狂奔始走

第1話

「ご免くださいな」


 手の甲でドアを軽く打ち、ユリカは小さな木造住宅の家主を待った。しばらくしてドアが開かれると、不思議そうに彼女を見上げる少年が立っている。


 白い外套と大きなリュックサックを背負うユリカは、おおよそこの村を訪れる行商人とは様子が違っていた。


「お姉さん、誰?」


 年頃は七歳、八歳だろう――ユリカは微笑みながら思う。屋内からは少年の応対を見守るように、三十路らしい夫婦がこちらに目を向けている。


「こんにちは、僕。偉いですね、お名前は?」


「僕、ムグルって言うんだ」


 ユリカはしゃがみ込んでから少年の頭を撫で、奥に座る夫婦に視線をやった。


「申し遅れました、私はと申します。この辺りで人を捜しているのですが……」


 オオサト。この文字配列を名称に含む少女がいた。数年前、孝行に淡い恋心を抱いたばかりに「悪道」の種を、から植えられた大里友梨である。


 阿桑田ユリカ――自身の名前を包み隠さず答えても良いとすら、ユリカは考えていたが……。


 愛しい孝行に出会うまで、幾度も重ねるであろう「致し方無い行為」からの訴求を少しでも免れるべく、全くどうでも良い知人の名前を借用すると決めたのである。


 例えば、図鑑で蟻の一種を憶えたとする。道端でその蟻を踏み付けたとして、その蟻の事を気に病んだりする者は殆どいない。


 彼女にとって大里友梨は、図鑑の片隅に載る蟻の写真と同じであった。


 大里友梨を知っている――ただそれだけである。


「なるほど、人捜しをされているのですね……」


 父親は顎を撫でながら言った。


「私達の記憶が何処までお助け出来るか分かりませんが……何か特徴とかはありますか、その方に?」


 特徴は――ユリカは記憶に残る孝行の顔を引っ張り出し、数年が生む変化を予測してから、脳内画像に重ね合わせて答えていく。


「……ふむ……」


 夫が難しい表情で俯くのを認めたらしく、妻は急いた様子で「ちょっと分からないですね」と答えた。


「何分、この村は小さいですから……そういった人は絶対に記憶に残るんですけど……申し訳無いですけども……」


 そうでしたか……ユリカは残念そうな声色を作り、溜息を吐く。


 ふと、戸棚に目をやるユリカ。野菜を漬けた瓶が立ち並ぶ中、一際目立つ赤い液体が入ったものを発見した。


 まぁ、そうでしょうね――。


 ユリカは心奥深くで笑った。


「それなら仕方ありませんね……ところで」


 夫婦が揃って彼女を見やった。


「この辺りに薬局……はありますか?」


 急いた様子で答えたのは母親だった。


「無いです、そんな店はこの村にはありません」


 人の良い女ですね――ほくそ笑みながらも、すかさずユリカはムグルの横顔を見つめる。


 少年は何かを疑う、もしくは「何かの食い違い」を感じているらしかった。


「ムグル君、例えばですよ? お腹が痛いとか……頭が痛い時、どうやって治しているんですか?」


「ムグル! もうこっちに来なさい――」


 コツリ、と少年の側頭部に当てられた物体は、ユリカの手の平より一回り大きいだけだったが……。


 果たして夫婦の二の句を圧殺し、場の流れを完全にユリカが掌握出来る程の「殺気」を孕んでいた。母親は目を見開き、父親は壁際にゆっくりと後退っている。


「そのままですよ、お父さん」


 肩を震わせ、父親の動きが止まった。中途半端に伸びた左手の先には、壁と同化するように塗色された、刺股らしき棒が掛かっている。


「さすがに私だって女です。小さなお子さんが亡くなるのは見たくありませんからね。……続けますよ、ムグル君」


 ムグルは黙って頷いた。







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