第18話 夕焼け色に染まったブルペン

嵐野駅へ戻って来ると、僕らは家を目指して一目散に駆け出した。

 

時間がない。

 

夕焼け色に染まる空が満天の星空へと変わる前に、僕らは家からグローブとボールを引っ張り出して、公園へと向かわなければならない。


商店街の人混みをかき分けて、前に前にと走って行く。

周りの景色が変わるのが早かった。


日曜の夕方で、人は多い。

でも、水族館に比べれば大した人じゃない。

右へ、左へ。空いているスペースを見つけ出しては、人の流れに逆流するかの如く進んでいく。


一歩でも早く。

一秒でも早く。


全速力で走っていると、小晴を置いていきそうになる。

 

時折、人混みに飲み込まれそうになっている小晴の手を掴んで走った。

白く透き通るような小さな手は『あ、女の子の手だ』と一瞬で分かるほど、柔らかな感触だった。

同年代の女の子の手を握ったのなんて初めてだった。初めては彼女ではなかったけれど、小晴ならばいいだろうと思えた。


なにせ、小晴は雨の精霊なのだから。

それに、周りからは見えていないのだから。

小晴も僕を懸命に追いかけていて、その表情は笑顔だった。


「祈吏さん! もっと早くです!」


僕が小晴に合わせていることも知らず、そんなことを叫びながら。


「これ以上走ったら投げる体力なくなっちゃうよ」


「大丈夫です。私、丈夫ですから」


丈夫な奴は倒れたりしない。

だけど、僕は笑ってやる。


「あ、そう。じゃあ、競争するか?」


「いいですね。望むところです」


互いに足を止めて手を離す。

自宅までの数百メートル。周りに見えない僕だけの相手と競争する。


「よーい…」


そこまで言って、小晴が駆け出した。

白の制服がひらりと揺れ、風を切るように小晴の姿は遠のいていく。


「ずるい」


本当に、僕らは何をやっているのか。

でも、今この瞬間が楽しいのなら、いいか。


我ながら、馬鹿なことをやっていると思った。

今の僕は、過去も未来も、何も考えていなかった。



「私の勝ちですね。祈吏さん、想像してたよりずっと足が遅いですよ」


「うるさい。ずっと運動してなかったんだから仕方ないだろ」


ベットの上で跳ねる小晴は本気で喜んでいるようだった。

小晴のズルに関しては、何も言わないことにした。

きっと、言っても無駄だろうから。

いずれにせよ、結果的に僕の逆転勝利となることは目に見えている話だと思った。

 

自宅に帰宅するや否や、部屋の押し入れの中を捜索していた。

野球をするのが辛くなってから、道具をどこかへと封印したことだけは覚えていた。一度も開けようと思ったことはなかったし、その場所を書き留めたこともなかった。

だからもう、見つからないと思っていた。

忘れた頃に道具を見つけて、またいつか後悔の念に駆られるのだろうと思っていただけだった。


しかし、いざキャッチボールをするとなると、無意識のうちに身体が動いた。

直感と言うべきか何なのか、押し入れにあることが分かっていたかのように。


「あ、その奥に置いてあるやつじゃないですか?」


「だな。これだ」


…久々に見た。

想像以上に綺麗に片づけられていた段ボールの箱が押入れの奥に見える。

埃を被ったその箱をなんとか引っ張りだして来て、恐る恐る、その中身を開いてみる。

中には、黒を基調とした投手用のグローブと内野手用の茶色いグローブが入っていた。


「懐かしいな」


それを目にした瞬間、何度も油を塗って手入れした記憶が甦ってきた。

何度もこのグラブに救われ、寝る時でさえも大切にしていたのが、まるで昨日のことのように思い出していた。


「なんだか、思い出の匂いがします」


「言いたいことは、分かる」


どちらのグローブも僕に馴染むような型がついていて、その形一つ一つが僕の思い出を語っているようにさえ、見えた。


僕は、投手用のグローブを左手に嵌めてみる。自分の物という感触がしっかりとあった。

意外なことに、嫌な感じはしない。

むしろ、今ならば昔のように全力で投げることさえ出来るのではないかと思った。

さすがに、それは無理なのだろうけど。


「どうして二つあるのでしょう?」


小晴が聞いてきた。


「元々僕はピッチャーをやりたかったんだ。だけど、少年野球をしていた時、監督にサードを守れと言われていた時期があった」


「ピッチャーは投げる人ですね」


投球動作を真似る小晴に対し、頷いてみせる。


「当時の僕は投手用しか持っていなかったから、その時に内野手用のグローブを監督から譲ってもらったんだよ。初めてサードを守った時にファインプレーをした記憶が強くて、これは捨てられない」


そう言って僕は内野手用のグローブに付け替えた。

パンっと手で叩いてみると、乾いたような響く音がした。


「祈吏さん」


「ん、どうした?」


見ると、小晴が澄ました様子で笑っている。


「やっぱり、なんでもないです」


「なんだよ、それ」


その笑みは一体なんだと言うのだ。


「それより、早く行きましょう! 急がないと、空が真っ暗になってしまいます!」


しかし、確かに感傷に浸っている場合でもなさそうだった。

何のために商店街を駆け抜けて来たのか。

この一瞬で忘れてしまうところだった。


「そうだな。行こうか」


なんだか、マウンドに上がる前の気分だと思った。

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