでなかったので、結局は「趣味で小説を書いてて、原稿用紙に書きたい気分になったので」とぼんやりと事実を伝えて店を出たのでした。


 いかんいかん、話を戻しましょう。


 学校の友人と称して麻里奈の家族と面会し、それから麻里奈の部屋に入る春也。故人とはいえ、女子の部屋に入るのが初めてな春也は緊張しまくりなのですが、そのドキドキしている心臓はその部屋の持ち主たる麻里奈の心臓であるので、春也の心理は全部筒抜けなわけなんですよね。そこをおちょくってくる麻里奈と、完全にやられるばかりの春也の関係性がまた甘いのなんの。

 そして麻里奈がどんな見た目をしているのかというのも、春也はこの時初めて知るわけです(麻里奈はSNSで自分の写真を上げるタイプの人間でない程度には陰キャであり、だからこそ小説を書いている、という論理も中々好き)。

 口調なんかから結構派手な見た目をしているのではと思っていたら、実際は野暮ったく前髪を伸ばした幸薄そうな感じであることが分かるあの瞬間、たまらないですよね。ギャップ萌えというやつです。「なによ、言いたいことがあるなら好きなだけ言えば?」と言われるけど、普通に可愛いと思ってしまったから言葉が詰まる春也と、それに気付き何も喋らなくなる麻里奈。甘い、甘すぎる。読んでいて滅茶苦茶膝を打ちましたよ拙者。

“帰りの車内では、麻里奈が何か話しかけてくることはなかった。” で章を締めるの最高では? はぁ……やっぱギャップなんだよなぁ。


 *


 ギャップといえば、彼女である。


「あ、原稿用紙の人」


 休日の書店、そんな声に振り向いてみれば一人の女性が立っていた。

 下ろせばそれなりに長さのありそうな黒髪をポニーテールにまとめ、前髪はヘアピンで留めている。背丈はまぁ、平均くらい。黒縁の眼鏡をかけ、ベージュのパーカーにジーパンとシンプルな服装からは落ち着いた印象を受ける。

 こんな知り合いいたっけ……と考えてすぐ、原稿用紙という言葉に繋がる女性が一人いることを僕は思い出した。


「あぁ! もしかしてコンビニの」

「はい。その節は失礼しました」


 頭を下げてから上目遣いで見てくるその顔は、確かにどこかで見たような顔だった。


「ああいえ、あのくらいなんでも」


 お辞儀をして目線を彼女の靴ほどに下げながら、なんで話し掛けてきたんだこの人は、もしかして僕に気があるのではないか……と搭載された童貞演算装置はシミュレーションを開始する。とりあえず、下心はそっちで泳がせておくことにした。


「本、好きなんですか?」

「ええまぁ、読むのは主にライトノベルですが」


 僕達がいるのは、いわゆる大衆小説の棚の前だった。良くないのかなと思いつつも、こういう状況で尋ねられるとライトノベルが下であるかのように話してしまう。治したい癖だ。

 しかし、これに対する彼女の反応は悪いものではなかった。


「へぇ、ライトノベル。私あれ好きです、『常雪を見に。』」


『常雪を見に。』といえば、ちょうどその年のかくラノで一位を受賞して完結した作品だ。以前アニメ化もしたが、そっちの評判はあまりよくない。

 魔法の無いファンタジー世界で、画家の卵である青年クイルと、その婚約者のセイラのふたり旅を描いた常雪は、その評価の多くを文章に宿る空気感、派手さこそ無いが堅実で伏線も巧みなストーリーによって得ていた。それがアニメでは良いとはいえない作画と無駄にオリジナル要素を入れようとした脚本によって作られてしまい、自分を含む原作勢は肩を落としたのだった。彼女が肩を落とした側なのかは、聞くのが躊躇われた。


