第2話
朝のホームルームの事である。担任が孝行を教壇の前に呼び、「この度、彼は転校する事になりました」と発表したのである。
殆どのクラスメイトと交流を深めていない孝行に対し、それでも転校を惜しむような声が響いたが……。
一時間目が始まって間も無く、ユリカは体調不良を訴えて早退した。
孝行の転校――起きる事が分かっていた事件にも、しかしながら彼女は猛烈な不快感に襲われた。立ち眩みを覚えながら教室を出る間際、彼女は孝行の方を見やる。
彼は冷めた表情で、ユリカの方を一瞥した。
俺に構うな――確かにユリカの耳介に届いた想い人の声であった。
帰宅したユリカは鳴り止まぬスマートフォンを枕に投げ付け、自らもその上に寝そべった。授業中にも関わらず、彼女を案じて多数の友人がメールを寄越したのである。
「他人の心配をして、成績が上がる訳でも無いのに……」
部屋に響く、ユリカのくぐもった声。クッションを抱き締め、彼女はただの乙女となって泣き出した。
孝行との別れ。届いた彼の念……。
自己の利益をあくまで追求し、他者を利用し、嘲る彼女もしかし――孝行という少年を前にしては、ごく普通の少女であった。
「……孝行……孝行……うっ……うぅ……たか……ゆきぃ……」
それから彼女は一五時頃まで泣き続け、整った相貌にも色濃く疲れが見えた。
分かっていた、彼がいなくなるのは分かっていたのに……やっぱり……辛い。
クッションの質量が変わる程の涙を流し、果たしてユリカは起き上がると、一葉の手紙をしたためた。抱く恋慕の情を限界まで詰め込んだそれは、最早「怨嗟」と相違は無い。
彼女は急いて自宅を飛び出した。
目的は勿論――孝行に会い、手紙を渡す為である。
孝行に相応しい女となるべく積み上げた知識、技術も今は蚊帳の外である。
ただ、「貴方の為に私はある」という事を伝えるのに、それらの修練は不純物に他ならない。
走り、走り、走り……思い出深い運河を過ぎた辺りで、ユリカは念願の少年――孝行の後ろ姿を認めた。
間違い無い、あれは孝行……歩速も、足の幅も、揺れる後ろ髪も、両肩の上下する位置も、全部が彼だ――。
孝行、と声を掛けようとした瞬間……ユリカの足が止まった。
同じクラスの生徒で、ユリカの半歩後ろで愛想笑いを浮かべる、いわばカーストの低い少女……
大里は夕日よりも赤い顔で何かを言うと、勢いよく頭を下げて……やはり何かを言った。
視力の良いユリカは唇の動きから、「貴方が好きです」という言葉を読み取った。
何を言っているのだろう、あの低級者は。
小首を傾げたユリカは、次の瞬間――。
照れ臭そうに頭を掻き、微笑む孝行の顔を目撃した。
愛の告白を受け、笑顔で頭を掻く行為。他人の気持ちが上手に推し量れないユリカすらが、孝行の表情から「悪い気はしない」という
自らを取り巻く、名前を辛うじて記憶している存在。その低級者が、私も見た事の無い孝行の顔を間近で、長く、独り占めをしている。
ユリカは燃え滾るような怒りに、自らが包まれるかと思ったが……。
意外にも、彼女は冷静であった。踵を返し――ユリカは帰宅という選択をしたのである。
彼女の思考は真冬の湖面に似ていた。底冷えのする静寂さがそこにはあった。
通り掛かった雑貨屋に入ったユリカは、ショーウインドウ越しに座っているテディベアを購入した。「成績上昇」の褒美として父親から貰った金を使ったのである。
自室に戻った彼女は、ラッピングされたテディベアを開封し、黒く丸々とした目を見据えた。
「孝行、まだその時では無い……という事ですね」
物言わぬテディベアの口元に、ソッと口付けするユリカ。途端に額が、頬が、胸が熱くなり……。
ユリカは瞼を半分まで閉じると、纏っていた制服を脱ぎ捨てた。
生まれて初めての情動――阿桑田ユリカは「敗北」のすぐ後に、それを覚えたのである。
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