熱い春夏秋冬
青海老圭一
夏
――熱い。暑いではなく、熱い。
灼熱の太陽というのは冗談ではなく、猫伏を燃やしにかかった。
カン、という甲高い音が響くが、もはや猫伏には関係はない。
「ポール間を70本。試合終了まで」
ハカセにそう告げられたとき、「うんざりする」だとか「あきれる」だとかより先に、「なんのために」という思いが胸をよぎった。
なんのために。
走り始めていったい何度自問したかもわからなかった。いや、走り始めてからではない。この夏が始まって以来といった方が正確だ。
期待されているという自覚はある。ハカセは馬鹿ではない。むしろ精密なコンピュータのようですらあった。故に、ハカセ。
少しグラウンドの広い公立高校に、数学科の教員として赴任。今年で7年目になるが野球部の監督に収まってからはまだ浅いらしい。
らしい、というのは猫伏が自分で聞いたわけではないからだ。興味が無いわけではないが、喋りこんで話が弾むとも思えなかった。多分ハカセもそう思っている、と猫伏は思う。
ようやく半分が終わったところで、猫伏は自主的に休憩を始めた。
げんなりするような熱さの中、木陰に座り込みグラウンドを見つめる。
本日2試合目の先発は、我らがエース、シュウだ。遠目でも分かる、正確無比なコントロール。捕手の高木のミットは、ほとんど動くことはない。
審判が気持ちよさそうに、右腕を振り上げる。見逃しの三振だ。
五回の裏が終わってしまった。ということは、あと4回で、35本。
猫伏は走る。でも、なんのために?
ただ走る、というのは猫伏の性に合わない。
まず考えるのは、試合の反省だ。考えたくなくても考えてしまうし、考えるべきだった。
三番ショートで先発出場。6回終わって、三打席で二打数二安打。守備はいくつかのゴロを裁いた。無難、といえば無難。内野の司令塔としての十二分に動きもこなしたと思う。
先発の吉目の後を受けたのは7回だった。
結果から言うと、最低のそのまた下。
三回、無安打、奪三振6。で、四死球7。失点3。
ハカセに「猫伏君、これは野球じゃないよ」」と肩を叩かれた。曰く、「相撲ですよ、相撲」ということらしい。
反論の余地が無いことは重々承知していたが、ストレートに言ってくれとも思う。
「じゃあ、×10ね」と言って、二試合目のスタメンをハカセが述べた。当然ラインナップに猫伏の名前は無い。
ポール間走、四死球の数×10本。よくある話だ。
だから今走る。それが走っている理由。
もっとも、指示されたから走ることが本質ではないことは分かっている。特に、60本を終えて、肩で息をするとそのことが良くわかる。でも、60本たっぷり無視してきた。
そつなく三番とショートをこなす。強豪校からの誘いもあった。あえて地元の公立高校に決めた。一年生の時分から結果を残してきた。なんのために?
野球は好きだ。そこに偽りはない。が、好きなだけで無邪気にやっている立場ではない、とハカセは言った。いつ頃だっただろうか。無邪気なだけのつもりはないが、そう映ったのならそうなのだろう。気にもとめないという選択肢もあったが、棘のように心に残る。
サボリもしない。手も抜かない。野手として、そつなくこなしている。その上、一体何が求められているのか。
無視したいが、無視できない。
65本。9回の裏のマウンドには、まだシュウがいた。
シュウ。中国人留学生。正確無比なコントロールと、自身をもって投げ切るスローカーブが武器。一年生の秋からエースを務める。当然、新チームでもエースだ。
気さくな男だ。誰とでも簡単に打ち解けるし、悪い噂は聞かない。この度めでたく主将に選ばれたが、チーム内外誰も驚かない。
そういう男が、今マウンドにいる。
そして猫伏は、外野を走る。そんな構図だ。
夏のグラウンドは、脆い。誰かがサクサクとした菓子のようだと言っていたが、なるほど言い得て妙だ。少なくとも初めのうちは。
68本も走ると、どうだろうか。少しは手の入った畑のように見える。耕運機猫伏が34回往復すると、サクサクの菓子はふかふかとする。砂浜のようになったグラウンドの砂が、ランニング・シューズに入り込む。
ツーアウト、ランナー二塁。只今69本目。
シュウが外角に構えられたミットにストレートを叩きこんだ。これでワンストライク。
相手の7番打者には荷が重いだろう。続く大きく割れるスローカーブにも反応できない。
なんとか試合終了までには、という思いもありラスト一本へと舵を切る。胸もとの直球でのけぞらせて、低めの変化球でポップフライ。見なくても未来が見える、と思っていた。
センターからの折り返しまで足を運んだところで、高い金属音が響いた。右に首を向けると、ライトを守る青田が走りこんでくる。
球は転々右中間。意図せずに歩調が緩まる。腰丈ぐらいの可動フェンスに打球が跳ねる。
ようやく青田が追いつきサードへと大遠投。
きわどくはならなかった。たっぷりお釣り付きの、タッチアウト。
ふう、と一息つく青田と猫伏の目が合った。
にやりと笑って、「どや」とガッツポーズを作る青田に、惜しみない拍手を送る。
ホームベースへと駆ける青田を見届け、あと半分の轍を進む。
そんな夏休みの、練習試合だった。
なぜ走っているのか。答えはまだ出ない。
それでも走っていた。そんな夏だった。
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