「弟が読んでて、それを借りて読んだんですけど。文章がなんというか、暖かいですよね。あの二人の距離感とかも良くて」

「あー、分かります。彼が愛しているのは私じゃない、っていうセイラの諦めたような態度と、けど時々期待をしてしまう感じとか」

「そうそうそう! ああいうの尊い!」


 ぱっ、と彼女の表情が明るくなる。共通の話題は偉大だ。会話が成立する。

 しかし、あまりオタク感のない見た目なのに、随分と反応がオタク的だ。そこに僕はギャップを感じていた。Oh, this is ギャップ。浮かれた僕は、駄目なオタク特有のさらなる情報というトーク術を繰り出していた。


「そういえば、先月ぐらいにアンソロジーも出ましたよね」

「あ、そうなんですか? 私読んでないです」

「クイルの絵を貰った人達のその後の話を、それぞれの作家さんが書く、という感じの話でしたよ」

「え、気になる。まだありますかね?」

「行けばあるんじゃないですか?」

「よし、行きましょう!」


 勝手知ったる、という感じで、女性はライトノベルコーナーへと歩き出した。結果として在庫はちゃんとあり、彼女はアンソロジーを買うことができた。途中で帰るのも気まずくなった僕は、彼女が会計をするのを遠目で見ていた。

 あまり待たずに、彼女は袋を抱えてやって来る。


「ありがとうございました。教えてもらわなかったら一生読まなかったかも」

「ああいや、むしろ買わせてすいませんという感じで……」


 などと謙遜のやり取りをひとしきりやったところで、落ち着いた彼女は「その、」と切り出す。


「あの時の原稿用紙で、もう何か書いたんですか?」


 ヒュン、と血の冷える音が聞こえた。

 そう、結局僕はあの原稿用紙に『前戯曲・魔笛』を書いていたのである。少女のリコーダーをねぶるために夜の小学校に忍び込むようなやつが主人公の話の出だしを、僕はその原稿用紙の四枚を使って書いていた。さすがにそれは言えまい。


「ま、まぁ少しは? ま、まだ全然なんですけど」

「へぇ、どんなお話なんですか?」

「えーとその……一人の男が、とある少女(の吹いているリコーダー)に心奪われる話というか何というか……」

「ふーん……」


 作り笑いで難を逃れようとする僕の顔を見上げる彼女。

 少しばかり、顎に手を当てて考えてから、


「じゃあそれ、書き上がったら私に読ませてもらえませんか?」


 そう言ってきたのだった。


 *


 麻里奈が書いていた小説は、言ってしまえばありきたりに括ることができるようなボーイミーツガールでした。偶然の出会いから関わるようになった少女のその悲運な状況に、どうにかしたいと思った《僕》が、悩みながら、藻掻きながら、時に少女を傷つけてしまい泣きながら……それでも手を伸ばそうとする、そんなお話。


「なんというか、ありきたりだな」


 そんな春也の言葉に麻里奈は滅茶苦茶怒りますが、だからこそ、と春也は繋げます。


「文章の上手さは十分あると思うよ。題材がぱっとしないけど、文章と構成がしっかりしてるから読みやすかった。なんというか、読了後の満足感はちゃんとあるくせに一ヶ月後には忘れてる感じの作品」


 この評価に「君は一度死んだ方がいい」と不満を露わにする麻里奈と、「僕を生かしてる人に言われてもなぁ」と返す春也の、少しずつ互いを理解して距離が近づいてきたその雰囲気の、なんと心地よいことか。協議の結果、二人は協力してシナリオを考えることにしました。

 春也の方も心臓の疾患があったため、娯楽といえば読書という生活をしていた人間。だからこそ麻里奈の書く小説に対し、「こうしてみた方がいいのではないか」とある程度アドバイスができるわけですね。そういう共同作業的な感じ、とても良いです。


 *


 対して僕の執筆は孤独だ。投げつける壁すら無い、無限に広がる闇の中をがむしゃらに走るような行為である。自分がどの方向に進んでいるのか、出口がそもそも存在しているのか――それすらも分からないのが、小説を書くということである。


 ……目の前に広がるのは闇でなく、真っ白な画面なわけだけど。


 僕はノートPCのWordの画面と睨めっこをしていた。彼女――セブンイレブンのアルバイトだし、以降は「ナナさん」と呼ぶことにしよう――に見せるための短編小説を書き上げるべく、僕はまずWordで下書きをしていた。Word→原稿用紙という、時代を逆行するようなプロセスである。

