第6話
「女、その子を……ユネスをこちらへ引き渡して貰いたい」
なるほど、相当お冠ですか――自分に対する呼び方が「ご婦人」から「女」へ変わっているのに気付き、ユリカは即座に闘争態勢へ移行しようとしたが……。
「そのままだ、女。ユネスを渡して貰えれば、釈明だけは耳に入れてやろうぞ」
ユリカの眉間、その一〇センチメートル前に、老爺が抜いた剣の切っ先があった。太陽を背にする老爺に、相当の「練度」をユリカは感じた。
「釈明? 私、おじ様に非礼を働いたつもりは――」
「率直に問おう。その子の肉親を殺めたのは貴様か」
粘るように光る切っ先が、また少し、ユリカの眉間へと接近する。
「違います」
「…………では、その子は一体何者だ」
「私が生んだ子供ですけど……それより、剣を収めて頂けます? 息子が怖がります」
しばらく老爺はユリカを見下ろしていたが……。
いきなりに吹き出し、豪快に笑い出したのである。ユネスが、そしてユリカすらがキョトンと彼を見つめた。
「はっはっはっはっは! いや、すまんすまん……あんまりに可笑しくてな……」
涙すら浮かべて笑い声を上げる老爺は、身体をくの字に曲げてヒーヒーと辛そうに呼吸した。
「……何か、間違った事でも?」
「いやいや……ただ面白いだけだ――」
ふと、ユリカは小学一年生の頃を思い出した。晴れた冬の日に、友人と呼ぶには余りに乱暴な少年が、彼女の後頭部に雪玉をぶつけた。破壊された雪玉の破片はそのままユリカの項を伝い、下着と皮膚との間に入り込んだ。
元来の冷え性な体質に加え、不意打ちのような冷感は彼女の背中を暴力的に震わせたのである。
雪の持つ物質的な冷たさに、それはよく似ているが……その実、何倍もの「不快さ」が孕まれている事を、阿桑田ユリカのような人間も理解していた。
嫌な予感――彼女の背中を冷却したのはこれだった。
「――っ」
咄嗟にユリカは左手を内ポケットに滑り込ませた。人差し指にほんの少しだけ力を込めるだけで、大抵の人間を屠る事が出来る「相棒」に、ユリカは助けを求めたが……。
プッ、という瞬間的な呼吸音が聞こえた。
「あっ……!」
焼けた鉄に触れたような、疼きに似た激痛がユリカの左腕を襲った。途端に力が入らなくなり、辛うじて指先がプルプルと振動するだけであった。
彼女の行動を封じたのは、老爺の手に握られている短い吹矢だった。一般的に吹筒が長い程に矢の速度は速まるが、老爺は携帯に適した長さに抑え、代わりに「自身の肺活量」で速度を補う事を選んだのである。
結果、老人に強力な吹矢など使えない――と油断したユリカは、身に起こった異変によって反省する事となる。
「興味深いぞ、女。見たところ『尋常』を生きたとは思えんが……」
年寄りの引っ掛けすら、看破出来ないとは。粗末なものよ――老爺は冷たい笑みで言った。
「ユネスの肉親は貴様であろう? では何故、『肉親を殺したのはお前か』と問うた時、貴様は『肉親は私だ』と答えず、ただ阿呆のように『違う』と返した? 悪行を成すのであれば、もう少し賢しく成せ」
段々とユリカは……呼吸が荒くなるのを認めた。何らかの毒が仕組まれていると考えるのが妥当だが、しかしながら解毒用の薬は持ち合わせておらず、「機構」から支給されている治療用のジェルは、外傷のみを癒す。
焦り――彼女は久方ぶりにこれを感じた。
阿桑田ユリカは人間である。機械のように殺人を犯せても、人形のように自己の精神操作が可能であっても、どれ程に種々の経験を積んでも……。
全ての行動を「完璧」に行う事は出来なかった。蟻の一噛みにすらならない微少なものでも、ダムの崩落のような巨大なものも、「綻び」は「綻び」である。
結局のところ――完全無欠の人間は、星の数よりも多い世界群の中に一人としていない。一人間として生きるユリカの失敗は……「至極当然」の事である。
「お母さん、お母さん……」
上擦った声のユネスは、ゼエゼエと息を切らすユリカの身体を揺らした。「目を閉じている事」などという約束は既に破られていた。
「ユネス、またしても……! 女、ユネスに何をしたのだ、異国で見知った魔女という類いでは無さそうだが……」
「……こ、答えても……助けては貰えないでしょう……」
老爺は「ふむ」と、感心するように鼻から息を流す。
「状況の分析は長けているようだな、賞賛しよう。その通り、今のところ貴様を生かすつもりは無い。アトラシアの血が流れる者は、皆が女子供を害する敵を嫌う」
一つ、提案しよう――脂汗を流すユリカを見下ろし、老爺は笑った。
「今から我が剣は貴様の臓腑を斬り裂く……あらゆる手を使い、足掻いてみよ。元アトラシア軍兵団長としての、最大限の恩赦であるぞ」
上目遣いに睨め付けるユリカ。対する老爺は平然としていた。
「無論、軍鷹を落としたものを使っても構わん。火薬を使う飛び道具を持っているのだろう? どうだ、貴様の得意な闘争に違い無いぞ」
「……あくまで、私が殺人犯と……言い張るのですね……」
「愚問だ。ユリナスの家に漂う臭い、軍鷹の死体から嗅げる臭い――」
同じ火薬だ、愚かな女よ。
老爺が吐き捨てるように言った瞬間、ユリカは怯えるユネスを傍らに突き飛ばし、右手で懐の拳銃を抜いた。
「所詮、偽の母か」
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