自世界払拭

第1話

 痺れるような疲労に包まれていたユリカは、翌日の起床が九時半と大幅に遅れてしまった。


「……もう、こんな時間……何だか懐かしい夢を見ていた気がします」


 おはよう、孝行――隣に転がるテディベアの頬に口付けし、乱れた髪を櫛で梳き始める。眠られぬ夜を過ごした後は、ユリカは決まってカレンダーの日付に丸を付ける。今月に入り、既に丸は一〇個を超えていた。


 彼女は玄関を見やった。郵便受けから中を窺うように、チラシで水増しされた朝刊が差し込まれている。


 床面に広げ……一面の記事もテレビ欄も見ず、前日までに死亡した市民の名前が羅列する「お悔やみ欄」にのみ、ユリカの興味は注がれる。


「…………あぁ、貴方の名前が無い……喜んで良いのか……」


 ユリカは今、ある地方都市に居を構えている。そこには勿論……孝行が暮らしていた。


 幾度も声を掛けようと心構えたが、しかしながら彼女は「まだ早い、孝行の女に相応しく無い」と自制し、遠方からの盗撮のみで、昂ぶり続ける恋情を慰めていた。


 定期的な監視体制の中――孝行が忽然と姿を消したのが一年半前である。半狂乱となって街を捜し歩くも、孝行が行き着けていた居酒屋やスーパーマーケットの前を過ぎる度に、耐え難い動悸が彼女を襲った。


 事件に巻き込まれた……事故で亡くなった…………街を捨てた?


 仮に孝行が今の街を捨て、別の土地へと移ったのなら問題は無い、ただ自らも引っ越すだけで事態は解決するからだ。同じ街で同じ空気を吸い、遠くから見守り……いつか花嫁として抱き留めてくれるのであれば、そこに言葉は要らなかった。


 一つ。ユリカはある事が気になっていた。


 週に一度、孝行は決まって姿を眩ませていたのだ。女の影も見当たらず、しかしながら彼は……街から霧のように消えてしまう。


 無論、何度も謎を解き明かそうと彼を追ったのだが、まるで何かを警戒するように……孝行に振り切られてしまった。


 そして現在。とうとう孝行は失踪してしまったのである。警察には既に捜索を依頼していたが、色好い情報は得られず、「もうしばらくお待ちください」「よろしくお願いします」の事務的な連絡だけだった。


 ユリカは軽くシャワーを浴びると、お握りを二つ、手早く拵えた。温みのあるそれらをラップに包み……お気に入りの自転車に跨がった。パステルグリーンの車体が好きだった。


 三〇分程、道を行く親子を自分と孝行、二人の子供に見立てながらペダルを漕ぐと、小さなアパートへと辿り着いた。低い塀の向こうで、腰の曲がった老婆が草毟りを行っていた。


「こんにちは、大家さん」


 老婆は顔を上げ、にこやかに答えた。


「おや、ごめんね、いつも」


 老婆の住居はアパートの一階にあった。ユリカに介助されながら縁側に腰を掛けた大家は、手渡された封筒の中身を検めた。


 四五〇〇〇円。このアパートの一ヶ月分の家賃である。ユリカは孝行がいつ戻っても良いように、進んで家賃の肩代わりをしていた。


「……うん、確かに。それにしても、まだ見付からないなんてねぇ……」


 悲しげな表情で、老婆は湯飲みを用意した。ユリカは一口だけ緑茶を啜り、「大丈夫です」と微笑んだ。


「必ず見付かりますよ。何処かで元気に暮らしているはずですから。いつか戻って来た時……家が無いと辛いですもの」


 悪い男だねぇ、あんたのようなお嬢さんを泣かせて……。大家は溜息を吐いた。


「今日も掃除、して行くのかい?」


 ユリカは笑顔で頷き、「今日もこれ、お願い出来ますか」とお握りを彼女に渡した。


 いつ、孝行が帰って来ても食べられるように――。


 一日しか持たない心遣いであったが、それでもユリカは何かしらの行動を起こしたかった。


 大家はお握りを受け取り、切なげな表情でユリカを見つめていた。


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