 ナナさんに読んでもらう以上、リコーダーを隠語にしていてはお終いだ。だから僕は「前戯曲・魔笛」をこの世の暗部に秘匿して、全く別の、新たな話を考えなくてはいけなかった。


 しかし、困った。


 ネットに小説を上げるのと、顔を合わせる人に直接原稿を渡すというのはまったくもって別物だと僕はこの時初めて知った。

 ネットに小説を上げるというのは、不特定多数の「誰か」を相手にするものだ。それはつまり、その誰かからすれば僕も「誰か」でしかないわけである。

 けど、今回は違う。僕は岩手県某市に住んでいる一人の人間で、ナナさんの働くコンビニを利用し、そこで原稿用紙を購入した、特定の個人だ。少なくともナナさんにとっては。僕が今から書こうとしているのは、「誰かによる誰かのための物語」ではなく、「僕によるナナさんのための物語」なのだ。


 そもそも、小説は何のために書くのだろう?


 僕はキーボードを打つ手を止め、哲学者モードに移行していた。稀によくあるのだ。

 アマチュア作家というのものが簡単に存在できるようになったのは、誰であっても発表する場ができたからだ。テキストデータを打ち込み、ネットにアップさえすれば、僕達は最低限「どこかの誰か」になることができる。けれど、もしそうでなかったら――それこそ昔のように、使える道具が紙と鉛筆だけであり、ごく限られたものしか世の中に広まらないのなら。

 そう考えて思い浮かぶ人間は、やはり岩手という土地柄、宮沢賢治だった。

 彼はいったいどんな心境で、物語を書いたのだろうか。

 評価を得たい、という気持ちも確かにあっただろう。けれど悲しきかな、生前出版された作品は少なく、賢治が今のように評価されるのは、死後実家に大量に残された原稿を、友人らが出版物としてまとめるように動いたからだ。そのおかげで僕達は今、「銀河鉄道の夜」や「よだかの星」、「グスコーブドリの伝記」を読むことができるのだ。作品によって、宮沢賢治は現代に生きる。


 良い作品は、「どこかの誰か」を「個人」にする。死してなお、未来方向に。


 ナナさんにとっての、「どこかの誰か」でない、「僕」となるために。

 一人の、特定される人間となるために。

 識別記号としての、僕が僕として存在するための、小説。

 少なくとも小説にはそうさせるだけの力が、意味があるのだ。


 ああ、きっと。

 そういうものに、僕はなりたいんだ。


 *


「書けなくなった。話が思い付かない」


 順調かと思われた二人の執筆作業は、麻里奈のスランプによって一度ストップする。麻里奈曰く、「そろそろ取材に出ないと気分もリフレッシュできない」からだという。「といっても、俺もそんなに自由に出歩けるわけじゃないから。人混みとかは特に」と話す春也に、麻里奈はなら海が見たいと提案する。医者との相談の結果、春也を含め家族で休日に一泊二日の旅行に出ることが決まる。

 季節外れの海だから、特にできることがあるわけでもなく。肌寒い風に吹かれながら、春也は波打ち際をただ歩く。


「こんなんで小説が書けるのか?」

「そんなの、私が分かるわけないじゃない」


 色々見て回って、旅館に戻り、料理を食べ、露天風呂に入る。

 その間家族と楽しく会話をしながらも春也の中では色々な感情が渦巻き、それを旅館の窓辺、海が見え満月も登る景色を見ながら、全て筒抜けである麻里奈に、改めて口頭で心境を伝えるのだ。


「もし、俺が病気じゃなかったらさ。今までもっと、こうやって家族と出歩けたのかなって思っちゃうんだよ。皆がそういうのに行かなかったのも、きっと、俺がいるから遠慮してたからだと思うし」

「ひどいこと、言うけどさ。麻里奈が死んで、心臓を俺にくれたから、今日皆は笑ってくれたんだ。だからその……ありがとう、本当に」


 そう吐露する春也は、そういう思考が全部麻里奈に知られていると分かった上で、それでもちゃんと伝えなければと、改めて言葉にしたわけで。一種の諦観のようなものもあるのだろうけど、それでも、ちゃんと自分の確かな意思であることを逃げずに言葉にする……その誠実さが、麻里奈の死がただの喪失でないことを意味づけてくれる力強さとなっていた。

