第4話

 彼女――阿桑田ユリカは自転車に乗って街中を走り、果たして「職場」である古びた小屋の戸を開けた。一六時三一分、五四秒を回った頃だった。


 彼女が再び小屋の戸を中から開ける事は、それから二度と無かった。


 彼女が行き付けの精肉店へ出向く事も、店主と雑談を交わす事も二度と無かった。


 彼女が暮らした街に、その後彼女の姿を見た者は、一六時三一分、五四秒以降――一人もいなかった。


 何故なら彼女は、この世、正確にはにはもう存在していないからだった。


 阿桑田ユリカという人物を知る者は、この日――二人減った。二人は夫婦で、彼女と同じアパートに暮らしていた住人である。


 夫は胸部を刃渡り二〇センチメートル弱の刃物で刺され、その場で死亡が確認された。


 妻はコンクリートに頭を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認された。


 この殺人事件の目撃者である加藤昭三――彼はアパートの管理人を務めていた――は、事情聴取を求めた警察に対してこう語った。


「教えてください、刑事さん。人間って、あんなに面倒そうに他人を殺せるものなのですか?」




 今、阿桑田ユリカは何処にいるのか?


 今、阿桑田ユリカは何をしているのか?


 今、阿桑田ユリカは何を考えているのか?


 多くの人間が「消えた殺人者」を思い、同じ疑問を抱いた。


 阿桑田ユリカ――という生物は今、白いローブを纏った姿で、高山の麓にある小村を目指して歩いている。


 彼女がとは大きく違う、しかしながら根底には似た「常識」が根差す


 異世界、彼女は今――そこで永住を始めたのである。


 その世界に小さなヒビが入ったのは、恐らくはこの後、彼女が食料と道案内を求めて民家を襲撃した瞬間であろう。


 全ては「野口孝行」、一人の男の為である。


 あらゆる凶行の実行犯が阿桑田ユリカであるなら、結果としてそれを招いた野口孝行に罪はあるのだろうか?


 二つの世界が、音も無く摩擦を開始した――。

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