4. 危機一髪!


「本当にここが、犯人の家なのか?」


 安田は戸惑いながら杏子の方へ振り返る。

 杏子たちは、白いタイル張りの小さなマンションに来ていた。


 爆弾の破片が教えてくれた二階の角部屋まで行ってみるが、『石崎』という表札の部屋はあいにく留守のようだった。しかし、杏子はあきらめようとはしない。


「何とかして、部屋に入れるようにしてよ!」


 眉間にくっきりと縦じわを刻んだ杏子を見て、安田は梶原の背中を拳でつく。


「おい、本当に大丈夫なんだろうな? 捜査令状なしで家に入って、もしも間違いだったら……」


「大丈夫だって、おれが保証する。これで水辺の爆弾を発見できれば、おまえの手柄になるんだろ?」


「わかった。待ってろ」


 あきらめたのか腹をくくったのか、安田が一階の管理人室へ向かおうとしたとき、エレベーターから男がひとり下りてきた。


「あの、うちに何かご用ですか?」


 大学生風の男に、杏子の顔が凍りつく。


「杏子さん、この人ですか?」


 大介が小声でたずねるが、杏子の表情は曇ったままだ。


「ええ……たぶん」

「たぶんって、それ、どういう……」


 大介が追及しようとしたとき、杏子が動いた。前に立っていた梶原を押しのけ、今まさに警察手帳を見せようとしている安田の前に出ると、男を見上げた。


「あの、石崎さんですか? あたしたち、青木美緒さんのことを調べています。すこし、お話を聞かせていただけませんか?」


「美緒ちゃんのことって、やっぱり、事件なんですか?」


 石崎は驚いたように四人を見回すと、あわてて部屋のカギを開けてくれた。


「どうぞ。実はさっき、バイト先に美緒ちゃんが来て、すこし話をしたばかりなんです」


「えっ、美緒ちゃんに会ったんですか?」


「はい。記憶喪失だとは聞いてましたけど、やはり、ぼくのことも覚えてませんでした」


 すこし寂しそうな表情を浮かべながら、石崎はリビングに置かれたイスを四人にすすめた。


「実は、美緒ちゃんが記憶を失くした日も、バイトの帰りにすこし話をしていたんです。そのことを話したら、とても驚いてました」


 石崎の部屋はさっぱりと片付いていて、ひとり暮らしには広すぎる気がした。キッチンを見ると、流しには洗っていないカップや皿が二人分置かれている。


「こちらには、ひとりでお住まいですか?」


 部屋の中をうろうろと歩き回っていた安田が、リビングに面した二つのドアを見ながらたずねた。


「いえ、兄と一緒に住んでます」

「お兄さんは、今日は?」

「たぶん、まだ大学にいると思います。ぼくと違って、兄は優秀で研究熱心なんです」


 石崎がそう言ったとき、今まで黙ったままイスに座っていた杏子が、急に立ち上がった。


「あのっ、お兄さんの部屋を見せてもらえないかしら?」

「えっ、美緒ちゃんの事と、兄がなにか関係してるんですか?」


 石崎は驚いてぽかんと口を開けていたが、すぐに表情を引きしめた。


「どうぞ」


 石崎が部屋のドアを開けると、杏子は軽く頭を下げて部屋に入って行く。


 部屋は六畳ほどの大きさで、机とベッドのまわりには本棚が並んでいる。雑然としている割には清潔な部屋だ。

 杏子はまっすぐ机に近づくと、ノートパソコンにそっと手を触れた。

 目を閉じたまま、杏子はじっと動かない。いつもよりずっと長い間、杏子は目を閉じたままだ。何か良くないことがあるのではないかと、大介は心配になった。

 その杏子の目が、ハッとしたように見開かれた。


「安田さん、葛西臨海公園の川の近く、ディズニーランドが見える遊歩道をさがして!」

「わっ、わかった」


 安田が部屋を飛び出してゆく。


「大介くん、急いでバイクを出して!」

「えっ、杏子さんも葛西へ行くんですか?」

「違うわよ! 犯人はこの近くにいるの!」

「わっかりました!」


 バタバタと杏子と大介が出ていく。


「いったい……どういうことですか?」


 戸惑いを隠せない石崎の肩を、梶原がポンと叩いた。


「あとで必ず説明するから、ちょっと待っててくれや」


 最後にのっそりと出てゆく梶原の背中を、石崎は呆然と見つめた。


☆     ☆


 薄暗くなった道を、美緒は家に向かって歩いていた。

 美緒の目には、石崎はとても優しい大学生にしか見えなかった。美緒のことを気づかい、心配してくれる姿に、ときめきすら感じていた。


 杏子が危険だと言ったのは、きっと別の人のことだ。確かに、自分が追いかけて行ったのは石崎だったけれど、杏子も言っていたとおり、杏子が見ているのは美緒の記憶のカケラにすぎないのだから。