 その言葉を聞いた麻里奈もまた、一つのわだかまりを告白する。


「こないだはいなかったけどさ……私、妹がいるのよ」


 麻里奈の小説よりも大きな未練は、仲違いしたままの妹と仲直りをすること。それを頼めるか聞かれた時の春也の、すんなりと出た言葉。


「当たり前だ。――命の恩人だろ?」


 ここまで散々麻里奈の方から「命の恩人でしょ?」と何かをやらされる度に使われてきた言葉を、春也から使う、その立場の転換の妙。

 そして起きる、少しばかり不思議な現象。

 二人の夜は、それから少しばかり続いて――。


 *


「書けなくなった。小説って何だ(哲学)」


 稀によくある哲学者モードで指を止めた僕は、相も変わらず真っ白な画面を見つめている。分からない、この世の全てが分からない。なんで小説を見せるなんて安請け合いしてしまったんだ僕は。世はまさに大後悔時代。


 書店での口約束から一週間が経つ。進捗素晴らしくここまでゼロ。ちょうどいい机さえ家にあれば「誰もお前を愛さない」と机の下でうずくまっているのだろうが、残念今あるのはコタツである。だから僕は布団から顔だけを出し、寝そべりながら床に置いたパソコンを眺めるコタツムリとなっていた。


 決して何も書いていないわけではない。少し考えて書いてみて、何か違うと消す歪なサインカーブの、今は下向きの頂点にいるだけである。ここまでちゃんと、様々なボーイミーツガールを構想していたのだ僕は。ただちょっとばかり、途中で宇宙に舞台が変わったり、ニンジャがサプライズしてきたり、シリゆる会・会長が入り込んできたりしてまともな話にならなかっただけの話なのだ。


 くそっ、手詰まりだ。どうすればいい? どれすれば俺はナナさんに見せられる小説が書ける? なぁ、教えてくれよダニエル……。


 ジャア、トリアエズギャグニスルノヤメロ(コタツの上で体育座りをしながらミカンを貪るダニエル)(そうなのかと彼の顔を見る僕)(頷くダニエル)(しゅんとする僕)


 やはり、正攻法しかないのか……。逃げないボーイミーツガール、そんなものが僕に書けるのだろうか?


 ナラ、ホンニンニドンナノガコノミカキケバイイ(本日三つ目のミカンに手を伸ばすダニエル)(ちょっとそれ僕のミカンと手を伸ばす僕)(はたき落とすダニエル)(しゅんとする僕)(ヒリヒリする右手)


 しかし、ダニエルの言う事も一理ある。ナナさんに正直に現状を伝えて、どんな物語が好みかを聞いてみるのは悪くないように思えた。今は休日の夕方、もしかしらいるかもしれない。


「でも、いないかもしれないよな……」


 シュレディンガーのナナさんのついて考えを巡らせてるうち、コタツの温もりが段々と意識を覆っていく。今は何だか眠かった。

 また明日、外に出たら。その時はナナさんがいるか見てこよう。

 そのまま、僕は瞼を下ろした。


 *


 起きてすぐ、春也は自分の中に麻里奈を感じられないことに気が付く。どれだけ春也が彼女の名前を呼んでみても、言葉の一つも帰ってこなくなっていた。

 どうして、まさかこのまま、麻里奈と二度と会えないのではないか――思い返せば、退院後の春也の生活はそのほとんどを麻里奈の未練を果たすために費やしていた。春也にとって、麻里奈はもう見捨てることの出来ない存在となっていたのだ。

 まだ、彼女の願いを叶えていない。

 彼女ともう一度話したい。

 しかし、その手段を春也は知らない。昨日確かに触れたはずの彼女の、声を聴くことすら叶わない。でも、決して諦めようとはしなかった。

 まず春也は、再び東京の麻里奈の家に向かう。ちょうど到着した時、家には麻里奈の妹・明奈あきながいた。しかし明奈は、春也が麻里奈の知り合いだと知るとすぐに追い返してしまう。二人の溝は、春也が思っていたよりも大きなものだったのだ。取り付く島もない状況に、呆然とする春也。

