第2話

 軋みながら開くドアの向こうには、かつて孝行が暮らしていた部屋が――そのままに残っていた。


 ユリカは窓を開け……月に一度の清掃を開始した。


 電気や水道は止まっている為、庭先の水道で満たしたバケツ、雑巾、箒の三つを活用し、愛する男の家を守っていた。


 窓、テレビ、シンク、風呂場、トイレ、床……様々な箇所を磨いていく。


 箪笥に入っている服を全て引っ張り出し、日光に当てて軽い虫干しを行う。


 人が暮らさない空間には、必ず何処からか蜘蛛が入り込んで間借りを始める為、彼らの強制退去も欠かせなかった。


 三時間を掛け、出来る範囲のを終えたユリカは、最後にテーブルの上に手紙を置いて行く。




 お部屋、掃除しておきました。もし、今日中に帰って来たなら、大家さんにお握りを預けてありますので、良かったら食べてください。


                         七月一六日 阿桑田ユリカ




 開かれていない一ヶ月前の手紙を回収し、新しい手紙と取り替えたユリカは、五分程テーブルにもたれ掛かり……。


 静かに泣いた。


 それから彼女は大家に掃除用具の礼を言い、再び自転車に跨がる。


 晴れた日の風、生い茂る木々、飛び交う鳥……全てが美しく、しかしながらユリカにとって「無意味」なものである。


 孝行が豪邸だと言えば、虫の湧く卑しい貧民窟も豪邸であり、孝行に飲めと小便を掛けられれば、それはあらゆる高級酒に勝る逸品である。


 彼のいない街に、世界に……一つとして、陶酔出来る程の魅力を備えたものは無かった。


 阿桑田ユリカという人間が執着するもの、それは孝行という存在のみである。


 帰宅した彼女は、炊飯器に余っている白飯を掬い、茶漬けにして胃に収めた。軽い食事すらが何かの重しに感じられ、孝行の名残に先程まで包まれていた為に、胃もたれがするようだった。


「……あぁ、でも入れようかな……」


 虚ろな目でユリカは呟いた。


 翌日、彼女は「仕事」を入れる事にした。自宅から程近い空き地に建つ、粗末な小屋――そこが彼女の勤務先である。


 小屋の横に自転車を駐め、力を入れずとも壊れそうなドアを開ける。中にはカビの生えたテーブルが一台置かれており、彼女の他には誰もいない。


「さて……今日のお仕事は、と……」


 テーブルの上には一枚の紙が載っている。この紙に今回、彼女が引き受ける事が出来るが記載されているのだ。


「……標的は……あぁ、かぁ」




 阿桑田ユリカの生業――それは実に奇妙で、非人道的なものであった。


 彼女の暮らす世界、そこには「輪廻」という概念があった。全ての生物が生まれ育ち、命を終え、また生まれ変わる……無限に繰り返されるサイクルを指した。


 しかしながら、この輪廻を外れ、全く別の世界――異世界に安寧を求め、在るべきでは無い輪廻に無理矢理入り込む、「転生者」と呼ばれる者達がいた。


 ユリカはこの転生者を追って異世界に向かい、殺害する事で報酬を得る「執行者」……いわば駆除業者に似た仕事を、週に一度から二度こなしていた。


 依頼内容が気に入れば仕事を始め、その逆なら小屋を出る。ノルマも規則も、彼女を縛る一切が無かった。




 今回の標的は、ある夫婦だという。


 酷く面倒な気分になり、ユリカはそれでも最後まで読み通そうとした。家事は既に終えていたので、詰まっている予定など無かった。


「うん……うん……それはそうですね、二人も相手だから……あら、他の執行者も既に向かっているんですね」


 他の執行者との共闘――珍しい事ではない。時折に現れる強力な転生者(多くは魔女であったり、国王といった類いである)を狙う際、複数の執行者と連携する事もある。


 書類には「本日までに三名が着手済み」と但し書きされていた。


 同僚達との連携……聞こえは良いが、その実――報奨金や抜け駆けの問題が絡み合い、大抵は自世界へ帰還後、口論となるのがお定まりだった。ユリカにもその経験がある。


「まぁ、勝手にやってくださいーって感じですね」


 ユリカは書類をテーブルに置き掛けた、その刹那――。


 最下段に書かれた標的の「名前」を認め、果たしてその場で硬直した。

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