第7話
老爺は肩に掛けているだけだった外套を、ユリカの方へと放り投げた。煙幕と同じ効果をもたらす外套に向け、ユリカは二発三発と発砲したが、望んだ老爺の叫び声が聞こえない。
どうする? 背中のライフルは近距離では使い辛い、かといって拳銃は残り五発、装填には今の状態では少なくとも二秒掛かる。
考えろ、考えろ、考えろ私!
考え――。
「思考に逃げたか、女よ」
自分のすぐ隣、一メートル足らずの距離から聞こえた老爺の「囁くような声」に、ユリカは顔よりも先に拳銃を向けたが……。
人差し指が動かない。否――動けなかった。老爺の手がユリカの手首を掴み、万力のような膂力を以て制御しているのだった。
「痛っ……!」
続いてユリカは右足で老爺を蹴り飛ばす。執行者に支給される外套は、須く執行者の身体能力を飛躍的に向上させる。但し、今回のケースは以下の二点が大きく作用していた。
一つは、ユリカの身体に筋力の低下を促す毒が回っている事。
一つは、老爺が強襲する蹴りを、積年の経験によって受け流した事。
これらの要因はユリカの抵抗を無益なものへと変え、更に致命的な「隙」を作ってしまった。
「教授しよう、闘争とは――」
ユリカの手首を両手で掴んだ老爺は、背負い投げのような形で彼女を地面に叩き付けた。最早拳銃を握っている事すら出来ず、彼女はただ脳内をチラつく閃光と苦い胃液が逆流する不快感を味わうだけである。
「おぇっ……えぇ……!」
「己が五体の記憶だけを使用する事ぞ」
ベキリ、と気味の悪い音が鳴った。ユリカの右手が不自然に天を向いていた。
「ぎゃぁあぁあっ……!」
老爺は足をユリカの右手首から離すと、木陰で震えるユネスを見やった。
「……悪人と言えど、幼子の前で殺めるのはいかんな……」
こっちに来なさい――老爺は手招きをするも、しかしユネスは震えたままその場を動かない。その内に老爺の方から歩み寄り、ユネスを抱えて青毛の馬に乗せた。
「この年寄りが憎いか」
ユリカは何も答えない。激痛によって涙を流す彼女が抱くのは、ただ痛みから逃げたいという恐れだけだった。
「報いだ、貴様の悪行のな。想像が付く、数え切れない程の人間を殺めたのだろう。いつまでも勝利し続け、勝手に抱く願いが叶うと思ったのであろう――残念だな、あえなく貴様の希望は潰えた」
潤んだ目で老爺を見やるユリカ。憎まれ口を叩く余裕は無い。
「本来なら、貴様は我が剣の悍ましき染みに消えるはずだった。ユネスに感謝せよ、吹矢の毒が時間を掛けて貴様を始末する……忠告だ、もし生き延び、アトラシアの地を踏んだ時――」
老爺は慣れた手付きで手綱を撓らせ、張りのある声で続けた。
「このパディンが、次こそは容赦せぬ。さらばだ、母になれぬ哀れな悪鬼よ。貴様は――」
この世界に不要である。
霞む視界はやがて暗黒へ落ち、朧な思考は泥の中へと沈む。
阿桑田ユリカは目を閉じる。
淀みの奥深くで、彼女は孝行の笑顔を思い出した。
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