 残されたのは、書きかけのテキストデータばかり。

 小説だけが、春也と麻里奈のつながりだった。


 *


 僕とナナさんをつないでいたのもまた、小説だけだった。

 結局、翌日のコンビニにナナさんはいなかった。要望も聞けぬまま夕飯の弁当だけを買い、僕はまた家に帰って物語を考えている。彼女の顔を思い浮かべながら文章を練っていると、まるでラブレターでも書いているような気分になった。

 とはいえ、別にナナさんのことを異性として好いているわけではない。彼女と話をしたのはまだ二回だけだし、ナナさんがどんな人間なのかも、『常雪を見に。』を読んでいることぐらいしか僕は知らない。

 でも、彼女は僕にとって特別な人だった。ナナさんはただひとりの、面と向かった状態で小説を読んでみたいと言ってくれた人なのだ。

 そこで僕は気付く。僕は一人で小説を書いているわけではなかった。そこには読者がいるのだ。小説とは書く人間と読む人間、双方がいて成り立つものなのだ。

 僕のが今から書く小説には、もう読んでみたいと言ってくれた人がいる。

 しんと静かに、雪のようなアイデアが一欠片。

 シャーペンを握る。雪が融けて無くならないように気を付けながら、僕は原稿用紙に文字を――「誰か」から「僕」になるための話を綴り始めた。


 *


 春也は小説を書く。

 書いては消し、書いては消しを繰り返す。

 ストーリーのほとんどを考えていたのは麻里奈だ。春也はそれを文章に起こしながら、時折意見を出していたに過ぎない。文章のクセを真似ることはできても、どうにも本質が――この作品がとして存在するために不十分であるように思えてしまう。

 それでも、春也は小説を書く。

 今さらかもしれないが、そもそも春也が麻里奈のために行動することに義務は存在しない。ドナーと患者というのは、互いの情報が秘匿され知ることのできない(麻里奈はことさら)関係性なのだから。麻里奈のいない状態こそが、二人が本来なるはずだった関係性のかたちをしているのだ。

 では、何故逃げずに小説を書くのか。

 キーボードを叩きながら、春也は叫んだ。


「俺は……お前の小説が読みたいんだっっっっっ!!!」


 ああ、人を想う心は美しい。真っ直ぐな感情は、見るものを虜にする。他人の願いが自分の願いとなる――「心」が一つになるその瞬間に、読む人間の感情も重なる。

 そして、それは激痛となって春也に訪れる。


 心象空間の中で、春也は麻里奈と数週間ぶりの再会を果たす。

 互いの気持ちを吐露し合い、春也の心残りは、麻里奈の願いを叶えられそうにないことだけになる。

 しかしそれに、麻里奈は大丈夫だと返す。


「私はもう、君なんだ。そして私の心臓で生きている以上、君もまた私だ。だからもし後藤春也が小説を書いたのなら――それは完全に、夏川麻里奈が書いた小説なんだよ」


 トントン、と春也の胸を指でつついて。


「もし、君が嫌でないのなら。私の心臓で生きるその体で、小説を書いてくれ。……いや、やっぱり命令だ! 後藤春也! 私のために小説を書け!」


 その表情は、春也が遺影でしか知らなかった笑顔だった。


 *


「――書けました」


 数日後の夜、僕はコンビニのレジカウンターに夕飯の弁当とお菓子、そして鞄から取り出した原稿用紙四十枚の束を置いた。


「え、ホントですか」


 久々に会えたナナさんは、僕が小説を書いてきたことに驚いているようだった。反応から察するに、そこまで期待していたわけではなさそうだった。暖房もつけない部屋で指をかじかませ、ポエムを吐き吐きそれを書き上げた自分との温度差に内心ずっこけた。まぁ、そりゃそうか。