 怖かったこともすっかり忘れ、美緒はまたあの店でバイトがしてみたいとすら思いはじめていた。石崎と、もう一度マンガを貸し借りするくらい親しくなりたかった。


「美緒ちゃん!」


 後ろから呼び止められて、美緒は驚いた。さっき別れたばかりなのに、石崎が追いかけて来たのだ。


「石崎さん、どうしたんですか?」

「美緒ちゃんに、大事な話があるんだ。ちょっと一緒に来てくれないかな?」


 優しげな笑顔で問いかけられて、美緒は思わずうなずいた。けれど、美緒の手を取って歩き出した石崎の背に、なぜだか違和感をおぼえた。


「あのっ、どこへ行くんですか?」

「すぐそこだよ。多摩川の近くが静かでいいんだ」


 さっきまでの石崎とは違う強引さに、美緒は怖くなった。もう薄暗くなっているのに、多摩川の方へ行くのも嫌だった。

 美緒は、石崎の手をそっと振りほどこうとしたが、かえって痛いほど強くつかまれてしまう。


「逃げないでよ。すぐだからさ」


 肩越しに振り向いて笑う石崎は、まるで別人のように冷たい目をしている。


(どうしよう……)


 とても怖いのに、美緒は手を引かれるまま、石崎の後をついて行くしかなかった。


 歩いているうちに、違和感のひとつに気がついた。

 石崎の服装がさっきと違う。今はジーンズに白い半袖シャツを着ているが、さっきはグレーのTシャツを着ていた。もちろん、Tシャツの上から白いシャツを着たのかも知れないけれど、美緒の心は、服装だけではない違いを感じはじめていた。


 ふたりは多摩川の河川敷に下りて行った。外灯の少ない河川敷は暗く、美緒の恐怖は増していった。


「あのっ、話ってなんですか?」


 これ以上道路から離れるのが怖くて、美緒は石崎に問いかけた。


「本当に覚えてないんだね」


 ようやく美緒の手を放して、石崎は振り向いた。


「覚えてたら、卓也たくやと話せるはずないよね」

「たくや?」

「そう。さっき君と話していたのは、弟の卓也だよ。ぼくは兄の亮也りょうや。双子なんだ」


「双子?」


 美緒はようやく、自分が感じていた違和感の正体を知ることができた。

 本当にさっきの石崎とこの男は別人だったのだ。そう納得したとき、新たな恐怖が美緒の心を占めた。


「君が、ぼくのことを覚えてないのは嬉しいけど、卓也の近くをうろちょろするうちに、思い出さないとも限らないからね。悪いけど」


 そう言って差しのべられた手を、美緒はとっさに避けた。

 亮也の言っていることは、ほとんど意味がわからなかったけれど、逃げなければ命の危険があることだけはわかった。


「待てよ!」


 懸命に走る美緒の後ろから、亮也が追いかけてくる。

 亮也につかまれた手を、ショルダーバッグを投げつけるようにして逃れると、美緒はそのまま河川敷の斜面をかけ上って行く。

 もうすぐ、あともう少しだけ上れば、道路に出られる。そう思ったとき、美緒は草に足を取られて転んでしまった。


 とっさに振り返ると、追いついた亮也が笑みを浮かべながら美緒を見下ろしていた。


「悪いな」


 亮也の手が自分の首にかかった瞬間、美緒は目をつぶった。


(殺される)


 そう思ったとき、どこかからバイクの音が聞こえてきた。

 ドンッという鈍い音と衝撃に続き、美緒の首を絞めていた亮也の手がはなれた。


 美緒は大きく息を吸い込みながら、目を見開いた。

 バイクの後部座席タンデムシートに乗った杏子が、亮也に足蹴りを喰らわせている。そんなアクション映画のワンシーンのような場面が、美緒の目にはスローモーションで再生されているように見えた。


(杏子さん……)


 美緒の目がじわりと熱くなり、やがてぼやけていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る