「内容はまぁ、そこまで突飛なアイデアが出てくるわけでもないんですけど……短くまとめるなら、ストレートな方がいいかと思いまして」

「へぇ……!」


 会計を済ませてから、ナナさんは原稿用紙をパラパラとしてそこに文章が書かれていることを確認する。「ちゃんと書いてる」と呟いた言葉をどう受け取ればいいのかは分からなかったが、一応は喜んでくれたようだった。


「今読んじゃって大丈夫ですか?」

「え、でも今バイト中じゃ」

「大丈夫ですよ、今、お客さんあなたしかいませんし」


 すぐに、ナナさんは僕の書いた話を読み始めた。

 それは、ありきたりなボーイミーツガールのお話だ。偶然出会った少女に恋をした少年が、どうすれば仲良くなれるのか、彼女の悩みを解決する助けになれないかについて苦悩し、藻掻き、それでも手を伸ばす――そんな話。


 目の前で作品を読まれる気恥ずかしさに耐えること十数分。その間、他の客が来ることもないまま、ナナさんは原稿を読み終えた。


「読み終わりました」

「……率直に言って、どうでしたか」

「そうですね……嫌いじゃなかったです。真っ直ぐな感情が良いと思いました」


 嫌いじゃなかった、というのはつまり、それほど好きな内容でもなかったか……。ダメな部分を汲み取り、僕は小さく肩を落とした。

 しかし落とした視線を戻してみると、ナナさんは再び僕の原稿を、読み終わったというのにまじまじと見つめていた。


「……どうかしましたか?」

「ああいえ! その……感想とはまた違うんですけど。小説って、書いていいものなんですね。私今まで、読むだけのものだと思ってました」

「あー……確かに、きっかけがないとそうかもしれませんね」


 僕が今小説を書いているのは、高校の先輩がウェブ小説を書いていたからだ。それを読んで初めて、僕は自分でも書いてみたいと思ったんだ。


「そっか、書いてみてもいいんですね」

「もちろん。今だったら、ネットで小説を投稿できるサイトもたくさんありますからね。それこそ、原稿用紙を買わなくてもいいぐらいには」

「ふふっ、そうですね」


 少しだけ、僕達は二人で笑った。


 *


 麻里奈との約束を交わし、別れを告げてから二ヶ月後。春也は麻里奈の初稿を手に、麻里奈の家に近い公園に向かう。そこには既に、妹の明奈がベンチに座って待っていた。

 春也は、麻里奈のSNSアカウントを使って明奈に連絡を……そしてこれまでの真実を全て伝えた。自分が麻里奈の心臓を移植してもらった人間であること、麻里奈の声が聞こえていたこと、二人で小説を書き始め、それが完成したから読んで欲しいこと。その連絡に、春也は完成した小説のテキストデータを添付していた。

 アカウントの乗っ取りによる迷惑行為と思われるのが当たり前。それでも春也はありのままを伝え、その結果が公園に足を運んだ明奈だった。


 明奈は小説を最後まで読んでいた。そしてそれから、春也の言葉が事実であると判断していた。かつての明奈は麻里奈にとって唯一の読者であり、一番最初に姉の小説を読むことが、彼女にとって一つの楽しみだった。

 そんな明奈が、春也の小説を認めた。それはつまり、春也の書いた小説が、麻里奈の書いた小説でもあることの確かな証拠であった。


「一つ、聞かせて欲しいの」


 質問だと思った春也の、その胸元に明奈は顔を寄せる。そして、明奈はそこで脈打つ鼓動に耳をすませた。


「お姉ちゃん、まだこんなとこで生きてたんだ……」


 それから涙を流して泣きじゃくる少女を、春也は最後までじっと見守っていた。

 最後に帰宅した春也がパソコンを立ち上げ、タイトルを感じさせる文章でこの小説は幕を引く。



“今日もまた君の心臓が僕を生かし、そして小説を書かせている。”



 *



 小説を読み終わり、ぼくは息を吐く。

 読みながら諸々、すこし昔の話を思い返してしまっていたような気がする。でもまぁ、それはしょうがないだろう。


 なにせこれは、小説を書いてなかった人間がとあるきっかけから小説を書くようになるお話なのだから。

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